私の価値とは?死後に残すものと生きる意味
自分がいなくなったあと、何か残るものなんてあるだろうか。
無職で、物も持たず、誰かに語れるような立派な経験もない。
そんなふうに思う日は、決して少なくない。
それでも、目に見えない“何か”は、ちゃんと誰かに届いているかもしれない。
そんな希望。
「1円にもなりません」と言われた日
父が、家に出張買取を呼んだ。
昔のゴルフクラブや、退職記念に職場から贈呈された金杯。
それなりに価値があると思っていたらしい。
けれど査定の結果、それらは「1円にもなりません」と言われた。
なんとなく、それを聞いたとき私の身体がずしりと重くなるのを感じた。
私も、自分が持っているもので、高く売れるものなんて一つもない。
そう思った。
物も、思い出も、もちろん何のスキルをも持ちえない自分自身も。
働いていない自分に「価値」はあるのか
今の私は無職だ。
本来、人は仕事をして、誰かの役に立って、お金を得る。
それが社会での“価値”だと、ずっと思っていた。
だから、何も生み出していない私は、何者でもないような気がしてしまう。
冬になると、毎年のように気分が沈む。
冬季うつ、という名前がついているらしい。
「もう何もかも終わらせたい」と思ってしまう日もあった。
欲しいのに、手を伸ばせない
私は欲しいものがないわけじゃない。
本当は、かわいい靴も、微妙にかわいさが分からないぬいぐるみも、お姫様みたいなコスメも、いろいろほしい。
でも、「死んだあとのこと」を考えると手を伸ばせなくなる。
自分の未来に、保証ができない。
「これを買ったあとに、ちゃんと生きていけるだろうか」
「ちゃんと働けるだろうか」
そんな不安が、心のひもをきつく縛ってしまう。
一日に意味を持たせる方法は感謝
だけど、気分が沈んで、自分に価値がないように感じたとき。
私は、人に感謝を伝えるようにしている。
それは、たまたま救われたくて開いた精神科医のYouTubeとか。
細い光で静かに輝いている、誰かのnote記事にコメントをすることとか。
大食いYouTuberが、癖になる食べっぷりで、どんぶりをぺろりとたいらげる動画とか。
「今日も配信してくれてありがとう」
「なんだか安心しました」
「これを読めて(観れて)よかったです」
そんなふうに、誰かの発信に言葉を返す。
すると、いいねが返ってきたり、投稿者さんが返信をくれたりして、
ほんの少しでも、喜んでくれる。
それだけで私は、「今日という日には意味があったのかもしれない」と思える。
一日で、誰かを一度でも喜ばせることができたなら、
それは、価値のある一日だったということにしても、許されるのではないだろうか。
「声を上げること」の意味
でも、何も言葉を発しなければ、
それは、私の思考も、それに費やした時間も、すべて消えてしまう気がする。
選挙も、「自分の1票なんかで変わらないじゃん」と思わずに、
投票すること、意思表明をすることが大事なように。
「声を上げること」が、大事なのだと思う。
誰かに何かを伝えたという事実が、
私が今日ここに生きていた、ささやかな証になる。
モノがなくても、言葉は残る
モノを持たない生き方をしていると、
「自分が死んだあと、何も残らない」ような気がして、ふと不安になる。
でも、思う。
言葉や思考は、形にはならなくても、
誰かの中でそっと残ることがある。
たとえば、今日の「ありがとう」も。
小さなコメントも。
動画の再生数にカウントされた一回も。
それらは、目に見えなくても、私が“存在した痕跡”なのだ。
未来を信じきれないけれど
私は、自分の未来を信じきれていない。だからモノを増やせないのかもしれない。
でも、モノを持たない代わりに、
私は今日も思考と言葉を持って、生きている。
これは誰かに向けて書いているようで、結局、過去の自分に届けたくて書いているのかもしれない。
数か月後、数年後の私にも。
「今日も、ちゃんと生きてたね」
そう言ってあげられる一日が、たった一つでもあれば。
それは、価値のある人生だったと、
少しは思えるようになるかもしれない。
