見出し画像

第十章 愚者


 圭が日本を発ってから、二ヶ月が経とうとしている。
 あの日、海端で圭から婚約者がいると聞いたあと、一禾は揺らぐ気持ちを押し込み明るく振る舞った。
 相手はどんな人? どこで知り合ったの?聞きたくもないくせに、私は気にしてないという事を必死で圭に伝えた。
 別れ際には圭に「結婚おめでとう」と言った。圭は困ったように微笑んで頷いた。
一禾のわざとらしい素振りを見ていられないと思ったのだろうか。
 一禾は結婚している。初めから圭とどうこうなれるとは思っていなかった。だから自分に言い聞かせるためにも「平気」を装った。
 ウソの笑顔は得意だから涙も堪えることができた。
 奥さんになる人はどんな人だろう。一禾が聞いても笑ってはぐらかすだけで教えてくれなかった。
 考えても仕方のないことばかりが頭の中をぐるぐる掻き回す。
「岩の願い事、聞きそびれちゃったな」
 今ごろになってようやく涙が溢れた。どうということはない、圭に再会する前に戻っただけ。ただそれだけのこと。

 卓馬との夫婦関係は、表向きは相変わらずオシドリ夫婦の毎日を過ごしている。
 先日、従兄弟の子供が生まれた。
 義母は一禾と選んだ子供服を得意げに渡した。
「一禾さん、ありがとう。すっごい可愛い!」
 従兄弟の嫁は若くて常識の部分が少し心配だ、と以前義母が言っていた。
 会ってみると、言動は確かにお世辞にも利口そうには見えないが、よく言えば素直で裏側の顔を持たない印象だった
「可愛いでしょ〜、それは私の趣味よ。一禾ちゃんが良いって言った服は生地が厚すぎたからね」
 だったら初めから自分で選べばいいのに。
 一禾の落ち度とばかりに、わざわざ人前で晒す義母の所業にはもう慣れた。一禾はその度に自分は宇宙一タフな嫁だと再認識する。
 気にしているのは従兄弟の嫁の方で、感謝を述べる時は決まって一禾を見る。
 素直なのか単純なのか、どちらにせよ空気は読めないらしいので、そこでまた義母が自我を突き付けてくる。
「あら、可愛い! やっぱりこれにして良かったわ」
 義母は、母親の腕に抱かれた赤ん坊に服を当て、ね? ね? と何度も繰り返す。
「ほんとに可愛い! おばさま、いつもありがとうございます! 」
 実はすごく強かなのかもしれない従兄弟の嫁は、終始、義母の機嫌を良い位置に保った。
 卓馬は従兄弟と話しに夢中で、こちらの会話に興味はないだろう。

 帰りの車内は赤ん坊の話しで持ちきりだった。と言っても、義母が一方的に喋り続けるスタイルはこの家の定番だ。
 三人で車に乗る時は決まって一禾が運転手となる。これは義母が決めた事なので逆らえない。
 後部座席に義母と卓馬が並んで座り、助手席には誰も座らないので、一禾だけ会話に入れない。
 タクシー運転手になった気分だ。
 途中で義母を降ろし、一禾はフ〜ッと息を吐く。寄っていくかと聞かれて困ったが、卓馬が先に断ってくれて助かった。
 自宅までの道中も、卓馬は助手席に移動せず、後部座席のまま俯いて寝ている。
 運転を交換してくれることもない。
 狸寝入りだろうと分かるからこその虚しさが一禾の胸を締め付ける。
 信号で停車する。今日はやけに赤信号に当たる。早く帰りたいときに限っていつもこうだよな、と、溜め息が漏れる。
 エコモードに設定しているのでエンジンも停止する。義母が嫌がるのでカーオーディオは切ったままだ。
 しんとする車内。一禾は圭の事を考えた。
 圭との一件があってから、思いを馳せる相手は圭で、卓馬ではない。これまで努力してきた卓馬に対するスキンシップもピタッとやめた。それでも卓馬の態度は変わらず、一禾も卓馬に向き合うことも無くなったことで、自分たち夫婦はもしかすると以前より冷めてしまっているのかも知れない。そんな気がした。
 胸の奥のほうで気付かずにひっそりと育ってきた不穏な何かが、一禾の意思を纏って大きく成長している。
 後ろからクラクションが鳴り、慌ててアクセルを踏み込む。
 ハザードランプで後続車に挨拶をして、ルームミラー越しに卓馬を覗く。大きなクラクションの音が聞こえないはずがないと思ったけれど、先程と同じ体勢で寝たフリをキメこむ夫に、もう一禾の心は動かなかった。


いいなと思ったら応援しよう!