創作大賞2024恋愛小説部門応募作「青い海のような、紫陽花畑で」11話
時折、青い光を感じる。
瞼を開ける、瞬間に。
「疲労と感染症だけでは、こんなに長い間、
視力が落ちることはない。かといって他の
病であるとも‥‥。あなたの目は、
精神的な理由で、おそらく、目にした光景が
あまりにも過酷で、あなたの心が、もう
見たくない,と言っている、その現れとして
ぼやけて見えなくなるのでは‥‥。」
軍医の診断をジェレマイアは黙って
聞いていた。
ジェレマイアは職務不可能であるため、
一足早く除隊となり、帰郷することになった。
ジェレマイアは荷造りをしながら、
この、何年にも及ぶ、心の葛藤を
思い出していた。
ブライアンの妻となった妹のリズを愛した。
兄妹として育ち、実際はいとこであっても、
世間向きには恋愛も結婚も許されない
立場であった。
けれども、もっと早く、リズを愛している
自分の気持ちに向き合い、共に生きていくと
決断すれば良かったのだ。
封印した心は、あの夜の、たった一度の、
深く交わした愛により、狂おしくなった。
苛まれ、そして過酷さに逃げ込んだ。
誰もが、ままならない思いを抱えている。
しかし、自分の人生から、感情から、
逃げてはならない。
ふと見ると、ドアの隙間に
手紙のようなものが差し込まれていた。
手に取ると、それはハガキに書かれた絵だった。
ジェレマイアの視界は鮮明ではなかったが、
そのシルエットで馬が描いてある、とわかった。
パドゥシャだ。
美しい女神、パドゥシャ。
そして、部隊の心であったユアン将校。
画家志望の若い兵士がいた。
きっと彼が描いたのだろう。
兵士は言っていた。
終戦し、郷里に帰ったら好きなことをする。
毎日、絵を描いて過ごす。
自分のために、好きなことをして、
自分のすることを愛して、
人生はそれでいいのだ、と。
「リズ、帰るよ。」
ジェレマイアは呟いた。
風が心地よく通る日、リズは家中の窓を
開けた。
両親とブライアン、テディとイリスの写真
の脇においた、ライラック の花が揺れていた。
リズの心も、振子のように揺れていた。
数日前、一通の手紙が届いた。
ジェレマイアの除隊、そして帰省が記されて
あった。
あれから、心は揺れている。
ジェレミーが帰ってくる!
鮮やかな揺らぎ、そして幾ばくかの、
不安、切なさ、ジェレマイアを
愛していると気づいた、幼い頃の
胸の高鳴りまでもが、甦る。
リズは、はやる気持ちを落ち着けようと、
森へ、野いちごを摘みに出かけた。
白く、細い腕に、籠を下げて。
ブライアンとの結婚前、
ジェレマイアの気持ちをどうしても
知りたかった。
心の奥でもしかしたらジェレマイアが
愛を伝えてくれるかもしれない、
と思いながら、不安も、傷つくことへの
恐怖も、たくさんの感情が湧き上がり、
愛はどうして辛いのだろうと思っていた。
けれども、この愛に出会えたからこそ、
人生を生きよう、自分の人生を生きようと
思うようになった。
運命にいつまでも舵を取らせてばかり
ではいけない。
義母のアビゲイル の言葉を
リズは深く、胸に置いた。
紫陽花は昨日の雨で、薄っすらと青く、
色づいていた。
野いちごを籠いっぱいに摘んだなら、
ジャムを作る前に、食べすぎないように
気をつけよう、とリズは思った。
幼い頃、ジェレマイアと籠いっぱいに
摘み、あの香りと甘酸っぱさを楽しんだ。
いい気になって食べ過ぎて、
お腹が痛くなり、ベッドで横になっていた
リズの背中をジェレマイアは摩ってくれた。
優しい、兄だった。
リズは思い出に微笑んだ。
少し首をもたげた紫陽花が、まるで呼んでいる
ように、そして風に揺れていた。
リズはテディとイリスを感じた。
天に召された、
幼い兄妹は天使になって愛してくれている。
リズの瞳から涙が溢れた。
でもそれは、悲しみだけではない、柔らかさ
もある、不思議な涙だった。
紫陽花畑の、清廉さと野生の強さの中で、
リズは思った。
生きて行く、その経験から
悲しみが生まれ、憎しみが生まれ、
持って生まれた愛よりも大きくなってしまう。
それでも、希望と絶望が双璧ならば、
優しい思いで、愛で、絶望を包んでしまえば
いいのだ。内包された悲しみや憎しみは
きっと、内側の海で光に変わるだろう。
少し鬱蒼とした紫陽花を掻き分けるように
リズは歩き、進んで行く。
すると、人影のようなものを感じた。
そして前を、野うさぎが横切った。
走り去る野うさぎをリズは見ていた。
紫陽花がリズの前をもたげ、それを
避けた時、リズは一瞬、息を止めた。
その背中は、いつも見ていた、
優しく、不器用で、言葉足らずで、
そして。
リズは声を出しそうになるのを手で抑えた。
ジェレマイアは座っていた。
紫陽花畑に。
ただ座っていた。
リズはどんなふうに声をかけたら
いいのか、戸惑った。
それでも、その、愛しい背中に
近づいて行く。
ジェレマイアとリズの間には、感情的な
混乱が幾つもあった。
けれども今は、静かな海のように。
ジェレマイアは聞いていた。
感じていた。
リズを。
ジェレマイアは背中を向けたまま、
手を差し出す。
その手を、リズは掴む。
それから、強く握り合った。
ジェレマイアの視界は靄がかかっていたが、
けれども、ずっと待ち望んだ、
ずっと愛してきたリズが、記憶で見ていたのかも
しれないが、鮮明に映し出された。
リズはただ、ジェレマイアに惹き寄せら
れ、体ごとすべてを抱きしめられる、
その幸福に浸った。
お互いの体温を感じていた。
涙もそのままに、リズは言った。
「ずっとこうしていたい。
ずっとこのままでいたい。」
深い抱擁、何度となく、重ねる唇、
時間を忘れ、止まり、しかし、
今、ここに存在しているのだ。
そして
悲しみと愚かさと混乱が解け出し、
甘く優しい光を浴びている。
リズとジェレマイアはいつまでも
抱きしめ合っていた。
リズは曇り始めた空を見上げた。
「今度は氷河がやってきて、
私たちはこのまま、流されてしまう
かもしれない。」
その言葉にジェレマイアは静かに
笑って、そして言った。
「離れないよ。」
リズは言った。
「流されて化石になって。
それでも離れないの。
離れないのまま、化石になるの。」
紫陽花は風に揺れ、音を立てていた。
いつか、聞いた音、いつかの言葉、
いつかの、温もり、いつかの、愛。
螺旋のように、輪廻は続く。
その、生涯で様々な感情に彩られ。
