第二十二章 葛藤(一)
大学在学中に父親のつてで知り合ったカメラマン田崎に心酔し、この人について行くことで頭がいっぱいだった。アシスタントとして器材管理や撮影場所の確保、データ編集や秘書業務とあらゆる仕事をこなしていた。
彼女は作らなかった。そもそも戦場のように忙しい毎日の中で彼女という存在は必要ではなかった。だが理由はそれではない。
一禾だ。圭の中には今でも一禾がいる。
月が綺麗な夜はきまって一禾の夢を見る。陶器のような青白い月の出た日は特にそうだ。一禾の飴玉のように丸い瞳いっぱいに映る月を思い出す。
一禾に一方的に別れを告げた。一禾はどうしているだろうと考えた。謝りたい、そんな狡い気持ちが大きくなっていった。
その後すぐ田崎の薦めもあり、本格的に写真の勉強をするためドイツに渡った。
十年が過ぎた夏の初め、田崎が大怪我をしたと連絡が入った。これまでも年に何度か帰国していたが、今回は長い滞在になりそうなので抱えていた仕事を全て片付けた。
「教授すみません、ご迷惑をおかけします。目処がついたらなるべく早く戻りますので」
半年後に開かれる大学研究室主催の個展の準備に取り掛かったばかりの忙しい時期だった。
「こっちはいいから、アシスタントの手配はとれてるし、お前は余計な心配しないで羽根伸ばしてこい」
田崎さんにくれぐれも宜しくな、といつもの飄々とした物言いでこちらに気を遣わせない。教授のこう言うところが、同業にもモデルにも人気の理由だ。田崎と少し似ている。
教授は田崎の大学時代の後輩で、教授の研究室の人員募集で田崎に連絡があり、ちょうど良いから勉強してこいと送り出されたことが留学の経緯だ。
田崎のスタジオへ行く前に、先ずは実家に顔を出した。土産を渡すつもりだった。それに、親父が田崎に届けてほしいという見舞いを預かるという目的もあった。
久しぶりの実家はだいぶ寂れた印象だった。奥から姉が出てきて荷物運びを手伝ってくれた。圭の部屋は姉がたまに掃除をしてくれているようだ。
「姉さんありがとう、今日は子供たちいないの?」
姉は実家からすぐのところに夫と二人の息子の四人で暮らしている。こうして頻繁に親を見てくれているので、普段日本に居ない圭は姉に頭が上がらない。
「高校生にもなると塾か部屋に引きこもりかのどっちかよ。私と一緒に外に出ることなんてないない」
男の子なんてつまんないわ。と文句を言いながらも背中は寂しそうだ。そんなわけで今日は塾に行っているらしい。高校一年と二年の息子たちは歳が近いせいか友達のように仲がいい。今日も二人仲良く塾通いというところだろう。
田崎は昔、親父が出入りしていたデザイン事務所専属の契約カメラマンだった。当時、自分のスタジオを持っていなかった田崎に親父は実家のスタジオを提供し、田崎は物撮りの仕事をこなした。そんな経緯があってか田崎は圭に目をかけてくれた。大学生最後のコンテストには田崎も審査員として参加していた。
田崎は首から吊った利き腕を不自由そうに掲げて見せた。
「田崎さん、また派手にやっちゃいましたね」
上腕を折ったせいでギプスで肩から固定されているらしく、何をするにも億劫そうだった。
「悪かったな圭、忙しい時に呼んじまって。金子のやつが大袈裟すぎるんだよな」
金子は圭が留学のために日本を離れるとなった時に圭の後任として連れてきた後輩で、若さゆえの元気が取り柄の男だ。そんな金子をいつも怒るか貶すばかりの田崎だが、実は気に入っているということを圭は理解している。
親父から預かった見舞いとドイツ土産のソーセージを渡し早速仕事に入った。
こんなの食ったらビール飲みたくなるじゃねーかとぶつぶつ言う田崎は、どうやらアルコールを医者からとめられているようだ。土産にドイツビールを買ってこなくて良かったと安堵した。
自分の機材を作業場に運んでいると勢いよくドアが開いた。
「先輩! お帰りなさい。会いたかったですよ。あっち(ドイツ)はどうですか?」
相変わらず落ち着きのないやつだが、圭はそんな金子の裏表のないところが気に入っている。写真のセンスも良く性格も素直なのでこの世界では可愛がられるタイプだ。
「ああ、半年後の個展の準備が始まったところだよ。今回はウチの研究室が主催だからみんな張り切ってるよ」
「なんか懐かしいなぁ、サークルのみんなで夢みましたよね、うちの大学に研究所を作ろうって。俺たちみんな真剣だったのに先生の誰一人として本気にとらえてくれなくて、笑われたんですよね」
懐かしいな、と目を細めて話す金子の饒舌ぶりにその頃の楽しさが伝わってきた。あの頃は楽しかった。まだ何の不安もない子供で、ただ自分の夢を盛大に語っているだけですごい人間になれた気になっていた。撮りたいものを自由に撮って好きなだけカメラに時間を費やした。圭もただ愛しい一禾の笑顔を撮り続け、最後の年にその笑顔の作品で入賞した。
一禾の笑顔は無敵だった。一禾が笑えば彼女を取り巻く背景の一つ一つが命を吹き込まれたように輝き出す。本当に大切な人だった。
はぁ、と短いため息に時間の流れの尊さを思い知らされた。
「あ、そーいえば先輩の元カノさん、南通りの銀行員なんですね。たまたま行ったら窓口にいてびっくりですよ。それにしても相変わらず綺麗で、見惚れちゃいましたよ」
まさに今、一禾に想いを馳せていたところへ飛んできた金子の言葉に、圭は思わず準備の手が止まってしまった。一禾が近くにいると思うだけで気持ちがうわずった。
金子はそんな圭に気づきもせず、独身だったらアタックしちゃおうかななどと浮かれた調子で話している。
何とか雑用を切り上げて時計を確認すると十四時三十分を少し回ったところだった。
銀行の窓口は十五時で閉まる。今から急いで向かえばギリギリ間に合うか。
圭は表通りからタクシーを拾い南通りの銀行名を運転手に伝えた。
閉店間際の銀行にはまだ手続きを終えない客が数人とシャッターを閉める準備の為に出てきたと思われる女性行員の姿があった。それはシャッターのへりに背伸びをして手を伸ばす一禾だった。
「一禾……」
思わず口走っていた。一禾はただ驚いた様子で呆然と立ち尽くしている。瞬きも忘れ、見開かれた瞳がゆらゆらと波立ち始めた。
状況を知った若い行員が一禾をそっと促し、銀行の裏手にある従業員用の駐車場で話をした。
「圭! どうして……圭」
言葉が見つからないという様子で圭の名前を呼ぶばかりで、瞳からは大粒の涙が溢れ出てきた。すぐにでも連れて帰りたい衝動を抑え、会う約束をして帰ってきた。
大好きな一禾がいた。あの頃よりも少しだけ目尻の下がった一禾。その表情はあの頃のままだった。
「いらっしゃ〜い。あれ、圭、久しぶりじゃなーい」
中性的な友人は男の目から見てもかなりの男前だ。この店に通う常連客の九割はこの男のファンだろう。
「よぉ、久しぶり、ギムレットをたのむ」
はいよ、と手際よく酒を作りながら近況の報告をし合った。
「あら、上腕の骨折なんて大変じゃない。利き腕なら最悪よ。それで、圭はしばらくこっちにいられるの?」
「あぁうん、師匠の怪我次第だけど、ギプスを軽いものに交換できればずいぶん違うみたいだな。若い人でも一ヶ月はかかるらしいから、あの歳じゃもっとだな」
「可愛がってくれた師匠にその言い種ねぇ。あんたって罰当たりな弟子ね」
一禾との約束の時間まで落ち着かなかった。先ずは何を話そうかと考えている時点で緊張しているのだろう。
「いっちゃんとはたまに会ったりしてんの?」
この男は一禾をそう呼ぶ。
「いや、あれ以来だよ」
当時の二人をよく知る友人は、それ以上は何も聞かなかった。
授賞式の帰り、あの月の綺麗な夜に圭は一禾に別れを告げるつもりだった。だが言えなかった。一禾を好きすぎて、離れたくないと思ってしまった。もしあの時別れを切出していたら、きっと一禾は嫌だと言ったに違いない。一禾に別れたくないと泣かれでもしたら圭は留学も諦めて、全てを棒に振っていたかも知れない。それほどに一禾という存在は圭の中で自分以上のものだった。だから黙って去ったのだ。
「じゃああんた、いっちゃんと何も話してないの?」
会っていないし、連絡も取っていない。十余年分の話なんて山ほどあるに決まってる。それをこれから埋めていくんだ。
ふぅ〜ん、と含みのある男の返事が気になったが、買い忘れたものがあると言って従業員に場を任せて出ていった。
十年。気の遠くなるほどの年月だ。圭はこの十年を振り返ってみる。右も左も上下すら分からない知らない土地での暮らしは簡単なものではなかった。朝から晩まで、時には寝る間を惜しんで勉強に励んだ。ただ、どんなに忙しい毎日を過ごしても一禾の事だけは忘れなかった。それどころか時間を追うごとにどんどん忘れられなくなっていった。
カランと高い音が鳴り、入口に一禾の姿があった。彼女に向かって手を挙げると、あの頃と変わらないクシャッとした笑顔でこちらに歩いてくる。ごめん待った、と言いながら隣に座る。今来たところだよ、と返す。本当はもっと前に来ていたけれど、このやり取りが二人のセオリーだった。あの頃も。
一禾はこちらのグラスを一瞥し、ブラックルシアンを注文した。これもセオリー通りだ。このまま連れ帰りたい衝動に駆られ、そのたびにブレーキをかけた。
「圭、元気だった? 今どうしてるの?」
一禾が一つ一つ言葉を選んでいる。極論に触れないようにしている。それが伝わるだけに十年前、黙って去ったことを心苦しく思う。
「向こうの仕事はけっこう忙しいよ。今回は俺の師匠が怪我したから、その手伝いに帰ったよ」
そっか、と頷く一禾の表情が一瞬曇ったのを見逃さなかった。もしかすると一禾も待っていてくれたのか? そうなのか?
なぁ一禾、と言いかけて言葉を呑み込んだ。
「いっちゃん、久しぶりだね。旦那に内緒で圭とデート?」
買い物から戻った友人が一禾に投げた言葉が、変化球になって飛んできた。
一禾は、デートと言われた事に恥ずかしいとだけ言い返したが、他は否定しなかった。
一禾が結婚していた。頭を鈍器で殴られたような重い感覚だった。
「一禾、結婚したんだ。いつ?」
震える声を抑えて聞いた。平気を装っているつもりがどうしても顔が引きつる。一禾は苦しそうに顔を歪め、帰ると言って席を立ってしまった。振り向きもせずドアを出て行く一禾を呆然と目で追った。後を追いたいが、結婚しているという事実がその足を止めた。ここで帰してしまったら、また十年会えないかもしれない。やっと会えたのに。せっかく会えたのに。離すものか。それはもう意地のようなものだった。
カウンターを振り仰ぐと友人が行けよと言うように顎でドアの方を指した。
走った。一禾は電車だ。駅だ、駅にいる。
一禾、一禾。
繁華街は会社勤めの客で溢れている。カラオケボックスの前に大学生らしい集団が座り込んで喋っている。懐かしい光景に胸の中が甘酸っぱく疼いた。当時の自分たちも、あんなふうに他愛の無い話で盛り上がっていた。その輪にはいつも一禾と自分がいた。
道を塞ぐ酔っ払いの間を抜け、商店街が見えたら角を曲がる。駅の正面から改札を抜けたと同時に見つけた腕を掴んだ。
「一禾、まって」
怖い。拒まれるのが怖い。でも、もう後悔したくない。だからあの場所へ行こうと誘った。
二人の場所だからもう一度――
「よく覚えてない。ごめん」
一禾はそう言って電車に乗ってしまった。
一禾は一度も振り返らなかった。
電車に乗った後も、圭が立っているホームに背を向けるように、ドアにもたれて立っていた。圭は、線路が剥き出しになったホームをいつまでも見ていた。
もう会えないかも知れない。頭の中の血が引いていくのを感じた。言いようのない恐怖で足が震えた。
カウンターに座ると男がジントニックを差し出した。
「慰めてくれてるのか」
声を出すのもやっとだ。
「ジントニックはあたしのオハコよ。まぁ飲みなさいよ」
この男が気に入った相手を口説くときの常套手段だ。この男なりの優しさだと思うと救われた。
「知ってんだろ? 一禾の結婚、いつ?」
「あんたが向こうに行ってから、いっちゃん笑わなくなっちゃって、ウチに来てもあの端っこの席で泣いてた。笑えるまでけっこう時間かかったのよ。それをなに? 十年以上も放っておいたくせに突然現れて、誰だって戸惑うわよ」
一禾の気持ちなんて考えていなかったことに気付いた。自分勝手に一禾を振り回したのだ。そうか、一禾はずっとこんなふうに不安な思いをしていたんだ。絶望と言ってもいい、二度と会えないかも知れない出口のない恐怖は容赦なく一禾を襲った。そんな一禾を救ったのが夫なのだ。
「あんたが捨てたいっちゃんを救ってくれたのよ。あんたはいっちゃんの旦那に感謝したっていいくらいよ」
その通りだ。ユリの丘に行こうなんて誘うんじゃなかった。自分の入る隙なんてあるはずがない。一方であの日、銀行で大粒の涙を流した一禾を思い出す。あの涙の理由は? 会いたいと思ってくれていたのだとしたら……。
これが最後だ。もし一禾が待ち合わせの公園に来てくれたら、一度だけ最後にユリの丘であの日のやり直しをしよう。もし来てくれなかったら、一禾には二度と合わない。
土曜日の公園は家族連れで賑わっていた。
駐車場に面したほうの入口で一禾を待っている。すぐ側の広場で若者グループがダンスの練習をしている。
心地よい風に背中を擽られ、ユリの丘に想いを馳せた。
「お待たせ、待った?」
ほら、来てくれた。今日だけは俺の一禾だ。
「俺も今来たところ」
嬉しくて顔が綻んだ。
駅で別れてから一週間と少し。あの日頑なだった一禾があの頃の彼女に戻ったみたいだった。今日だけと割り切って来てくれたのだろか。理由なんてどうっだっていい。また一緒にユリの丘に行ける。それだけが二人の過去と現在を繋げてくれているのだ。
移動中の車内はまるで十年の時を巻き戻したように、あの頃の二人が確かにそこにいた。
タケオの結婚式の話はひときわ盛り上がった。奥さんにだけピントを合わせて撮ったと言うと、一禾は彼が可哀想だと言って笑った。タケオの奥さんが美人だったのは事実だが、理由は他にある。彼女の雰囲気が、少しだけ一禾に似ていたのだ。
運転中、横顔に一禾の視線を感じた。気付かないふりで前だけ見て運転していると、視界の端で光るものが一禾の頬を伝っていった。圭は左手を伸ばし、一禾の頬にそっと触れた。
触れた頬は小さく震えていた。溢れ出そうなものを必死で堪えているように感じた。
圭は、一禾の手を握りしめた。一度放してしまったこんなに小さく震える一禾を今すぐにでも抱き締めたい。一禾は泣いているのだろう。運転に集中している振りをして、圭も必死で涙を堪えていた。
すべてはもう違う時を刻んでいる。その時の中で、一禾が過去に囚われ涙してるのであれば、自分はなんて罪深い男なのだろう。潤んだ目を一禾に気付かれないようサングラスでごまかした。
目的地への道路は、十年以上も経てばさすがに変化していた。高速道路からスマートインターチェンジを出ると、目的地の駐車場までショートカットできた。
シーズン真っ只中のユリの丘はとても混んでいた。タイミング良く駐車スペースを見つけ、逸る気持ちで入場ゲートを潜った。
当時使っていたカメラを持ってきていた。今日が最後だから。
一禾は気が付くだろうか。空いてしまった十数年分の一禾を撮ってお別れしよう。
一面のユリの花に紛れて一禾が指を絡めてきた。堪らなく愛しいと思う気持ちが爆発しそうで、それをごまかすように夢中でシャッターを切った。
あの頃、カラフルなユリの花畑で顔をくしゃくしゃにして笑う一禾を金平糖みたいだと思った。小さくて可愛い甘い砂糖菓子のように、口に入れたら蕩けてしまいそうな危なっかしさが愛しくてたまらなかった。
今はその齢を重ねた目尻が一禾を凛と引き立てている。
ここへ来る時は決まって土産屋で絵はがきを買った。毎年絵柄が変わるので楽しみにしていた。どれくらい集まっただろう。
この十年、その絵はがきに手紙を書き続けた。ドイツでの生活を一禾に伝えたかった。毎年一禾の誕生日に書いた。そして、一度も出せないまま大事に取ってある。今年の分はまだ書いていない。
ゴンドラからの景色はずいぶんと変化していた。絵はがきを買いに寄った売店は無くなっていて、代わりにコテージが数棟並んでいた。いつだったか、売店の老婆に新婚かと聞かれたことがあった。おどけてみせる一禾を他所に、自分が赤面していると思うと堪らなく恥ずかしかった。一禾は結婚を考えていたのだろうか。圭は、自分がどれだけ勝手な人間なのかと嫌と言うほどに思い知らされた。
ずっと後悔と後ろめたさで押し潰されそうだった。それは一禾を選ばなかったという罪に相応しい罰だった。
最後のジャンプが苦手な一禾の腰を抱いて一緒にゴンドラを降りると、一禾が胸に飛び込んできた。ふわっと空気に包まれた長い髪が甘い香りを漂わせ圭の鼻孔を擽る。
圭は一禾に気付かれないように鼻先を髪に埋めた。
「一禾、こっち」
そこだけ色の違うユリが群生する死角のスペースへ一禾を引き込んだ。強く引いた反動で一禾が勢いよく飛び込んできた。腰を寄せ上げ抱き締めた。一禾はありがとうといった。その目が寂しそうで放っておけなかった。一禾の言葉を遮るように唇を重ねると、一禾もそれを受け入れ深く舌を絡め合った。一禾を感じながら、ふと先ほどの寂しげな目を思い出した。ここに来る道中でも一禾は泣いていた。
突然目の前に圭が現れ驚いて泣いた銀行での涙と、今日の涙は違う意味を含んでいそうで何となくずっと気になっていた。
一禾、一禾、愛しくて堪らない。
こんな気持ちになるのならどうして一禾と離れたのだろう。何度も考えたことだ。
圭はあの時も、あの後も、そして現在も、一禾と結婚することはなかった。一禾に限らず誰とも。だから、これでおしまいにしなければならないのだ。
十数年後に幸せを手に入れた愛しい一禾から、過去からやって来てその幸せを奪いとることなどできない。先ほどの涙も、夫への罪悪感からかもしれない。もういい加減解放してあげなければ。
何度も唇を重ねる。深く。でも……。
――今日だけでいいから一禾をください。
数人の笑い声のような雑談が聞こえて唇を離した。覗く格好で一禾が声のする方を見ると高齢女性四、五人のグループがメイン通路を歩いていた。
「いこっか」
「ん、行こう」
手を繋いでユリの丘を下った。
落陽に赤く染まるユリの丘は幻想的だった。一禾と一緒に空に写した二人の影をただじっと眺めていた。このまま一禾を連れてドイツへ行ってしまおうか。そんな衝動に駆られた。孟夏の赤色は、圭の思考を狂わせていた。
帰りの車内はどちらもあまり話さなかった。昂る気持ちを抑えるのに必死だった。一禾がほしくて堪らない。突然、一禾が圭の指に自身の指を絡めた。圭は、下心が透けて見えてしまったのかと焦った。だが一禾も同じ気持ちだとわかると車を逆方向に走らせた。
どこでも良かった。一禾を拐って二人で過ごせたら他に何も望まない。指を絡ませ合ったまま海辺の道路を走った。
