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第二十章 懇篤


 病室のベッドに上半身だけ起こしている。腕には点滴の針が刺さり、右肩は包帯でぐるぐる巻きになっていて利き手が使えない。
 入院も二週間を超えるとさすがに退屈だ。ベッド横の折り畳みパイプ椅子には一禾と亜美が座り、チーズケーキを頬張っている。美味しいねと幸せそうに顔を合わせる二人を見ていると、生きていて良かったと思えた。
 あの日、すみれを襲ったのは春子だった。
 肩に感じた重い圧迫感は、春子が覆い被さっていたせいだと思っていたが、実際は包丁で刺された衝撃だった。
 華奢な春子がおもいきり振り下ろしたものはやはり刃物だったのだ。その様子を他人事のように見ていたすみれは、あの時、早く殺してほしいと思った。

「あんたが悪い」

 すみれの耳元で春子は言った。呻くような声だった。すみれは謝った。出ない声を絞り出して謝った。そして罰を与えてくれることに感謝に似た感情すら湧いてきた。
 すみれとトオルの関係に、春子はいつから気付いていたのだろう。だがそんなことはどうでもいい。一生添い遂げると誓った相手の動向に気が付かないわけがないのだ。
 一禾はふと、春子は亜美の夫と浮気していたことを思い出した。春子が自分を刺し殺したいと思ったように、亜美もまた、春子を憎んでいるのだろうか。そして春子もまた、自分にも同じような危機が迫っているかも知れないと考えはしないのだろうか。
 自分の浮気は棚の上なのか。すみれはそんなことを考えていた。
 意識が途切れて間もなく小林が到着した。小林は手際良く止血を施し、すみれと一緒に救急車に乗り込んだ。救急車を呼んだのは女性の声だったと後で聞いた。おそらく春子が呼んだのだろう。元々殺すつもりなんて無かったのだ。そうでなければ肩など刺したりしない。
 すみれが目を覚ましたのは三日後の朝だった。一禾と亜美は泣いていて、入院の手続きは小林が済ませてくれた。その後直ぐに警察が来て事情聴取をされたが、殺人未遂の罪に問われるという春子を、すみれは責める事ができなかった。なぜなら、すみれを襲った動機が夫との離婚だったと警察から聞かされたからだ。春子を追い詰めたのは自分だ。春子が言い渡される罪名はすみれに科された罰則なのだ。これで償えたとは思わない。春子と同じように、自分もこれから償っていく。
 後日、改まった様子で、亜美が一人で見舞いに来た。気まずそうに俯いて座る亜美にすみれの方から謝った。すると亜美は堰を切ったように泣き出し、ひどいことを言ってしまったと何度も頭を下げた。
 以前、亜美の夫の浮気が発覚し、その相手の女がすみれの交際相手の妻だと知り取り乱した亜美は、すみれに「汚い」と言った事を悔いている。それはすみれも認めていた事実だから、言われて当然だと思っていた。
 「あの後ね、旦那に言われたんだ。私は周りの人に対して、敬いや感謝の気持ちが足りないって」
 亜美の家庭は一般的に見て裕福なほうだと思う。夫の役職や給料もそうだが、両親から譲り受けた不動産がいくつもあり、その家賃収入だけでも相当な額だろう。元々がお嬢様育ちの上、結婚した相手も高給取りときたら、少しくらい不遜な態度に出てしまうのも納得がいく。けれど亜美の夫はそれを見過ごさなかった。
 何度も優しく諭されていた時は気付かず、夫を疎ましいとすら思っていた。与えられる事だけに満足し、自分からは何も与えない。
「優しさが欲しかったって言われた。家に帰ってきても癒してくれる温もりが無かったんだって」
 そんな時、亜美の夫と春子が出会った。春子は既に自分の夫の浮気に気付いていて、寂しい者同士、慰め合った。同じ傷みを共有するうちに、本気になってしまった。
 いつだったかトオルが 「妻に癒しや温もりを感じない」と、すみれに言った。亜美と春子はどこか似ている感じがした。違った形で知り合っていたら、仲良くなれたのかも知れない。春子に相談できる誰かがいたらよかったのに。
 そして今回の事件が起きた。春子の起こした一件が他人事ではなく、明日は我が身と捉えた亜美と亜美の夫は話し合い、もう一度やり直そうとなったのだ。
「それで今は、お互い歩み寄ってる感じ」
 そう締め括った亜美の目は、決意した強い印象だった。

 約二ヶ月ぶりの職場は変わらずバタバタしていた。
 病み上がりなのに悪いわねぇ、と言いつつ次々と仕事を振ってくる。すみれはそれでいいと思っていた。正直、事件現場に来る足取りは重かっただけに、忙しい方が気が紛れて有難かった。
 小林はすみれを心配し、この職場を辞めた方が良いのではないかと言った。それほど大きくない街の小さなクリニックで起きた事件の噂は、あっという間に広まり、聞き付けた患者たちの好奇の元となってしまった。当然、何故そんな事件になったのかと聞かれる。その都度うまくあしらってくれる看護師や他の事務員に申し訳ない。人材不足でとても辞められる状況ではなく、今はこの現実を受け入れることが罪滅ぼしと思っている。
 すみれは、これまでの後ろ暗い恋愛について、全て小林に話そうと決めた。小林の気持ちがすみれに向いている今、彼を悲しませるかもしれない。だから話す必要はないと、一禾には止められた。それはただの自己満足に過ぎないと。
 でも、だからこそ、話しておきたい。確かに不安はある。不安しかない。これから先、ずっと側にいたいと思う相手だから、自分の全てを知っていてほしい。たとえそれが一禾の言う通り、自己満足だとしても、真っ直ぐに小林を愛したい。
「すみれさんが生きていてくれて本当に良かった」
 生きている事を確かめるように、抱きしめる腕を一瞬緩め、慌ててすみれの肩を撫でる仕草にすみれは笑って「平気だよ」と応える。安心したように一息つく小林と目が合い、どちらともなく吹き出した。再びこの笑顔を見ることができる喜びを、すみれは全身で感じていた。
 病室で目覚めたすみれに男泣きで「良かった」と声にならない声で言った小林を心から愛しいと思った。あの時、痛みで意識を失ったすみれに何度も呼びかけてくれた。
 意識が途切れる間際にハウリングして聞き取れなかった声は小林のものだった。救急車の中でも呼び続けた。手術中も祈り続け、目覚めるまですみれの側を離れなかった。
 すみれが目覚めると一禾よりも亜美よりも、小林がいちばん泣いていた。二人に肩を摩ってもらい、小林はようやく泣き止んだ。一禾は、そんな小林を「稀に見るいい人」と言って目を潤ませた。
 トオルとの他人に言えない恋愛を知っても、一禾はすみれの側にいてくれた。決して咎める事なく話を聞いてくれた分、たくさん心配もかけた。今度は二人の親友に応援してもらえる恋愛をしよう。小林とならそうなれると思った。
 これまでの後ろ暗い恋愛に慣れてしまっているすみれにとって、面と向かって気持ちを伝えるような明るい恋愛は記憶の届くところにはなかった。こんなにも甘くて酸っぱい恋を、全力でやってみようと思った。
 過ぎた過去は戻らない。無かったことにできないぶん、やり直しはできる。この先の自分が笑っていられるように、今をしっかりと歩んでいこう。


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