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第二十一章 幸甚


「すみれ、本当におめでとう」
 すみれと小林の結婚式はホテルのレストランで執り行われた。互いの両親に兄弟、親しい友人だけの控えめなものだった。
 新郎は総合病院の息子だと聞いていたので、芸能人規模の披露宴を想像していた一禾は正直ホッとした。小林の父親は有名な外科医と聞いている。病院を手薄にできないだろうし、そもそも医者という職業は多忙だろう、大々的に執り行わないのは同士や部下への計らいなのかもしれない。
「やっぱりウエディングドレスくらい着れば良かったのに。一回くらい着ておくべきよ!」
 襟が大きく開いたダークグレーのタイトなワンピースに身を包んだすみれに、親の意向で神前式で結婚式を挙げた亜美はウェディングドレスに未練があるらしく自分の無念をすみれに果たして欲しかったなどと勝手な事を言っている。
「前撮りでドレスの写真も撮ったからそれで十分。後で写真見てよ」
 先月すみれは、小林と二人でハワイ旅行に行って来た。依頼した業者のアテンドでロケーション撮影をして、有名な教会で愛を誓い合って来たのだと散々惚気を聞かされたばかりだ。
 既婚者のトオルと別れ、亜美に絶交され、自分を蔑み誰とも結婚はしないと頑なだったすみれを小林が救ってくれた。彼は、すみれのこれまでの恋愛遍歴を知っても変わらず彼女を愛してくれた。自分にだけ向けられる愛情に戸惑い素直に受け入れることができなかったすみれの心は、本物の愛情に飢えた末に出涸らしのように空っぽだった。そんな時、事件が起きた。
 献身的な小林に頑なだったすみれの心は少しずつ解放されていった。相思相愛の二人だったが、すみれは春子に負い目を感じていたせいかどこか頑なだった。小林に好意は見せるが甘えることはしなかった。
 事件を機に離婚し、社会的制裁を受けたトオルと、心神喪失に陥り裁判もままならなかった春子がやり直すことになった事を知った年にようやく本当の意味ですみれは小林の胸に飛び込んだ。
 あれから五年が経ち、みんな少しずつ変化や葛藤を繰り返しながら今こうして確かな絆でつながっている。
 亜美は他人に甘えすぎていたと自分を戒め中途半端に諦めたネイリストを目指して猛勉強し、夢だったネイリストという職業を手に入れた。そして二年前、念願叶って自分の店をオープンさせた。客の入りはまあまあ良く今日のすみれに施された華やかな赤とピンクのネイルも亜美の作品だ。
「一禾、向こうで写真撮ろうって呼んでる、行こう。優おいで」
 一禾の腕の中でうとうとする優を、卓馬が優しく引き受ける。
 あの夏、圭と情を交わし授かった優は五歳になった。
 卓馬は子供を作ることができず長い間セックスレスという屈辱を一禾に与えてしまった自分を、この妊娠によって救われたと言った。
 一禾はどんな理由であれ卓馬を裏切ってしまったその事実を贖罪として一生償うと誓った。
 優が生まれた日、柔らかなベールを纏った朝陽が病室のベッドに注ぎ込み生まれたての天使を優しく包み込んでいた。泣き疲れて眠っている穏やかな寝顔に優と名付けた。
「一禾ありがとう。俺の子を産んでくれてありがとう。父親にしてくれてありがとう」
 分娩台で処置を施される一禾の手を握り何度もありがとうと言って泣いた。声を出して周りの目も憚らずに泣いていた。
 一禾は長い間続いたセックスレスの時期を細い糸をたぐるように思い起こす。普段は優しくて何も変わらない卓馬が夜の情交だけは避けていた。
 亜美の母親が亡くなり、久しぶりに会った同級生には差を見せつけられ、慰めてほしい時や愛してほしい時にも卓馬は一禾を拒否し続けた。あの頃の一禾は自信を失くし結婚生活に絶望していた。閨怨に悶え泣いて過ごすことが増えた。いつの間にか寝室が別になり生活スタイルも変わり休日すら一緒に過ごさなくなった。その頃義母からの子供の打診は本当に辛かった。卓馬はどうだったろう。
 一禾は代理出産に乗り気だった義母の言動に深く傷付き泣いたことがる。あの時の卓馬は一禾を庇うことはしなかった。今になって分かることは卓馬も同じように傷付いていたということ。一禾の前では決して見せなかった卓馬の苦悩をその時に知っていたら、あんなに長い期間を互いに苦しまなくて済んだのかも知れない。そう後悔したこともあった。過去の事はなんとでも言える。同じように悩み考え至った卓馬の結論は他人の子供を自分が認知するという事だった。
 これから先の二人にはこれまでとは比べものにならない苦悩が待っていることを心得なければならない。子供の成長に比例して増えていくだろう不安にしっかり夫婦で向き合っていく覚悟を決めなければ、と一禾は気合を入れた。
「ママ、おしっこ」
 慌ててトイレを探す。レストランフロアにあるトイレは狭い洋式トイレの個室が二つあるだけだった。子供と一緒に入れる広い個室のトイレが他にないかボーイに尋ねると一つ上のフロアにあるという。優に確認すると我慢できるというので、一禾は優を抱いてエレベーターに乗った。
 上に行くエレベーターは空いていて一禾たち以外に誰も乗ってこない。数秒で一階上のフロアに着く。扉が開くと、優がわ〜! と声を上げた。
 エレベーターホールにカラフルな色の風船が動線を除いた床一面に敷き詰められていた。走り出す優を制し手を引いてトイレを済ませた。興奮の止まない優のために風船のフロアを見て回った。風船が敷き詰められた奥のホールにはウェディングドレスが展示してあった。そういえば、とフロントにウェディングフェアの案内が出ていたことを思い出した。
 純白のドレスや真っ赤なレースのドレス、マーメイドにロココ調と種類が豊富で目移りするだろうな、と奥のテーブルでプランナーと思しき男性と打合せをしている若いカップルに一禾は遠い日の自分と卓馬を重ねた。当時はこんなにオシャレなデザインのドレスは無かった。それでもそれなりに種類があってその中から選りすぐって試着した。一禾はタイトなアイボリーのドレスが気に入ったが一緒に行った義母が気に入ったフリフリの純白のドレスに決まったのだった。
「懐かしいな……」
 辛い時期はあったけれど幸せだった頃の記憶が鮮明で嬉しかった。フッと口元が綻んだ。
 一禾はぐるっとホールを見渡した。ドレスが展示してある反対側の壁には美しい風景を背景に幸せそうなカップルの写真が飾られていた。ロケーションフォトのサンプルのようだ。すみれもここに依頼したのだろうか。ふと一枚の写真に目が留まった。
 それは夕陽に染まった海を背に手を取り向かい合う新郎新婦の写真だった。
 オレンジ色のヴェールに包まれた写真の二人に懐かしい甘い気持ちが込み上げた。
「ママー、これあげる」
 訪問着の振りを引っ張られ我に返った。写真をもっと見ていたかったが優が飽きてしまったらしい。すると優の手にオレンジ色の風船が握られている。
「ゆう、その風船どうしたの?」
「カメラのおじちゃんにもらったの」
 一禾は辺りを見回したがそれらしい人は見当たらなかった。お礼も言えず心苦しいが仕方ないと思うしかなかった。
「ゆう、ちゃんとありがとうって言えた?」
「うん! ちゃんとありがとうしたよ! そしたらね、おじちゃんがエライねってほめてくれたよ」
「そっか。えらいえらい」
 優がお礼を言えたなら、それがせめてもの救いたった。
 エレベーターを待つ間、いつか愛する人と結婚し子供を授かるだろう優を思うと複雑だった。真実に触れる機会が訪れる前に優に話すことになるだろうか。その時優は許してくれるだろうか。受け入れてくれるだろうか。何年も先のことに胸を締め付けられる。その日が来るまでは、どうか平和に過ごさせてほしいと願った。
 不意に視線を感じて振り向いた。
「気のせいか……」
 一禾の視界に入ったのは先ほど見たのオレンジ色の夕日が美しいサンプル写真だった。
 ポーンという音とともにエレベーターの扉が開いた。一禾は優の手を取り乗り込んだ。
 ホテル前のロータリーはハイヤーを待つ人の列で混み合っている。もう直ぐ初夏を迎えようとしている季節の夕暮れは乾いた風が心地よい。
「気持ちいいから駅まで歩こうよ」
 思いつきの提案だった。ただ何となく、まだ披露宴の余韻に浸っていたかったのかも知れない。
「わーい、公園行こー」
 ホテルの正面には大きな公園がある。レストランの窓からは公園の奥の方にある遊具が見えたのだ。優はしっかりチェックしていたようだ。
「そうだな、明日休みだし、公園で遊んで行くか!」
 わーい! と飛び跳ねて喜ぶ優を、卓馬は鍾愛のまなざしで抱き上げた。
 優の手をとり三人で並んで歩いた。夕暮れ時にはまだ早い晩春の空に、沈むことを惜しむように太陽が揺れている。余韻を残すように足元から伸びる影を引きずって歩く。
「ゆう、後ろ見てごらん、ゆうの影すごーく長いよ」
 わ〜っと目を見開き、本当だね、すごく長いね、と喜ぶ優がふと動きを止め影を見つめる。
「ねえ、ゆう。影おくりしよっか」
 もう四十年以上も昔に小学校の校庭で影送りをしたそして五年前のあの日、夏のユリの丘で圭と一緒に送った長い影。オレンジ色の夕陽の丘で見た景色。
 やるやる〜! と目を輝かせる優の瞳に圭の面影を感じた。
「よーし、じゃあ数えるよ。瞬きは我慢するのよ、せーの」

 ――――いーち、に、さーん、しー、ごー…………

 いつか優に本当のことを話す時が来たらその時またこうして影おくりができますように。
 自分たちの選んだ道が決して正しいとは言わない。ただ何より幸せだったと思えるように今はこの子にたくさん愛情を注ごう。
 それが唯一、自分にできるこの子への償いだと信じている。

 ――――ろーく、しーち、はーち、きゅーう…………

「じゅう!」

 真ん中が凹んだ三つの長い影。サワサワと音を鳴らす緑色の隙間を抜けてしっかり手を取り合ったまま青と白のキャンバスに写し出す。
 空に浮かんだ三つの影の前を三頭の蝶々が戯れあいながら飛んで行った。


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