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第五章 空疎


 九州の出張土産を届けに卓馬の実家に着くと、玄関に出迎えに来た義母は耳と肩で受話器を挟んだ格好で、入って入ってというジェスチャーで一禾たちを促した。
 電話の相手は自身の妹で卓馬の叔母だった。義母は、卓馬たちが来たからと相手に告げ通話を切り上げた。
「やっちゃんのお嫁さん、二人目できたんだって。いいわねぇ。卓馬にも早く親孝行してもらわなきゃ」
 義母の嘆くような甘ったるい声は、一禾にとって随分と乱暴な出迎えだった。
 義母の甥っ子の嫁が二人目を妊娠したことが親孝行と言うのなら、この先、卓馬が親孝行をすることはないのかもしれない。
「孫の顔を見せる」ことが「親孝行」の定義のように語られる。その言葉を聞くたびに、一禾は現代の少子化事情との違和感を感じずにはいられなかった。
 子供を作らないと決めた夫婦は不憫に思われ、夫婦の意思など尊重されない。
 義母だってそうだ。
 一禾という新しい家族が増えたことは孫の顔を見るためのプロセスとしか思っていない。だから顔を合わせるたびに一禾に毒を吐くのだ。
 一禾は急に得体の知れない恐怖感に苛まれた。
 もし、この家に嫁に来たのが自分ではなく別の妻だったら、卓馬はとっくに「親孝行」をしてやれていたのではないだろうか。
 やはり自分は役立たずの嫁なのかもしれない、義母の嘆きを目の当たりにして、それを認めざるを得なかった。一度そう思ってしまうと、心の闇は一禾を引きずり落とそうとする。
「どうした? 顔色わるいぞ」
 一瞬立ち止まってしまった一禾を気にして卓馬が声をかけた。
 子供ができるという事がどこの家庭でも当たり前で疑うはずもない、とてもめでたいことなのだ。子供は作りませんなんて言ったら変人扱いされるだけだ。子作りは、この家の嫁としての一禾の人生において、絶対にやらなきゃいけない課題なのだろう。
「そーお? 何ともないよ」
 慌てて微笑んで見せると、卓馬は「そっか」とだけ言ってリビングに入っていった。
 卓馬が九州の土産を次々と袋から出していく。いつもなら直ぐにでも封を切って、これ美味しいだとか、次もこれ買ってきてとか、土産の吟味で盛り上がるはずが、叔母の電話のせいで一禾にとって拷問のような時間となった。
「やっちゃんのとこの子供服のお下がり、うちに回してくれるって」
 一禾ちゃんよかったわね~、とまるで手柄を勝ち取ったように言いながら、ようやく手にした土産の明太子味の煎餅をバリバリ食べ始めた。
「初めての子にお下がりってのも可愛そうな気もするけど、最近の子供服って高いじゃない? だからお下がりって助かるわよね」
 ねぇ、と目だけで一禾を促す。一禾は、はははと笑って明太子味の煎餅を二枚まとめてバリッと噛んだ。
 妊娠すらしていない一禾に向けられた義母の言葉に面責されているようで泣きたくなった。
「ねぇ卓馬、もういい加減、一禾ちゃんを説得して子供生んでもらいなさいよ。一禾ちゃんもさ、何の意地か、どんなにやりたいことがあるのか知らないけど、早くしないと歳をとって欲しくても産めなくなっちゃうわよ。それに早く孫の顔を見せて親孝行してよ、ね、お願い」
 顔の前で手を合わせ、拝むように一禾を覗く義母の顔は笑っていなかった。
 嫁のわがままで子供を作らない。可愛そうな息子。義母の解釈に涙も出なかった。
 本当はセックスレスで、昨夜も卓馬に拒絶された。ものすごくショックで傷ついたはずなのに、今はそれも他人事のようだった。
 相変わらず何も言わない卓馬。義母が席を外した際、卓馬から義母に何とか言って欲しいと頼んだ一禾に
「母さんの言うことなんて気にすんな」
 いつも通りそれだけだった。
 一刻も早く帰りたい一禾だったが、久しぶりに母さんの飯が食べたいと言う卓馬に合わせて
「私もたべたーい」と一禾も言った。もうやけくそみたいに自分を嘲笑った。
 いつものように義母と二人で台所に立つと、卓馬に聞こえないくらいの声で先程の話の続きが始まった。
 ――お願いだから考え直して。
 ――卓馬に不満があるなら私から言って聞かせるから。
 ――卓馬もきっと子供が欲しいわよ。
 ――卓馬が可哀想よ。
 一禾は、義母が紡ぐその言葉をそっくり卓馬に届けと願った。まるで詰問されているような気持ちだった。
 一禾は、ショックとか悲しいとか虚しいとか、そんな感情を吹っ飛ばしてとにかく自分の存在を呪った。
 玉ねぎのせいにして思いきり泣きたいと思ったけれど、傷ついてカピカピに干からびた一禾の心は涙を流すことを忘れてしまったようだ。
 夕食も終わり、義母が頂き物のケーキがあるからとコーヒーを淹れてくれた。
 一禾はとても食べる気分にはなれず、夕食のほとんどを残した。別腹だからと出されたケーキにも手を付けなかった。
 クリームが美味しいだの何処のケーキ屋だのと義母が嬉しそうに話していると、午後のワイドショーで代理出産の話題が流れた。
 ただついているだけだったテレビに、義母が突然食い入るように見入る。会話も途中に、コメンテーターの産婦人科医の話しに熱心に耳を傾け、そうかと思えば突然、義母が「なるほど!」と手を叩く。
「一禾ちゃんがダメなら、私が代理で生めばいいんじゃない?」
 冗談でもやめてほしい思考だったけれど、本人は冗談でもなさそうに見えて、一禾は恐怖すら覚えた。
「これって、どうやって申し込むのかしらね!」
 と、今すぐにでもという様子が伝わってくる。調べてよ、と卓馬に食い下がり全く引こうとしない。呆れた卓馬がいよいよ口を挟む。
「こういうのは、代理母としてきちんと手続きを踏んだ人ができるんだよ。それだって厳しい審査とかあってけっこう大変なんじゃねーの」
 卓馬のもっともらしい言葉に、そっか〜と項垂れる義母に一禾は愛想笑いでやり過ごした。

 ――え、そこ???

 お義母さんに言い返して欲しい言葉はそれじゃないよ卓馬。義母が言った言葉を考えれば考えるほど冷めていく自分がいる。
 千歩譲った仮説としても、義母の腹から生まれた我が子など誰が想像できるだろう。
 もう限界かなと思うと、一禾は気分が悪くなってきた。
 胸の奥に溜まっている泥水が湧き出すような吐き気に襲われた。胃を絞られるような息苦しさも感じて急いでトイレに入ると吹き出すように吐いた。朝からほとんど食べ物を口にしていないせいか胃液だけが沸いて出てくる。吐いても吐いても胸のムカつきは取れない。 
 すえた味が口内に広がる。頭が揺れる。ぐるんと床が歪んで天井が見えた。
 卓馬が自分を呼ぶ声が聞こえる。水の膜に覆われたようにこもった声が、「一禾、一禾」と必死に自分を呼んでいる。
 どうして呼ぶのだろう。必要のない嫁だと言われたようなものなのに。きっと卓馬もそう思っているくせに。
 視界が一気に暗くなり、強い眠気に襲われた。闇に包まれていく自分を、一体どこで間違えてしまったのかと考えた。
 卓馬と愛し合った記憶は薄れ、きっとそれすら幻だったのだ。もうこのまま目覚めなければいい。そう思うと、一禾は意識を手放した。

 カラフルな砂糖菓子の中、一禾は誰かを探している。すぐそこにいると分かっているから焦らない。
 ゆっくりと丘を登るとたくさんのユリが咲いていて、知った笑顔が一禾に手を伸ばす。
 ――こっちへおいで、一禾。
 ずっと待っていた優しい声に導かれ、一禾も手を伸ばす。もう少し、もう少しで手が届く。もうすぐそこに欲しい手があるのに、すんでのところで掴めない。
 待って! 行かないで! 置いていかないで! 追いかけても届かない。崩れる。
 優しい笑顔が闇に吸い込まれるように遠ざかっていく。
 地の底から吹き上がる地響きが、一禾の直ぐ後ろの丘を崩していく。
 あぁ、間に合わない。崩れる。
 足の下からぶくぶくと泥水が涌き出る。溺れないように必死に足を踏ん張るのに力が入らない。みるみる溜まった泥水はもう膝まで届いて一禾を呑み込もうと黒いうねりを上げる。掴み損ねた大きな手が、黒い波に拐われる。手を伸ばしても届かない。
 待って。待って。
「一禾!」
 崩れていく丘で黒い波に呑み込まれそうになった時、名前を呼ばれて目が覚めた。
 薄ぼんやりと視界に入ってきたのは綺麗なユリの丘ではなく、白い天井と吊るされた点滴の袋だった。腕の違和感が、今自分がそれに繋がっていることを認識させる。
「大丈夫か? 一禾。なんかすごくうなされてたっぽいから」
 先程の夢、一禾を呼ぶ優しい声と差し出された大きな手。誰のものか、一禾は知っている。
 そろそろと一禾の額に触れようとする卓馬の手を、彼と反対側の壁に顔を向けることで避けた。
「心配かけてごめん。手間もかけちゃって」
 一禾が目だけ向けてそう言うと、そんなこと気にするなと言う卓馬の顔もどこか憔然として見えた。卓馬は何か言いたげで、少し落ち着きがないように見えたが、少し眠りたいと言う一禾に応えて処置室を出ていった。
 どうしてここにいるのかと、一禾は記憶をたどった。あぁそうか、卓馬の実家で夕食中に吐き気がしてトイレに行ったんだっけ。
 そういえば、薄れる意識の中で、一禾が悪阻で倒れたと勘違いしている様子の義母の声を聞いた。心配するどころか、嬉しそうに弾んだ声だった。きっと今ごろは、医者から悪阻ではなかったと聞かされ、あからさまにガッカリして見せているのだろう。
 真っ先にそんなことを考えてしまう自分に、一禾はうんざりした。内蔵が全部出るんじゃないかと思うほど、深い溜め息に眩暈がした。
 卓馬と結婚してからずっと、義母から向けられる期待に針を刺され続けた一禾の心は、ハリセンボンのようになって、そのハリセンボンが今度は卓馬を威嚇している。
 卓馬がくれるこの生活が愛情の証しだと自分に言い聞かせることで気持ちに折り合いをつけ、ここまで頑張ってきた。今も必死に自分に言い聞かせようとしている。
 プツンと耳の奥の方で何かが弾けたような音がした。
 ――プツン。
 ――プツン。
「あぁ、もう頑張れないかも」
 一禾は点滴に繋がっていない方の手を額にのせ天井に向けて吐き出した。言葉は誰にも当たらず、いつものように空中分解した。
 軽い熱中症と疲労、それと、思い当たればストレスもと診断された。
 二時間ほど点滴をして帰宅すると、二十三時を少し回っていた。
 一禾は軽くシャワーを浴び、卓馬におやすみとだけ言ってリビングを出た。卓馬の視線を感じたが、気づかないふりで自室へ入った。ベッドに横たわり、一禾は十畳の部屋をぐるりと見回した。
 結婚して卓馬の名義でこのマンションを買った。当初、一禾のいるこの部屋は二人の寝室だった。将来に胸を踊らせ二人で選んだダブルベッドが、今は一禾だけを優しく慰めてくれる。
 子供部屋にしようと話した八畳の部屋は、今は一禾を拒絶した卓馬が固く扉を閉ざしている。一禾にとっては、まるで開かずの間のようだ。
 子供のいない夫婦が、寝室を分けて性生活もなく暮らしている。こんなのは既に子が巣立ち、あとは夫婦水入らずでゆっくりと予後を過ごそうかという定年後の夫婦のすることだと思っていた。それとも、四十歳を過ぎ、子育てに追われる日々の中で夫をそんな目で見られないと言っていた亜美もまた、自分と同じように別々の部屋で過ごしているのだろうか。もしそうだとしても、一禾のそれとは意味合いが違うだろう。今度亜美に会ったら聞いてみようかと一瞬頭をかすめたが、期待と反対の返事が帰ってきたときに平常を保てる余裕など自分にはないことに気付いて、聞くのはやめようと思った。
 結局、聞いたところで相手も困ると思うと誰にも相談できず、相談することに何の生産性もないことを一禾は既に知っていた。
「ひとり暮らしと変わらないな」
 自分の吐いた言葉が、他人事のように冷たく響いた。


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