【SS】車窓『コンフリクト。番外編②』~第十一章 懐疑の後にどうぞ〜
今日も疲れた。インドネシア支社の担当課長の失態で大幅な損害を被ってから2週間と少し。全くと言って良いほど収束のめどが立たず残業続きの日々である。
終電はとうに出てしまい、今日もまた会社の仮眠室が仮の住まいと化している。
「これから一杯どうです?」
今年からウチの1課チームに加わった吉田だ。入社3年目にしては腕が利くので会社的にかなり期待できる若手だ。
飲みに誘われたら、いつも終電を理由に断っている立場上、付き合っても良いと思っていた。
会社帰りに飲みに出るなど、どれくらいぶりだろう。
このところのトラブル処理で身も心も疲れきってはいたが、普段とは違う生活感の無さがやけに心地良かった。
会社を出てタクシーを拾う吉田の脚の軽さは、それだけで若さを滲ませ、俺は羨ましくも微笑ましくもあり、自然と口元が綻んだ。
運転手に行き先を告げると直ぐさまタクシーが走り出した。
もうすぐ23時になろうという時間にもかかわらず街の喧騒は一層増したように感じる。
耳朶を叩く不規則な音が大きく聞こえるのは行く先の視界を歪ませている雨足が強くなった証拠だろう。俺は背もたれに深く腰を埋め、滴る車窓に広がるビル群を眺めた。
程なくして目的地にタクシーが停まると、勢い良く飛び出した吉田が俺をアテンドする。
「仕事じゃないんだ、気を遣うな。それに俺は女じゃないぞ」
見てくれも良く気の利くホープはきっと女が放っておかないだろう。いつもこうやって女をエスコートしているのかと感心してしまう。
こいつは営業向きだ。
路地を1本入った隠れ家のような店内は、思いの外賑わっていた。
カウンター席を案内され腰を下ろすと直ぐに店主らしき男が挨拶に来た。吉田の大学時代からの友人だというそのバーテンダーは、シェイカーを振る指先までもが洗練されていた。
吉田の話しによれば、バーテンダーの腕を競うコンテストで優勝経験があるらしい。納得の所作だった。
俺はズブロッカを注文し、しばらくジャズの音色とウォッカの甘い香りに浸った。
洋銀の中で規則正しく弾かれる音が困憊寸前の身体に沁みる。仕事だけではない、息子の受験に妻の言動までも一気に背負うのが一家の主人たるものだということは十二分に承知している。だが今日ばかりは何故か空気の抜けた風船のように地面に埋もれて行きそうな気がした。
少し酔いが回るのが早い。目を閉じるとふわりと体が浮く感覚に見舞われた。
「悪い、ちょっと酔い覚ましてくる。直ぐ戻るから」
虚ろな目をこちらに向ける吉田は自分以上に酔いが回っていそうだ。
吉田をカウンターに残し、俺は店の外へ出た。
夜中の街は煌びやかなネオンのせいで、まるで昼間のようだ。タバコに火を灯すと、纏わりつく紫煙から顔を逸らせた。先ほどまでの雨は上がり、行き交う人々の手には用の済んだ傘がぶら下がっている。所々に黒く広がる水溜りから雨量の多さを悟る。
長くなった灰が自重でぽとりと落ちた。儚い散り際に、何れ自分もこんなふうに突然事切れるかも知れないと不安が過る。
「私にばっかり押し付けないで!」
今朝の妻、亜美の赫怒した顔が脳裏に蘇る。息子の進路について俺が何も意見しないことが勘に触れたらしい。俺だって何も考えていないわけではない。まして息子の事を妻に押し付けているつもりなど毛頭ない。ただ俺もそうだったように、親の小言に辟易するのが思春期というものだ。だから出来るだけ息子の希望を通し、ある程度は好きなようにやらせてやりたいと思っている。決して妻が悪いとは言わない。妻は妻なりに必死なのだ。ただ、それを分かっているだけにやるせない。
俺は短くなった2本目のタバコを水溜りに落とした。ジュッと控えめな音は、夜の喧騒に吸い込まれていった。
大きく息を吐くと、酔った後輩を案じて店の中へと戻った。
カウンター席に突っ伏してもなおグラスを握りしめる吉田の傍に髪の長い女が座っていた。
近付くと女はこちらを振り仰ぎ軽く会釈をした。こちらもつられて頭を下げる。
女は吉田の恋人だという。酔った吉田が呼び出したようだ。恋人の隣には連れと思われる女がもう1人いた。肩につくボブスタイルの髪を内側に綺麗に巻き上げた童顔の女だった。
気を遣って慌てて席を立とうとしたのでそれを制し一緒に飲もうと誘った。
童顔の女はよく知る建設会社の若社長の妻で、春子と名乗った。幼げな外見とは違い、こちらの言葉に彩りを添えた饒舌な返しをしてくる。長い時間話していても気疲れせず、何より楽しかった。
会計を済ませ店を出ると、タクシーに乗り込む足を止め、春子が名刺を差し出した。夫の経営する建設会社のもので、肩書きにコンサルとあった。ふと手首を返し裏面を見ると携帯番号とメールアドレスが記載されていた。
しばらく眺めていた名刺を反射的にジャケットの内ポケットへ慌てて捩じ込んだ。
隣の座席に視線を飛ばすと酔い潰れた吉田が吸い込まれそうなほどに後部座席に項垂れている。先刻の慌てふためく自分が間抜けで笑えた。
雨が上がり、鮮明なネオンを取り戻した夜の街を走る帰りのタクシーの車窓はまるで切り取った絵画のようだった。ウォッカの複雑な香りと幾らかの甘い余韻が鼻を掠めていた。
了
