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第二章 徒爾


 葬儀場近くのコインパーキングで一禾と別れたすみれは、なんとなく一人になりたくなくてトオルのマンションへ向かった。
 トオルは地元ではそこそこ名の知れた建設会社の息子で、すみれより五つ歳上だ。
 肩にかかる癖のない黒髪は細すぎずほどよい毛量で、いつも無造作に後ろでひとつに束ねている。細身の高身長は、長めの黒髪を一層引き立てファッション誌のモデルのようだ。鼻筋の通った彫りの深い顔は、どこか日本人離れした印象を与えている。彼のような容姿を、端的にイケメンと呼ぶのだろう。おまけに夏はサーフィン、冬はスノーボードとイケメンの名に相応しい要素が満載で、世の女性陣が放っておくはずがない。
 到着したマンションの玄関のドアに手をかけ、連絡せずに来てしまったことをすみれは少し後悔した。以前、彼の妻とニアミスしたことがあったからだ。
 トオルの本宅はここから車で二十分程度のところだが、特別な顧客との打ち合わせや事務的な作業をするときにこの部屋を使う。というのは体裁で、専らすみれとの情事用だ。経理的な別の理由もありそうだがそこは聞いていない。暮らしぶりは、さすがご令嗣様といった感じだ。妻は必ず週末には掃除に来るという。できた嫁なのか、それとも……。どのみち今日は平日だ。妻はいない、はず。
「今日は来ないと思ってた。逢えてラッキー」
 いつもと変わらない飄々とした物言いですみれを迎え入れる。玄関のドアを後ろ手に閉めるとトオルの出迎えのキスが降ってくる。額から頬、首筋へ。
「ねぇ、お清めするからお塩ちょうだい」
 冷えた首筋にトオルの熱い吐息がかかり身悶えながら出た声は少しかすれた。葬儀場を出るときにしてきただろうと言うトオルの言葉に、そういえば出口でやったっけと思い出した。
「なんか、いやらしいな。喪服も色っぽい」
 どこまでも不謹慎な男は、喪服の膨らみに隠れた細い腰に手を回し今にも崩れそうなすみれを掻き抱く。彼女の薄くて小さな唇をトオルの舌が割り入ってくる。ぬるりと入ってきた熱いそれに上顎をなぞられ、下腹の奥が疼く。
「……んっ」
 すみれは顔を反らしてトオルに待ったをかけると、抱えていた大きな精進落としの包みを玄関の端にそっと置いた。それを横目に焦らされたトオルと縺れながら奥の寝室へと入る。そしてクレバスから一気に滑り落ちる深雪のようにベッドへと雪崩れ込んだ。
 激しく絡み合う二人分の重みを受けてシーツが波立つ。舞い上がった残り香が鼻に付くのを阻止するように、トオルの甘くて少し強めのキスが降り注ぐ。
 息もつかせないほど貪るトオルを、すみれは鼻で息を抜いて応える。その間にも喪服のワンピースの裾が捲り上がりトオルの熱い手が滑り込む。すみれの形を確かめるように内側の白い肌を蛇行しながら駆け上がってくる。男にしては細く骨張った指が、寄せ上げられた冷えた谷間をなぞるように押し入り、弾力の中に不自然に立ち上がった二つの突起をまさぐる。もう片方の手で下着を剥ぎ、こぼれた膨らみを剥きたての果実のように突起ごと頬張った。熱い湿気が胸から全身に広がり、じっとりと汗ばんだトオルの手がすみれの身体のラインに沿って下りていく。行き先を確かめながらゆっくりとなぞる指が、砂漠のオアシスのように溢れ出る水瓶に先を埋めていく。トオルの熱い指がすみれの中でゆっくりと円を描くと、背中が仰け反り浅い喘ぎが漏れる。
 舌で胸を愛撫されながら、右手で触られた下半身でとろけた蜜が甘い音を立てる。
 身体を知り尽くされ、自分のものだと強く求めてくるこの男には妻がいる。嫌と言うほど纏わりつく安っぽい残り香の中で、この男は自分を抱く。妻のことはどんなふうに抱いているのだろう。情愛に満ちた言葉をささやくのだろうか。
 あぁ、もうやめよう。何度も考えては流されてしまう。この男を好きだと思う気持ちに抗えず、鼻の奥がツンと疼く。
 両膝を割り、組み敷いたすみれの体から溢れ出る蜜を絡めとるように、固い肉塊をぱっくりと口を開けたすみれの中心に当てる。今にも破裂しそうに脈打つそれが、ゆっくりとすみれを押し広げて入ってくる。クチュっとみずみずしい音をたて進む道を確かめるように、ゆっくりと。すみれの欲しがる顔を楽しむように、わざとゆっくりと進める。最奥に到達したら、更にゆっくりと来た道を戻っていく。今度は力強く、グッと突き上げられて頭の中がとろけていく。
「すみれ、愛してるよ」
 激しい律動の中、その最果ての兆しが沸き上がる。耳元で愛してると囁く声が、自動音声のように色もなくすみれの胸に突き刺さる。こんな言葉に欲情する自分もまた、色のない言葉で応える。
「私も」
 トオルはすみれの膝裏を掬い上げ、深いところまで貫く。さらに激しくなった律動に大きく突き上げられ、すみれの中に熱いものが広がった。放出の度にビクンと腰を震わすトオルの首に手を回し引き寄せる。動物のような細かく荒い呼吸を漏らす口元に舌を這わせ唇を重ねる。
 やっぱりこの唇が愛しい。
 トオルは、すみれの上にだらりと果てた身体を投げ出すと、自動音声のような「愛してるよ」を繰り返す。この言葉は本物だと、自分にだけ注がれる愛情だと思いたい。
 妻との中に割って入ったのは自分だ。だからこの男を欲しがってはいけない。目を閉じると重なったまつ毛の隙間から涙が溢れた。
「なに? そんなに? 泣くほど良かった?」
 トオルの見当違いな問いが、素なのか意図してなのかはわからない。けれど……。
「うん、すっごく良かった」
 こちらが意図した返事には素で気付いていないようだ。
 この涙は葬儀の感傷。すみれはそう自分に言い聞かせた。

 規則的な機械音に鼓膜を撫でられ目を覚ますと、キャビネットに置かれたトオルのスマートフォンが光で存在を示している。短い音はメールの知らせか。急用なら電話をかけてくるだろうと思い、隣で寝息を立てるトオルに声をかけるのをやめた。すみれはトオルを起こさないようにするりとベッドを抜けると、脱ぎ捨てられた喪服のジャケットだけを羽織って煙草に火を点けた。部屋の隅に置かれた脚の高いイタリア製の椅子に座り両膝を抱え、ゆっくりと紫煙を吐く。
 闇に浮かんだ一筋の白い線が、細く開けられた窓の隙間から真っ黒の空へと吸い込まれ溶けていく。
 先程のメールは妻からのものだろうか。
 考えても仕方のないことでいちいち感情を揺さぶられる。膝に顔を埋めると、葬儀のときの亜美が浮かぶ。哀傷きわまりない亜美の隣にしっかりと寄り添い肩を抱く夫は、優しく妻を見据えていた。思春期真っ只中の一人息子は泣き止まない母の手をずっと握っていた。テレビドラマの一コマのような光景が他人事で、現実のことではない錯覚に陥った。すみれは、そう遠くないだろう未来に訪れる両親の葬儀の事を考えた。喪主は自分だろうか。葬儀社の手配に親戚への連絡。火葬場の予約。その前に寺の予約に墓の準備だろうか。全てすみれ一人が尽力しなければならないとなると、亜美のように泣いている場合ではない。

 ポツリ、と細く開いた窓の隙間から雨粒が舞い込んだ。次第に大きくなる雨音に耳を澄ます。春の雨はビューっという風の音に拐われて、パラパラと吹き乱れる。すみれは、降り込む雨粒に顔をしかめながら、そっと窓を閉めた。
 目下で背を丸めて眠る男に、自分が愛憎のはざまで苦しんでいるなんて悟られてたまるか。すみれは大きくひとつ息を吐くと、シャワールームへ向かった。

 すみれが勤務する内科クリニックにはじめてトオルが来たのは三年前の春、葉桜が擦り合うちょうど今くらいの時期だった。毎月、定期受診に訪れる青山春子の付き添いだった。
 その日は春子の胃の内視鏡検査で、胃の動きを止めるための注射をすると目がチカチカして歩けないと言う彼女を介抱する役だった。春子は、クリニックの近所に事務所を構えるデザイン会社の令嬢でそれなりの品位を携えていた。小花柄のシフォンのワンピースからすらりと伸びた色白の手足は細く、ふわふわした明るすぎない栗色の髪を肩のラインできれいに内巻きにセットしている。陶器のように青白い手足とは違って頬は血色良くほんのりピンク色に染め上げられ、眉の少し下の位置で切り揃えられた前髪が黒目がちの大きな瞳を際立たせていた。そのせいかカルテに記された実年齢よりもずっと幼く見えた。すれ違い様に鼻に付く流行りものの安っぽい匂いが鬱陶しく、
「注射怖~い」
 と、鼻にかかったト長調の声が耳障りな女だった。
 春子は学生の頃にいじめが原因で摂食障害を患った際に胃を壊し、それ以来このクリニックに通院している。胃はとっくに良くなっているはずだが、何かにつけて胃の不調を訴えては受診に来る。それは胃じゃなくて別の問題だろうと言うことはクリニックの暗黙領域だ。院長に話しを聞いてもらってスッキリしたいのだろうが、だったら流行りの占い師の所にでも駆け込めばいいのに、とすみれは待合室のテレビの中でエキゾチックな服に色眼鏡をかけた恰幅の良い「なんちゃらの母」を見つめた。
 検査後、院長からの所見の説明も終わり診察室から出てくる頃には春子のぐずぐずも収まり、おとなしくなっていた。くったりと男の腕に体を預け意気消沈している春子の白い肌がさらに青白く感じた。待合室の長椅子に春子を座らせると会計のため男が窓口へと来た。
「いつもの胃のお薬が一ヶ月分ですね、向かいの薬局でお願いしますね。今日のお会計はこちらです」
 男が徐に尻から出した長財布。ブランド品のそれからスッと一万円札を差し出した男の手に、すみれの目が留まった。一瞬だったが手首にくっきり日焼けの痕が見えたからだ。
 すみれは学生の頃からサーフィンをやっていて、自身の手首にはウェットスーツの日焼けの痕がある。もしかしてこの男もサーフィンをやるのだろうか。会計を終えて春子の肩を抱く男を窓口の柱越しに目で追ってしまう。良く見ると肌もいい感じに日焼けしている。隣の春子が色白なせいもあるかもしれないが。春子を連れて帰る男の後姿から目がはなせず視界からフェードアウトするまで目で追っていた。
「あの彼、益田建設の長男よね。あの二人、結婚するって聞いたわよ」
 同じように隣で二人を見送っていた鈴木さんが、すみれに耳打ちした。
 誰に聞いたか知らないが、こういうおばちゃんはどこにでもいる。社長同士がゴルフ仲間で、その上、先代の頃から取引もあるらしい。許嫁というやつだろうか。
 鈴木さんは、このクリニックの一番の古顔で、大先生の時代から従事している。
 今は代替わりをして、息子が院長なのだが、彼のオムツを替えてやった、ミルクを作って飲ませた、離乳食を与えた。と、まるで我が子のような口ぶりに、産着を着た赤ん坊の顔を院長の顔と置き換えて想像してしまい笑いがとまらなくなった。結局、鈴木さんの話を最後まで聞いてしまった自分も所詮おばちゃんだな、とすみれは内心自虐した。

 休診日の木曜、すみれは、メンテナンスをお願いしていた店にサーフボードを引き取りに行った。思いの外、早く仕上がっていたので他に予定がないすみれは、馴染みのアクセサリーショップに立ち寄ることにした。シルバーと革細工をメインとする店で、ヨーロピアンゴシックを匂わす繊細に彫り込まれたオーナーのオリジナルデザインが人気の店だ。この日もすみれ好みのデザインがいくつかあり、買ってしまおうかと悩んでいた。
「そのフェザー、好きでしょ」
 すみれがペンダントヘッドのところで真剣に悩んでいると、オーナーが声をかけてきた。
 五十代前半といった見た目のオーナーは、小麦色の肌に口髭を生やしている。腰まである白髪の混じった長い髪をうなじより少し上のところで一つにまとめていて、その首筋の先には自身のデザインしたアクセサリーが存在を放っている。手首と両指にも同じように重厚な作品を携えている。鼻筋が通り少し奥まった目元が俳優の誰かに似ているなと思った。
「それ、ラピスラズリ。男の恋愛最強ストーンてとこかな」
 ニヒヒと笑う口元が少年のようだ。
 フェザー上部の端に濃紺の石が埋められているそれは、オーナーの見立て通りすみれの好みど真ん中だった。さすが炯眼の持ち主といったところか。
 ふと、隣の陳列棚に目をやると、先程のフェザーと同じ色のラピスラズリがあしらわれた指輪が二つ並んでいる。
「それもいいでしょう、お得意さんからの注文でさ、結婚指輪なんだよ」
 一粒石がどーんと鎮座するそれが結婚指輪としてはどうなのかと違和感を覚えた。その一つは確かに指輪の径がとても小さく、女性サイズというより子供用にも見える。それほど指の細い人なのだろう。

 オーナーと軽く雑談をしながら数十分ほど物色していると、不意にオーナーが入口の外に視線を飛ばした。一瞬の会話の途切れに、反射的にすみれもそちらに目を向ける。するとその先に、見知った顔があった。
 あ、あの男――――
 男は、「こんちは」と気さくな挨拶と共に店に入ってくると、慣れた様子でオーナーと話しを弾ませる。
 なんとなく気まずいすみれは、商品を見るふりをしながら男に背を向けるよう反対側の陳列棚の方へ移動した。
 長いこと受付業務をしていると、意外と患者に顔を知られているもので、こちらが気付かなくても患者の方から「この前、あそこにいたでしょう」とわざわざ受付カウンターまで言いに来る。その時に声をかけてくれればいいものを、わざわざ取っておくみたいに。そして、決まって勝ち誇った言い種で詰め寄る。なんだか悪いことをしているようで不愉快になるので、すみれはいつも気付かれる前に退散することにしている。この男が他の患者と同じとは思えないが、すみれはなんとなくいつもの癖で避けた。
 男はしばらくオーナーと話をして、何点か購入して三十分程で帰っていった。すみれもじっくりとアクセサリーを吟味したかったので特に苦でもなかった。
「好みのあったかい?」
 男を見送ったオーナーがすみれに声をかけた。
 先程まで奥の革細工コーナーでウォレットを選んでいた若いカップルも帰ったようだ。客はすみれだけになった。
 すみれはなんとなく最初に見たラピスラズリのフェザーが気になったのでもう一度みせてもらおうとそちらを指すと、あれ?
 隣にあったはずのラピスラズリの指輪がなくなっている。思わず動きの止まったすみれに気がついたオーナーが、指輪はさっき引き取りに来たと言う。
 あ、あの男か。
 あの男が注文したものだったんだ。なんだろう、なんとなく腹の内側がぞわぞわする。その焦りに似た感情にすみれは戸惑っていた。
 石の向きに拘わったとか、裏面の彫刻の文字に悩んだとか、先程の指輪についてオーナーはすみれに向かって延々と話している。だがすみれの耳には、壁の向こうで誰かがしゃべってる程度にしか届いていなかった。

 翌月の診療日、青山春子はまた男を伴って診察に訪れた。相変わらずの可愛らしい容姿に、安っぽい甘い香りを携えていた。
 今回もまた、男が会計を済ませた。前回と同じように手首にくっきりと日焼けの跡を纏った男の指には、先日アクセサリー屋で見た、ラピスラズリの指輪は無かった。
 春子の指は確認することができなかったが、男が指輪をつけていないことに何故か安堵した。すみれは、そんなことを思う自分に少し動揺し、なんとなく男の手の行く先々を目で追っていた。
 男は、釣り銭を財布にしまい終えても、窓口の前に佇んだままなかなか立ち去る様子を見せない。どうしたのかと、すみれはおずおずと男の顔を見上げた。
 すると、男の視線はすみれの胸元あたりに向けられ、まるでゼンマイの切れたおもちゃのように固まっていた。男は、すみれに見られている事に気付くとハッと我に返り「すみません」と俯いた。
「あの、それ、そのフェザーのペンダント、オーシャンのオリジナルデザインですよね」
 少し前のめりに聞いてくる様子に、すみれは反射的に後ずさった。
 あの日、すみれは何とも表現し難い感情に押し潰されそうだった。目の前の男がエンゲージリングをオーダーしたと言う事実がすみれの中の何かを駆り立てた。ただ無性にフェザーを欲しいと思い、ラピスラズリが欲しいと望み、気がついたら買っていた。
 すみれとトオルは、お互いアクセサリーショップ「オーシャン」の常連だとわかると、すぐに意気投合した。

 男はその後も毎月、春子に伴ってクリニックを訪れた。春子の診療中に男から食事に誘われたすみれは、その日の仕事帰りに初めて二人で食事をした。男の左手の端寄りにはめられた濃紺のターコイズ。春子の保険証の名が変わっていたので知ってはいたが、こうして誓いの正物を見せつけられると、なんとなく胸に違和感があった。

 男は益田トオルと名乗った。話の筋から、以前鈴木さんが話していた益田建設の跡取り息子で間違いなかった。春子の指にもこうしてターコイズが君臨しているのだろう。
 すみれは、オーシャンで見た小さなリングを思い出した。
 妻と顔見知りということもあり、なんとなく後ろめたい気持ちになったすみれは、とても落ち着かなかった。
 トオルの話は面白かった。さすが、育った環境に恵まれているだけあって、子供の頃から様々な経験を積んでいた。
 特にすみれの気を引いたのは、トライアルバイクだった。
 トライアルバイクとは、高低差や傾斜のある障害物が設定されたセクションと呼ばれる採点区間を、バイクに乗ったまま走行し、その得点を競うバイク競技だという。
 足をついたり転倒したりすると減点されるのだとトオルはすみれに説明してくれた
「トライアルは、バランスを保つために体幹が最も大事で、そこはサーフィンも同じだから、子供の頃のトライアル経験は、今になってすごく役に立っているよ」
 サーフィンは大学に入ってから始めたとトオルは言った。
 この容姿でサーフィンなんて、きっと女子が放っておかなかっただろうなと、すみれはトオルの横顔を盗み見た。
 トオルの話す口ぶりは嫌みがなく、印象はよかった。
 ボンボンといえば、得意気でどこか相手を見下しているようなイメージだったすみれがトオルにそう告げると、「すごい偏見」と言って笑った。

 三度目の食事の翌週、すみれはトオルと海へ出る約束をした。
 夜明け前の高速道路は、帯黒色に浮かんだ外灯のオレンジ色の光がオーロラのようだった。
 時折、長距離のトラックに追い越されながら、後ろに流れていく光の尾をすみれは助手席の窓から眺めていた。
 不意に膝に置いたすみれの手が捕まれた。
 ビクンと肩を揺らしたすみれに、
「驚かせてごめん」
 とトオルが静かに言った。
 返す言葉が見つからず慌てたが、暖かく少し湿った大きな掌の感触が心地よかった。
 到着した海岸はいつもすみれが行く海から三十キロほど南下したプロ向けのスポットだった。
 すみれたちが海へ入ると、目当ての堤防側には既に五、六人がいた。
 顔馴染みと挨拶を交わし、何度か波待ちを繰り返す。
 初めてのレイアウトで少し疲れたすみれは、トオルを海に残し浜辺へ腰を下ろした。
 目線の先には太陽を背負ったトオルが波を待っている。
 ワイドに流れていく波をやり過ごしている姿をすみれはぼんやりと眺めていた。
 程なくして堤防の右よりから速い波が顔を出した。その男波を見逃さなかったトオルは力強いパドリングでボードを走らせる。
 すみれはトオルの動きから目が放せず、思わず息を呑んだ。
 波を手にしたトオルは、サーフボードの揚力に自身の重量をのせスピードをあげる。
 反射した水面がすみれの視線を遮る。次の瞬間、トップに向かい右側へ素早くレールを入れると、トオルは浪華を散らし華麗なターンを決めた。
 宙を舞うしぶきが太陽を浴びてキラキラとトオルに降り注いでいた。
 周りの歓声に我に返ったすみれの頬を、ポロポロとぬるい涙が伝っていた。
 一瞬で心臓を鷲掴みに引っこ抜かれたかと思うくらい、トオルのライディングは綺麗で、大スクリーンで映画を観ているようだった。 
 言うまでもなく、すみれはトオルに堕ちていた。
 夢中だった。
 すみれはボードを手に急いでトオルのいる堤防のところへ向かう。
 とにかく夢中でパドリングした。途中、トオルが気づいて手を挙げたが、すみれはそれどころではない。
 どうしてこんなに胸が駆り立てられるのかわからない。だけど、トオルに触れたい。そんな衝動がすみれの中で大きな波を巻き起こす。
 まさか自分が感情でこんなに取り乱すとは思わなかった。
 トオルに対してどこか冷めている自分がいて、それを何とも思わなかった。ただ一緒にいると楽しくて、トオルが既婚者だということは失念していた。
 全てをかなぐり捨てて、トオルに飛び込みたいと思った。こんなふうに胸が粟立つのは初めての感覚だった。
 左前方から誰かの叫びが聞こえたが、遅かった。
 すみれは割れた波にのまれぐるんと回転した。
 あぁ、やってしまった。けれどすみれの技術力ならば、何とかできる。
 水中のうねりに身を任せながらすみれは後悔した。
 我を忘れて飛び込んだ罰だ。
 トオルと出会ってから、決して感情的にならず、心を平坦に保つようにしてきた。
 そうすれば傷付かずに済むと知っていたから。
 波にのまれる直前、僅かにボードが横に揺れたのは、重心がボードの中心に乗っていなかったせいで、そんなミスは初めてサーフボードを手にした時以来だった。
 自分はいったい何がしたかったのだろう。
 夢中でトオルに向かってどうしたかった? 自問しても答えはわからない。
 うねりが弱まり、そろそろ抜けるかなとボードを寄せたときだった、スイっと違う浮力がすみれの身体を掬い上げた。
「大丈夫?」
 すみれの顔に貼り付いた長い髪を撫でるように掻き分けながら、腰に回されたトオルの腕がゆっくりとほどけていく。
 「大丈夫だよ」すみれは、それすら言葉にできず見下ろすトオルの首に両腕を巻き付けた。
 トオルもすみれの腰を両腕で掻き抱き、足元で縺れるコードも気にせず抱き締めた。
 入り日に赤く照らされた二人の影が、サーフボードからだらりと垂れたリーシュコードのように、縺れて長く伸びている。
 今日の終わりを惜しむように、後片付けの手も遅い。
 シーズン前の高速道路は思ったより空いていた。お互い何も喋らない。時折、壁の隙間から見える入相の海に、トオルの姿が甦る。
 少し先に見える、出口を知らせる小さな案内標識がだんだん大きくなってくる。
「もう着いちゃう」
 つい声にでてしまい、すみれは我に返った。大きくて暖かい手がすみれの頬を撫でる。
 車がトオルのマンションの駐車場に滑り込むと、どちらともなく夢中で抱き合った。
 箍が外れた二人は何度も求め合い、身体を重ねた。
 もう戻れないところへ来てしまった、とすみれの奥がチクチクと痛みを覚えた。





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