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第八章 静謐


 土曜ということもあり、公園は多くの家族連れで賑わっていた。
 時間毎に躍動する噴水で幼い子供たちが全身ずぶ濡れになって遊んでいる。
 奥の芝生では大きな犬がボールを咥えて走っていて、端の木陰ではレジャーシートの上で弁当を広げる家族連れも多い。
 スケートボード禁止の貼り紙を無視して練習に励む少年たちの通路を抜け、大音量でダンスの練習に汗を流す派手な衣装の先にようやく待ち合わせ場所が見える。
 公園の駐車場があるこの場所は、一禾が降りる駅とは反対側に位置するため、北側の入口からこの南側の入口まで公園を縦断してきたのだ。
 早く会いたくて胸を踊らせ、気分は女子大生のあの頃のままだ。
 この広場を抜けると……。
 石の階段の手すりにもたれる後ろ姿を見つけた。
 あの頃と変わらない細すぎない大きな背中。風になびく少し長めの前髪をかきあげ遠くを見ている。一禾は、その愛しい姿をずっと見ていたいと思った。
 圭の後ろ姿に見とれていると、突然圭が振り向いた。驚いて声が出てしまった一禾を圭は笑って迎えた。
「お待たせ。待った?」
「俺も今きたところ」
 あの頃と変わらない圭の笑顔がたまらなく愛しいと思った。

 高速道路に入る前にコンビニに寄り軽食と飲み物を買った。圭が小腹が減ったと言ったからだ。
「なんで昼の待ち合わせにしちゃったんだろうな」
 おにぎりを頬張りながら他人事のような台詞を吐く圭が可愛い。
「圭はいっつもそうやって、後で気づくんだよね。ちょっと考えればわかることなのにね」
 助手席でおにぎりのビニールパッケージを剥いて圭に渡し、こぼれた米粒を、どこ行った? と探す。
 あの頃の二人に戻ったようでなんだか気恥ずかしいけれど、とても幸せな気分になった。
「お茶飲む?」
「うん飲む」
「サンドイッチ食べる?」
「まだいい」
 そんなやり取りが心地よくて、車内は昔の話で盛り上がった。
「そういえば先月、タケオの結婚式に行ってきたよ。あのゴリラ面のくせに奥さんめちゃくちゃ美人でさ、おれもうビックリしすぎて披露宴の記憶ないよ」
「へー、わかんないもんだよね。写真あったら見せてよ」
「あるある。もちろん撮ったよ。奥さんだけな」
「圭、それひどーい」
 二人で大笑いした。話の中の圭もタケオもまだあの頃のまま残ってる。
 こんな穏やかな気持ちは本当に久しぶりだった。このまま時間が止まってしまえばいいのにと、おとぎばなしのようなことを考えてしまった。
 運転席の圭の横顔をずっと見ていたくて、一禾はずっと横ばかり見ている。不意にハンドルから離れた圭の左手が、一禾の頬を撫でた。
 圭の手が濡れている。そっか、私泣いてるんだ。
 自覚した途端、堰を切ったように涙が溢れどうしようもないほどに泣きじゃくった。
 圭はただ黙って手を握っていてくれた。なにも聞かず、あの頃と変わらず寄り添ってくれる。

 ユリの見頃がピークということもあり、駐車場は満車状態だった。何度か周回して空いたところにすかさず圭は車を滑り込ませた。
「さっすが圭」
 イエーイと二人で手を叩き、早速入り口へ向かう。
 昔は係員が手売りしていたチケット売り場が券売機になっていて、おぉ~! と二人で顔を合わせた。
 ゲートを抜けると一面ユリ畑になっていて、昔より増えたねと言いながら早速、圭が写真を撮り始めた。

 ――金平糖の中にいるみたい。

 昔の圭の言葉がよみがえる。圭は覚えているだろうか。
 砂糖菓子のようなユリの花を夢中で撮影する圭の後ろ姿を見ていたら、きっと覚えているだろうと思えた。
 被写体を追う圭の熱は今も変わっていない。
「イチカ!」
 不意に呼ばれて顔を向けると圭はパシャとシャッターを切った。
「あー絶対に今の変な顔だった」
 拗ねる一禾に悪戯に笑って応える。
 いつのまにか隣を歩く圭の左手が一禾の右手に指を絡めてくる。その手を隠すようにゴンドラの列に並んだ。
 人混みの中で絡み合う指と指が、二人の時間を急速に戻していくように感じた。
 一禾は十年前に放れてしまったこの手を、もう二度と放したくないと思った。
 ゴンドラからの景色は昔と少し変わっていた。丘の下に見えていた鉄筋の白い建物がなくなっていて、その代わりにオシャレなコテージが建っていた。
 何棟も同じ形の建物が並んでいるので宿泊施設かな、と圭が言った。

 ――絵はがき残念だったね。

 最後に来た時、売店が閉まっていて絵ハガキを買えなかった。今日こそは買えると思ったのに。あの日の続きを望んでいた一禾には残念でならなかった。
 ゴンドラの終点が見えてくると一禾は少し緊張する。ぴょんと軽く飛べばいいだけのことなのに以前転んでゴンドラを止めてしまい、申し訳ないのと恥ずかしいのとで圭の手を引いて走って逃げたことがある。
「一禾、緊張してる」
 圭が一禾の顔を覗き見る。
「せーので行くよ」
 そう言って微笑んだ。
 いよいよ一禾たちの順番が来ると、せーのと圭が呟いた。それと同時に一禾の腰に手を回し、ひょいと抱きかかえるようにジャンプした。勢いでバランスを崩した一禾を、今度は両腕で抱き寄せた。圭の胸に飛び込む格好でしがみつく。
 圭の匂いが心地よくずっとこうしていたいと思った。
「一禾、いこっか」
 目尻を下げた圭の目はいつだって優しい。
 自然と差し出された圭の手を取りゆっくりと歩き出す。あの頃に想いを馳せながら。

 入場ゲートで園内マップをもらっていたが地図など見なくても進むルートは身体が覚えている。
 一禾と圭は、特に申し合わせた訳でもなく昔話に花を咲かせながら迷わず進んだ。
 その足取りは軽く、あの頃の歩幅に重ねているように感じた。
「あれ、道がないや」
 あの頃の二人に行き先を任せて歩いていると、ふいに圭が立ち止まった。圭の言葉に一禾は繋いだ手にキュッと力を入れる。
「ホントだ。近道がなくなってる」
 当時、ここから売店まで続いていた道。
 緩やかにカーブするメインの通りを直線で結んだ近道のような細い道。積極的に案内されているルートではなかったので、もしかすると作業用のルートだったのかもしれない。
 あの頃の記憶を辿ってみる。目を閉じると当時の近道に今より少年ぽい圭が微笑んでいる。

 ――好きだよ、一禾。

 ――私も、圭が好き。

 この先の少し窪んだ場所で、一禾と圭はキスをした。服にユリの花粉が付くのも構わず何度も何度も抱き合いキスをした。あのとき圭は、何度も好きだと言った。一禾が好きだと熱を帯びた甘い声で何度も。
「一禾、こっち」
 圭の言葉に呼び戻されて目を開けると、いつのまにか一禾から手を離した圭が少し先のカーブのところから一禾に向かって手を伸ばす。
 一禾が近づくと、圭はサッと手を引っ込めた。
 次の瞬間、圭の姿が見えなくなった。慌てて圭に追い付くと右側の窪んだ場所から圭の手が一禾の腕を掴んだ。
 驚いた一禾はバランスを崩し、反射的に圭を振り仰ぐ体勢になった。
 圭の笑顔の後ろには、所狭しといった感じで真っ白なカサブランカが群生していた。
 一禾は思わず「わぁ~」と声をあげた。

「ここ……」
 間違いない、二人の秘密の場所。
 あの・・窪みだった。

 メインの通路から外れ地図にもないこの場所は他の客は通らない。秘密基地に隠れる子供のように二人は顔を寄せ笑った。服に花粉が付いたけれど、あの頃みたいに気にしない。
「圭、ありがとう」
 言い終える前に圭が一禾の腰を掻き抱いた。
 一禾の腰に回された手がグイっと寄せられ、圭の顔が近づく。一禾も目を閉じ圭を受け入れる。
 圭の唇は真夏なのにひんやりと冷たく、スポーツドリンクの味がした。
 重ねた唇を圭の舌先が割り入ってくる。一禾は圭のそれをゆっくり吸い込む。甘い蜜を一滴も溢さないよう丁寧に舌先で掬い上げる。上顎をなぞられ、ん……と鼻が鳴る。息をするのも惜しむように、深く深く舌をねじ込む。
 一禾、一禾、とうわ言のように囁く圭にしがみつく事でそれに応え、何度も何度もキスをした。
 あの最後の夏を取り戻すかのように、何度も抱き合ってキスをした。

 陽も大きく傾き、ユリの丘にオレンジ色のヴェールがなびく。
「ねえ、影おくりしようよ」
「何だっけそれ、なんか懐かしい気がするけど、思い出せないや」
 もう三十年以上も昔、小学校の校庭でクラスメイトと遊んだ思い出。
 足元から伸びる影を見つめ瞬きを我慢して十数える。そしてそのまま視線を空へと送る。
「わぁ、思い出した。昔これやったよ! 影が空に写るんだよな。やろうよ、一禾!」
 懐かしさに目を輝かせる圭を見ていると、きっとこんなふうにキラキラした瞳の少年だったのだろうと想像できた。そう思うと、一禾は圭が愛しくて堪らなくなった。
 オレンジ色の山を登っていくように、広い夕暮れの空に一禾と圭の影が並んで写る。
 一禾は繋いだ手にギュッと力を込めた。
 同じように握り返した圭の横顔は、遠くに揺れる落日に照らされた寄り添う二つの影を見つめていた。
 ヴェールで反射した圭の前髪がさらりと風になびき、オレンジに色付いた圭の唇が優しく微笑んでいる。
 その蠱惑な横顔を、一禾はずっと見つめていたいと思った。

 営業終了の音楽に見送られながら駐車場を後にした。
 来た時はあれほど列を成し盛大に埃を巻き立てていた駐車場の砂利は、圭のタイヤに踏まれてバリバリと控えめに音を立てている。
 炎夏の熱気がこもった車内は、顔をしかめてしまうほどに息苦しい。吹き出し口から勢いよく出てくる風はあまり冷たくない。
 蛇行した山道を下り高速道路の入口を目指す車内に浮かれた会話は無く、エアコンの吹き出し口からゴーゴーという稼働音だけが響いている。
 国道を南下すると二つ先の信号に高速道路の入口を示す看板が見えた。
 今日が終わってしまう事実に抗いたい気持ちが、圭の左手を捕まえていた。
 肘置きに乗せられた肘から、だらんと垂れた細長い圭の指先に、一禾は自分の指を絡めた。
 突然触れられてピクッと反応した圭の手が、絡まった指をほどき一禾の掌ごとギュッと握りしめた。
 視界の端で圭が自分を見ている。ここで視線をぶつけてしまえば、きっと後戻りはできなくなる。
 一禾は、溢れ出そうな感情に必死で蓋をした。
 信号が青に変わると、圭は帰り方向とは逆方面に車を進める。
 必死で押さえた昂る感情が、一禾の中で再び熱を帯び始める。

 ――もう戻れないかもしれない。

 期待と少しの不安が過る。何に対しての不安なのだろう。自分には夫がいるから? でも一禾の中に卓馬への罪悪感は全くなかった。
 むしろこうなることを期待していたからこその不安なのだろうか。そうだ、一禾はそうなることをずっと期待していた。
 その証拠の品がワンピースの下で出番を待っている。

 ビーチ客でごった返す海岸通りを抜け、坂を登ったところにある古い民宿に車が滑り込む。
 穴場スポットと銘打っているわりに、海に出るには少し距離があるせいか、シーズンピークのこの時期でも何部屋か空きがあった。
 二階の角に位置するその部屋は、八畳の和室にL字にぐるっとベランダがある。海水浴場から少し外れた岩場の遠浅の海岸をずっと沖の方まで見渡せる景色は、穴場と言われるに相応しい情緒があった。
 すっぽりと太陽を呑み込んだ後の水平線は、うっすらと暖色の余韻を残している。
 女将と呼ぶには少し違和感を覚える小麦色の素肌に金髪の女性が、夕食の時間を伝えに来た。夕食までまだ少し時間がかかると言う金髪女将の薦めで海へ降りてみることにした。
 急に飛び込んだのは自分たちなので、食事の準備に少々時間がかかっても仕方ない。
 日没後の海は濃紺に染まり徒波のリズムでその濃度を変える。
 海岸沿いに並ぶ大きなホテルの灯りに照らされ波の表面がキラキラと反射している。
 聞こえるのは静かに繰り返す波の音と潮風が耳に当たる音だけ。
 昼間の喧騒の気配は感じられなかった。
 こんなふうに気持ちを投げ出して誰かと過ごすのは、いつぶりだろう。
 嫁らしく、妻らしく普通を貫く為に本心を隠し、夫に愛されていると自分に言い聞かせ、そしてそれを演じる。
 世の中のおしどり夫婦と呼ばれる夫婦も、実は自分たち夫婦と同類なのだと虚しく理論付ける。長いこと傷めつけられた一禾の心は、もうボロボロだった。
「夜の海、好きかも」
 目を閉じて岩波の音に耳を澄ますと、このまま海に吸い込まれそうなふわふわとした不思議な気持ちになった。
 一歩、また一歩、三回それを繰り返すとピチャッと爪先に潮花が咲いた。
 なんて綺麗なんだろう。
 一禾は更に一歩ずつ波間に爪先を進めた。
「一禾!」
 岩波の音に紛れて少し慌てた愛しい声が呼んでいる。

 ――戻らなきゃ。
 ――戻らない。

 嘘ばっかりな毎日はもう嫌だ。
 卓馬が自分を愛していないことに本当は気付いていた。もうずっと前から気付いていたけれど、今自分の手の内にある生活を失いたくなかった。
 卓馬が好きだから全てを受け入れようと決めたのに。
 もう一度、今度は近くで呼ばれ足を止めた。
 気が付くと一禾は膝まで水に浸かっていた。
 潮風に煽られ巻き上がる髪を抑えながら呆然と立ち尽くす一禾の頬に、圭が指を這わす。濡れた圭の指が泣いている自分に気付かせる。
 次から次と溢れ出るものを必死に押さえようと目を閉じる。瞑った瞼を抉じ開けて出てくる涙を圭の唇が吸いとりながら降りてくる。耳にかかる髪を掻き上げられ、圭の湿った息が
「一禾」
 と囁く。
 薄明かりを背にした圭の表情は分からない。けれど、少し掠れた優しい声が一禾を吸い込もうとする闇から引き戻してくれた。
「教えてもらった岩、さすがに見えないなぁ」
「だね。明日また来よう」
 民宿までは岩場の方から帰ろう。そう言ったのは圭だった。

 海岸の端に沖に向かって赤い桟橋がある。
 そのすぐ側に見える少し大きめの岩は「人の縁」にまつわるジンクスがあると女将が教えてくれた。
 小銭を投げて岩の上に乗れば願い事が叶い、外せば叶わないという分かりやすいルールだった。
「うちは一発で乗せましたよ。願いが叶って、お陰様でラブラブです」
 金髪女将は小麦色の頬をうっすら染め上げそう言って笑った。
 夕食の膳は想像していたよりずっと豪勢で、今朝釣れたという刺身の舟盛りまで付いてきた。
 こんなふうに圭と旅行のような気分で外泊をするのは初めてだった。
 あの頃は大学を出たばかりの新人で、給料も今よりだいぶ少なかった。
 金銭的に余裕のなかった二人のデートといえば専らカメラで、近くの公園や海へ弁当を持って出掛けた。   
 一禾はファインダー越しに見えている圭の世界に自分がいるという幸福感で胸がいっぱいだった。
 たまの遠出は決まってユリの丘で、帰りはラブホテルで呆れるほど愛し合った。
 こんな毎日がずっと続くと思っていたし、圭がいなくなるなんて一度も考えなかった。

 食べきれないと思った御膳はなんだかんだペロリとたいらげた。
 向かいに座る圭はデザートのシャーベットがもたらす脳天へ突き抜ける刺激に片目を瞑って耐えている。 
 圭は一禾に何も聞かない。
 あの時海岸で、このまま時が止まってほしいと強く願った。
 闇の中を漂う波があの頃の自分に引き合わせてくれるような気がした。そしてこのまま永遠に綺麗な想い出の中で圭と一緒にいたいと思ったら、夜の海へと足が進んでいた。
 突然の一禾の挙動に圭は狼狽えていたはずだ。心配をかけた手前、自分には説明する義務さえ感じていた。
 でも圭は一禾に何も聞かない。
 夕食の善を下げに来たのは白髪の女性だった。物腰の柔らかなゆったりとした口調で料理の感想を聞いてきた。
 一禾はとても美味しかったと礼を言った。
 圭は魚について女性に話を聞いていた。
 少し飲みすぎたかもしれない。一禾がベランダに出ると、海風が火照った頬を優しく冷やしてくれた。
 岩場に打ち付ける波の音が暗闇のBGMとなって夜の海を演出している。
 後ろから腰に手をまわされ、圭の顔を振り仰ぐ。
 客間から漏れる明かりで視線がぶつかる。
 どちらともなく唇を合わせ、触れ合うだけのそれが次第に深く互いを求め合う。何度も重ねる唇からフッと息が漏れる。
 身体中が圭を求めて疼きだす。
「けい」
 漏れだす声に熱を乗せ、全身で圭を欲しがる自分に抗うことができない。
「いちか」
 圭もまた、一禾の熱を全身で受け止める。
 止まないキスに悶えながら縺れるように布団に雪崩れ込む。
 息ができないほど夢中で互いを求め合う。
 昂る欲望とは裏腹に、一枚ずつ丁寧に一禾の服を脱がせていく圭に、早く早くと急かしたい気持ちを抑えながら、一禾は彼の愛撫に身を任せる。
 一禾、一禾、と圭が耳元で何度も囁く。
 激しい律動に一禾の声が漏れる。奥を貫かれる度に身を捩る一禾に、圭が更に突き上げる。
 圭の眉間にギュッと力が入り、険しい顔で目を閉じた。
 同時に一禾の中でビクンと跳ねると下腹部に熱いものが流れ込む。
 空いた時間を埋めようとしているのかもしれない。
 あの頃の二人のように何度も求め、唇を重ね、抱き合った。

 何度か短い夢を繰り返し、三度目に目が覚めた時に隣に圭がいないことに気がついた。
 最後に見た夢と同じ状況に一禾は飛び起き部屋を見回す。
 トイレにもいない。
 部屋の入口に圭の靴が無く、どうしようもなく不安になる。
 一禾は急いで着替え部屋の外に出る。まだ薄暗い廊下に浮かぶ非常口を示す灯りが眩しい。
 圭、圭、圭、再び部屋に戻り、先程の夢を反芻しハッとする。
 部屋に戻り勢い良くベランダへ飛び出し海を見下ろすと、岩場に佇む圭の後ろ姿があった。
 白んだ空にうっすら日が灯る。一禾は圭のいる岩場まで走った。
 玄関では従業員の男性が掃き掃除をしていた。
 おはようございます、と控えめな挨拶のあと玄関をすり抜け一目散に走った。
 もうずいぶん長いこと走っていないせいで、すぐに息切れした。
 荒い息で肩を上下させながら、泣いているせいで余計に苦しいのだと気づく。
 泣けば泣くほど苦しさは増し嗚咽が漏れる。
 両手を膝に呼吸を整える。
 視線の端には朝日の色に滲んだ、沖に浮かぶ何隻もの小さい漁船が風浪にもまれている。  
「一禾?」
 しゃがみこんで項垂れる一禾に、圭が走り寄る。
「けい!」
 圭の首に両手を回し、わんわん泣いた。
 四十過ぎのいい歳をした女が、まるでおもちゃをねだる幼児のように。
 人目が無いのを良いことに、一禾は涙が出尽くすまで泣いた。
 圭は何も言わず、腕の中の熱情を抱き締めた。

 ――夜中に目を覚ますと、隣に寝ているはずの圭の姿がない。
 部屋中を見回しても、トイレを覗いても圭の姿が見当たらない。
 大きな波の音が耳に刺さり、一禾は岩場に視線を向ける。岩場のしぶきを浴びながら、波に逆らい沖へ進む圭の後ろ姿に必死で呼び掛ける――

 ――圭、

 ――待って、 

 ――行かないで、

 ――私を一人にしないで。

 ひときわ大きい波が圭を呑み込む。繰り返す波のリズムに圭の身体が消えていく――

「怖い夢? そっか。でも俺はここにいるから。一禾の涙が消えるまで、俺は一禾のそばにいるからさ」
 涙でガビガビになった一禾の顔を両手で包みながら圭がそっと呟く。

 ――その後は?
 一禾は聞こうとしてやめた。
 ずっと一緒にはいられない。わかっている。
 一禾には夫がいる。だから圭も決定的なことは言わない。圭はいつも一禾に逃げ道を作る。それは圭が自分の為に作った逃げ道でもあるのかもしれない。
 圭が一禾に何も聞かないのは、逃げ道を塞がないためなのかもしれない。
 一禾が元の生活にいつでも戻れるように、リードは外れたままだ。


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