第九章 失意
「あった! この岩じゃないかな」
桟橋から程近い一際大きな岩をパンパンと手のひらで叩きながら、打ち寄せる波の音にのみ込まれまいと圭が声を張る。
「本当だ。これだ! 間違いないよ、ほら!」
そう言って一禾が指差す先に、圭も視線を落とす。
他よりだいぶ大きいその岩の窪みには、失敗に終わったと思われる五円玉がたくさん落ちていた。
「ご縁に因んで五円玉なのかな」
言いながら圭はデニムのポケットに手を入れて小銭をあさっている。あった、と言い二枚の五円玉を一禾に見せて笑った。
慌てて部屋を飛び出して来た一禾は財布を持って来ていない。感情的な先刻の自分の行動が恥ずかしくて、一禾は顔を伏せた。
「一禾、顔あげて。一緒に乗せよう」
圭は一禾の手を取り、その掌を広げた。
そっと五円玉を握らせてくれた。
「じゃあいくよ」
圭は大きく振りかぶって、子供の頃に流行った野球アニメのピッチャーの真似をして投げた。
硬貨は高く舞い上がり、虹のような弧を描いて岩の上に消えた。
「やった! さすが圭。すごい。早く願い事!」
圭は目を瞑り、岩に向かって頭を下げた。願いを唱える圭を見守った一禾の投球は、残念ながら岩を大きく外し、五円玉は波にのまれ海に消えていった。
「朝食だ。そろそろ戻ろう」
圭は「あーあ」と項垂れる一禾の手を取り岩場を歩き出す。
この岩場へ来る時は誰もいない道を泣きながら直走った。戻る道のりは、圭と手を繋いでゆっくりと歩いている。
漁から戻ったと思われる凛乎とした男たちの声が港を賑わせ活気を生んでいる。
いつの間にか気分が晴れていることに気がついた。
穏やかな圭の横顔に、朝にしては強すぎる光が瞬く。
「ねえ圭、何をお願いしたの?」
「今はナイショ」
真っ直ぐ前を向いてナイショと言った圭は、笑っていなかった。
食堂で朝食を終え部屋に戻ると布団がきれいに片付いていた。
荷物をまとめベランダに出た。うっすら赤色だった太陽は少し高い位置へと移動し白く眩しい光を射している。
さっき一禾たちが五円玉を放り投げた岩は半分くらい海に埋まっていた。
早めにチェックアウトを済ませ海岸沿いを走る。開け放たれた窓から潮の匂いが吹き込む。
圭がアクセルを緩め真夏の碧海を横目に車を走らせる。
しばらくすると先程までの海水浴客でごった返していた海岸を過ぎ、人がまばらになってきた。
沖にサーファーらしい黒い人影がぽつりぽつり見える。
「海に降りようか」
圭は斜めに道を逸れ海岸の端に車を停めた。
遠くにサーファーの姿はあるが、ここには一禾たち以外に誰もいない。
照りつける日差しが突き刺さる。木陰を求めて辺りを見回すと、少し歩いたところに沖に向かってのびる桟橋がある。
桟橋のすぐ側に積まれたテトラポットに並んで座った。
足元では寄せた波がコンクリートに当たって泡立っている。
圭は後ろに手をついて遠くを見ていた。その視線の先でサーファーが華麗なターンを決めている。
「すごいよなぁ。波に乗ってあんなことできちゃうんだもんな」
圭の声には感情が無く、一人言のように聞こえた。
「ほんとだよね。すみれもかっこよかったな」
昔、何度か見たことがあるすみれのライディングを思い出した。細い身体で自分の身長を遥かに超えるサーフボードを器用に操る姿は、まるで波の上を自由に泳ぐイルカのようだった。
「すみれちゃんかぁ。懐かしいな、今もサーフィンやってるの?」
大学時代、すみれも交えて何度か食事をしたことがある。
圭も覚えていたようだ。
「うん、続けてるよ。試合には出てないけど、しょっちゅう海に行ってる」
懐かしいな。懐かしいね。そんなやり取りが心地よかった。
ずいぶんと太陽が高くなった。
時計の針は昼を指している。
民宿の朝食は夕食ほどではないがそれなりに豪勢で、朝から満腹のまま空腹を感じない。
圭もまだお腹一杯だと言った。
時折、海からの強い風が波の端をさらって散らす滴が涼しい。
どれくらい経っただろう。
波を待つ黒い影が、陸に移動している。
「一禾、話があるんだ」
なーに? と圭を見ると、そこに笑顔はなく、少しだけ怖い印象だった。
「うん、何?」
口火を切った圭の方がうわの空で、一禾はもう一度返事をした。
一度大きく肩で息を吸った圭は、それをフッと短く吐き出し一禾と視線をぶつけた。
言いようのない不安に一禾も息を呑む。
「俺さ、来週日本を発つんだ。だから一禾、さよならだ」
圭の眼差しがその言葉の重大さを一禾の中に押し込んできた。
――来週、
――日本を発つ、
――さよなら。
反芻する言葉が一禾の中を夜の海のように暗く滲んでいく。
頭の中は真っ白で、自分が何を言われたのか分からなくなった。
「次はいつ帰ってくるの?」
咄嗟に出た言葉だった。
さよならと言われているのにバカみたいな質問だった。
「実家の店は今年いっぱいで閉めることになったんだ。だから俺は、大学のスタジオに入る。日本に帰るつもりはないよ」
これまでの圭の言動に何一つとして決定的なものはなかった。それは単に一禾が既婚者で、夫の存在を気にしてのことだと思っていた。
一禾に夫婦やその両親との暮らしがあるように、圭にも圭の暮らしがある。
圭は最初からそれを壊すつもりはなかったのだ。
「私も連れてって、圭」
圭の目がわずかに見開く。
そんなことできるはずがない。一禾はそれを分かって言っている。でも、圭について行きたいと思う気持ちは本当だった。
圭の顔が泣きそうに歪む。唇を噛んでいるのは涙を堪えるためだろうか。
「結婚しようと思ってる人がいるんだ」
圭は苦しそうに顔を歪めながら、やっと絞り出したような声で言った。
あの日銀行で一禾と再会し、自分の中で長年くすぶっていた一禾への想いが再燃してしまったと、ごめん、と圭は言った。
逸らされた圭の眼差しから真意を汲み取ることはできない。
一禾もまた、半分は予想していた現実に抗う気はなかった。
