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49歳、人生の優先順位が変わった日


私は、ずっと、自分の人生に起こる出来事には意味があると思ってきた。


どんなにしんどいことも、自分を強くするためだったり、自立のためだったり。向き合うことの大切さを教えてくれる出来事だと受け止めてきた。

ただ、今回の出来事だけは、これまでとは少し質が違っていた。

まだ、その違いの意味を私はうまく言葉にできないままいた。


49歳の春、2週間以上も体調を崩した。

最初はただの風邪だった。

それが次第に咳がひどくなり、夜眠れなくなり、寝ても覚めても、鎮痛剤を飲んでも和らぐことのない頭痛にずっと悩まされるようになった。

これほどひどい体調不良に悩まされたのは、初めてだった。


「50歳くらいになったら、脳ドッグを受けてね。」
20代の頃、母に言われた言葉をふと思い出した。


私の住む街では有名な脳外科で検査を受けることにした。

病院へ向かう道すがら、父が50代前半でくも膜下出血で倒れ、亡くなったこと、父方の祖父が3回も脳梗塞をしたことを思い出した。

不安がじわじわと広がる。

それでも、どこかで「まあ、なるようになる」と割り切ってしまう自分もいた。



病院はとても混んでいて、診察と検査が終わるまでに5時間以上かかった。

「頭痛の原因は、血管の破裂など大きな病気ではないですね。これはいい情報です。」

医師の言葉に、少しだけ安心する。
しかし、すぐに続きがあることが見て取れた。

「悪い情報もあります。右と左に2mmの動脈瘤があります。お父さん、くも膜下出血だったんですよね。このあたりは遺伝的な要因が強いと思います。これが大きくなって破裂すると、くも膜下出血になります。まだ小さいので経過観察で大丈夫です。3ヶ月後にまた来てください。」


それほど大きなショックは受けなかった。

父だけでなく、父方の祖母も50代前半で亡くなっている。だから、自分が長生きするという未来予想図がそもそも私になかった。


ただひとつ願うことは、2人の子どもたちが母親を必要としている間は、元気でいたいと思った。


次回の予約をしてから、冷静に医師に尋ねた。

「大きくしないためにできることはありますか?」

「薬で小さくすることはできません。対策は難しいですね。ただ今回血圧が高かったので、それはリスクになります。あとは、たばこやお酒の習慣があるなら見直しが必要ですね。」

幸い私はお酒もたばこも習慣がなく、血圧も体調不良による一時的なものではないかと医師に伝えた。

できれば毎日血圧を記録するように言われ、病院を後にした。



動脈瘤と体調不良をきっかけに、これまで追いかけてきた夢や目標が急にどうでもいいもののように思えた。

自分の核になっていたようなものが、すっと離れていくような感覚だった。


それよりも大事なのは、健康であることと、家族。
そう思った。


主人は、「今の仕事やめたら?」と少し怒ったような声で言った。
そのあと少しして、いつものように穏やかな声で「まあ、そんなわけにはいかないか」とつぶやいた。


21歳の息子は淡々と、「そういう体質っていうか、だよね?健康に気をつけているほうだからきっとこのまま大丈夫だよ」と言った。

18歳の娘は、とても不安そうな顔をしていた。


家族の様子を見ながら、自分の気持ちと向き合ったとき、気づいたことがあった。

ゼロから始めた私にとって、かけがえのない「書く」という仕事の価値が、自分の中でゆっくりと下がっていく感覚だった。


それから、私はペースを落とし、家族の食事や自身の健康に重きを置いた生活へと切り替えた。

今回、自分の健康や、もしかしたら命を失うかもしれないという現実を前にしたとき、本当に大切にしたいものは何なのかが見えた。

想いを言葉にして伝えることでもない。
長年育んできた美容の知識を活かした仕事でもない。

ただ、家族だった。



正直なところ、私は長生きをしたいと思ったことがない。

生きることに執着するよりも、いかに大切な人たちに迷惑をかけずに人生の幕を閉じるか。そのほうが、ずっと大きなテーマだった。

そう思うようになったのには理由がある。
身近な人の人生の終幕を見てきたからだ。


けれど、今回初めて「もう少し生きていたい」と思った。
子どもたちが、もう少し大人になるところを見たい。

自分の力で人生を選び取り、迷いながらも前へ進み、自分の足で歩いていく姿を見届けたい。


彼らの背中が十分に大きくなり、「もう大丈夫だ」と安心して見送れるその日までは、元気でいたいと思った。

だから、私は生き方を変えることにした。
まだ間に合うことに感謝した。



父がくも膜下出血で倒れたのは、忘れもしない27歳の暑い夏の日だった。

お腹には、初めての子どもがいた。
ちょうど幸せの真ん中にいた。


土曜の朝、母から電話があった。

「落ち着いて聞いてね。お父さんが倒れた。くも膜下出血だって。意識はないけど、頑張っているから、すぐに帰ってきて」

言われた意味を理解するより先に、体だけが動いていた。

主人と羽田に向かい、札幌の病院へ飛んだ。

きっと病院に着けば、手術はうまくいっていて、父の意識は戻っているはずだと自分に何度も言い聞かせた。

しかし、その期待はすぐに散った。

命は取り留めたものの、父が目を覚ますことは二度となかった。


それから約2年後、父は亡くなった。
医師は「医学上ここまで持ったのは奇跡に近い」と言った。

その2年間は、父が最後に母と私にくれた、別れを受け入れるための時間だったのだと思う。


父を亡くした後、私の心には理不尽さが付き纏った。

誰にでも訪れるはずの当たり前の幸せな時間が、父からだけ奪われたような気がした。

初めての孫を抱くはずだった日も、父には来なかった。
母と寄り添いながら老いていく時間も、父には許されなかった。

そのことだけが、長い間まるでしこりのように残り続けていた。

同じ想いを子どもたちに味わわせたくないと思った。



あれから数週間が経った。
私は、生き方を変えた。

あの体調不良と診断は、私が大切なものを見失わずに済むための出来事だったのかもしれない。

そして、ギリギリのところで大事なものを失うことを防ぎ、かけがえのないものを知らしめてくれるきっかけだったのだと思う。

1、2日で日常に戻れていたら、ただの体調不良として通り過ぎ、また同じ毎日を繰り返していただろう。

でも、もう後戻りできないと強く認識するほどひどい体調不良だった。

あの時間があったからこそ、私は立ち止まることができた。

そして、あの診断があったからこそ、自分にとって何が一番大切なのかを見つめ直すことができた。


あれから数週間、働き方も変えた。

以前は、文章が頭の中に降りてきたり、いい企画が映像のように思い浮かんだりすると、すぐに形にしたい衝動に駆られた。

そして、どんな時間でも夢中になって書き続けたこともあった。


でも、今は多くて1日1本しか書かない。
しかも、毎日は書かない。

そして、机に30分以上は座らない。
1日2時間を超えて仕事をすることもない。

そう決めたのだ。


以前は少しでも長く書きたくて、1日に多いとき4回作る食事の支度も、3回も回すことがある洗濯機から出る家族の衣類も恨めしく思っていた。

それが、今は違う。


子どもたちの巣立ちの日も近い。

いつまでこの子たちにご飯をつくることができるのか、洗濯物を干して畳めるのはあと何回か。

そう考えるようになった。

家族と過ごす時間や家族のために割く時間を愛おしく感じられるようになったのだ。

同じ行為のはずなのに、向き合う想いが確実に変わっていった。


書く内容も数字などの評価や報酬に左右されず、自分が本当に書きたいものにシフトした。

限られた時間で紡ぐ言葉だからこそ、より大事にするようになったのだ。

そして、無理をして積み上げることよりも、続けていけることのほうが大事だと思うようになった。


すべては、健康であってこそ。
その感覚は、以前よりずっと現実的なものとして私の中にある。

かつてないほどの体調不良と動脈瘤の発見で、優先順位はすっかり変わっていた。

書くことよりも、守りたいもののほうが先に立つようになっていた。


何よりも家族を大切にしていた父。
遠い遠い空の上に行ってしまった今でも、気配だけはふとそばにあるような気がした。

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遠藤幸子|顔と生き方を紡ぐ美容エッセイ この記事が少しでも参考になったら、応援していただけると嬉しいです☺️ いただいたチップは、比較記事レビューのコスメ代に使用させていただきます🙏