創作大賞2024恋愛小説部門応募作「青い海のような、紫陽花畑で」9話
その朝の風は、低く吹き、そして湿っていた。
それはまるで、悲しみの風のようだった。
ジェレマイアはパドゥシャの、少し乱れた
前髪を直し、それから首筋を撫でた。
「君に、神の加護を。」
パドゥシャは美しい瞳を近づけてきた。
それからジェレマイアに息を吹きかけてきて、
そして首を上下に振った。
パドゥシャは別の部隊へ行くことになった。
ユアンの愛馬にして、高い能力のパドゥシャに、
誰もが乗りたがった。しかし、次にパドゥシャ
が行く部隊は、粗雑だと言われていた。
美しい女神、パドゥシャ。
戦争に巻き込まれなければ、大地を走り、
空の下で、自由な風の中でまどろんでいたの
かもしれない。
「パドゥシャの、この美しい瞳の中には
きっと、永遠があるのだろう。」
ジェレマイアの耳に、ユアンの言葉が
声が、まだ残っていた。
永遠を求めたユアン。
数時間後のことだった。
パドゥシャが馬房で亡くなった。
心臓発作だった。
朝方、何事もなく、変わらぬ美しさを
湛えていた、パドゥシャ。
動物たちには、突然の命の終わりがある。
それは人が無理をさせ、人が心と体に
悲しみを植え付けた、その代償のように。
悲しみは体を蝕み命は、はかなく消える。
ジェレマイアは摘んだ秋紫陽花を胸に、馬房へ。
そこにはもう、あの華やかはなく、
それはユアンの、高貴さをも失われた、
部隊そのものの、枯れた様子を現すかのように。
「この部隊は、ユアンとパドゥシャの心
がすべてだった。」
ジェレマイアは呟いた。
そしてエルダーベリーのような、
赤紫色の秋紫陽花を馬房にそっと置き、
パドゥシャに捧げた。
戦闘は続いていた。
ありったけの愚かさの中で、人も動物も
翻弄された。
ジェレマイアの目の霞が、酷くなっていた。
そしてある日、寒い冬の朝、
ジェレマイアは倒れた。
酷い疲労と流行りの感染症にかかっていた。
ジェレマイアはとうとう、動けなくなり
寝込んだ。何日もただ眠っていた。
時折、医師がやってきたり、
看護の修道女が側にいるのを感じた。
修道女が十字を斬り祈る。
次に目覚める時はこの世ではないかも
しれない、とジェレマイアは思った。
ヘタレた医者
誰かにそう言われてもいい。
人生とは何であったのか。
困難は境遇でしかなく、
苦悩は運命なのか。
失いたくないものは何か。
そして、失っていないものは、
何か。
瞼を開け、薄っすらと見えたのは
ロザリオだった。
とうとう、臨終に修道女がやってきたのだろうか。
「ユアンがお世話になって。」
おぼつかない呼吸を繰り返すジェレマイアの
手に、そっと手を重ねて、彼女は言った。
ジェレマイアは靄がかかった視界で、
彼女が首から下げた、
古めかしいロザリオを見つめながら言った。
「君はカタリナ?」
「ええ、カタリナよ。」
カタリナは落ち着いた声だった。
ジェレマイアはベッドの脇の、小さな
物入れに手を伸ばした。
そして手探りで指輪を見つけ、それを
カタリナに渡した。
カタリナは指輪を手にすると、
溢れそうな感情を抑えようとしていたが、
涙がとめどなく流れた。
「ユアンは、この部隊の心だった。」
その言葉にカタリナは何度も頷き、涙を拭った。
「ユアンは不器用で寂しがり屋で、本当はいつも
不安なの。自分はいつか愛を失うのでは、と。
私は決してユアンの元から去りはしないのに。
長く一緒にいたら行き違いはあるだろうけれど、
私はユアンを愛する生涯だと決めていた。それなのに、愛を怖がって、永遠を探し行ったのよ。」
カタリナは大事そうに指輪を両手で包んだ。
ジェレマイアは胸がいっぱいになった。
「動物が好きで、繊細で不器用な医者
に戻り、愛する人の元へ、帰るように、と。
ユアンの手紙に書いてあったの。
親友への、遺言ね。」
カタリナはそう言ってユアンの指輪を
愛おしそうに眺めた。
親友からの遺言は、ジェレマイアの胸に
深く響いた。
「カタリナ、君はこれからどうするの。」
カタリナは目を伏せた。
それから、ジェレマイアを見て言った。
「しばらくはこのまま、ユアンのことを
思って生きるわ。けれどもずっとそうして
はいられない。運命に浸らずに、自分自身を
生きよう、そう思っている。」
靄がかかったジェレマイアの視界でも
カタリナが笑顔なのがわかった。
前を向いて行こうとしているのがわかった。
「リズ、と、あなたは私に呼びかけていたわ。
リズの元へ、あなたは帰るのね。」
カタリナは優しく言った。
リズ。
ジェレマイアは心の中でリズを呼んだ。
「ありがとう、カタリナ、ユアン。」
ジェレマイアの言葉に、カタリナは
微笑んだ。
カタリナが去ってから
ジェレマイアは泣きじゃくった。
涙は止まらず、呼吸も辛くなった。
カタリナは素晴らしい女性だった。
あたたかな愛を持っていた。
ユアンはきっと、カタリナと幸せに
生きることができただろう。
ユアンの探す永遠は、もう手の中に
あったのだ。
そしてユアンは、カタリナの中で
永遠の愛として輝く。
パドゥシャに乗ったユアンが空を駆けるのを
ジェレマイアは想像した。
それは美しい夢だった。
そして、あの、青い紫陽花畑で、リズが
笑い、泣き、時に怒り、たくさんの感情を
向けるのを想像した。
それも美しい夢だった。
