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自分に降りかかった出来事とその後の症状、回復の経緯について【3歳から中学卒業まで】

みなさんこんにちは。
虐待サバイバー・宗教二世当事者のさちんぬと申します。

これまでの人生で、なんとか生き延びる事が出来た事、虐待といっても具体的にどんな事が起きているのかということ、虐待を受けた後、大人になっても具体的にどんな辛い毎日が続くのかなどの理解度の低さによる二次被害などを自分含め身近な人たちからもよく聞く機会が増えました。
残念ながら虐待を受けた方の自殺率も決して低くありません。

理解されない理由は複数あると思うのですが、要因の一つに当事者がある程度回復に至らない限り、具体的に何があったのかを話すことが出来ないからだと感じています。
また、回復したとしてもあえて辛い過去を話したいと思う人は限られます。

そこで今回、改めて幼少期から現在に至るまでの間に起きた出来事と、それらが引き起こしたであろう私の心身の状態・治療、それらが良くなってきた過程についてまとめたいと思いNoteを開いています。

あくまで私の個人の体験であることと、正しい認知をしていただきたいために具体的に文章として綴りますので、フラッシュバックなどの想起が予想される方はご注意ください。

とても長くなるので年代別に分けて書いてゆきます。
お付き合いしてくださる方、ご興味がある方はぜひ読んでいただけるとうれしいです。

虐待とはどういうことなのか。
虐待を受けてきた子供はどんな生活を送ってきたのか。
あくまで私の身に起きた出来事ですが知って頂けたら嬉しいです。

どうか、正しい認知が広まりますように。

では時系列順に書いてゆきます。


生まれて記憶がある3歳から5歳ころまで


生まれたのは北海道のど田舎です。
父の仕事の関係で父、母、私の3人で私が3歳の時に静岡県に引っ越しをしました。
私の両親は宗教内で出会い結婚をして私が生まれました。
私の記憶があるのは3歳ころからですが、その時すでにカルトに入れられていて毎日仏間で正座をしてお経を読まされていました。
朝昼晩、毎日です。
畳の部屋に高級で大きな仏壇とシキミ、線香、鈴があります。その匂い、音は大人になった今も消えません。

子供用にひらがなだけの経典があります。
数珠も子供用のものもたくさんあります。
夜は大抵宗教活動で親は家にいませんでした。
会場に連れて行かれるか、家に1人で放置されていました。幼い自分がひとり夜、家にいると部屋は本当にしんとしていて寂しさと同時に安心がありました。読経する声が苦手だったのです。
本を読んだり絵を描いたりして親が帰ってくるまでの時間を過ごしました。

多くの方は普段の生活であまり正座をしないので足がしびれるということを最近知りました。幼少期から長時間正座する毎日だったので今も10時間正座をしても痺れなくなっています。その代わりに足に座りタコがあります。子供の時からのコンプレックスです。
幼稚園に通い、宗教活動に連れて行かれる。そんな毎日でした。
食事中の会話も宗教のこと以外は何もありませんでした。

小学校に上がるころから母親の不安定さが増す・父親から金槌で後頭部を殴打、搬送される


幼稚園の頃も、母親が些細なことで怒って叫んだり切れて物を投げて壊したり、家の鍵を閉めて私を外に放置させるなどしていましたが、それらがもっと酷くなったのは私が小学校にあがる6歳のころでした。

言葉で明確に『お前なんて生むんじゃなかった』『金食い虫』『早く死ね』などの言葉での暴力のほか、良くランドセルの中身を全てベランダから捨てられて拾いに行きました。夜に捨てられる事が多く、目を凝らさないと散らばったものが見つからなくて大変でした。
父は見てみぬふりをしていました。

飲みものをうっかり少しでも溢すと殴られるので毎日緊張して生きていました。
ある日の夜、今度は突然父親に金づちで後頭部を殴打され、3回目の殴打で脳がぐらぐらする感覚、意識が飛ぶ、もう死ぬかもしれない、と朦朧とした頭で思いました。理由はわかりません。とにかく突然両親は不安定になり、その度私に暴力を振るうのです。
その時、母親は『殺さないで!』と叫んでいましたが、その母親にその後殺されかけます。

後頭部を激しく殴打された翌日、吐き気が止まらず動くことができませんでした。普段はお金がかかるので病院に連れて行かない両親でしたがさすがにまずいと思ったのか、この時は病院で精密検査をした記憶があります。

気分が悪く、病院の待合室の長椅子で横たわっていると、突然母親がお経を唱えだしました。

この時わたしは心から『気持ちが悪い!』と強く思いました。
自分たちで暴力や暴言をふるっておきながら救いをカルトに求めている、縋っている母親を心底気持ちが悪いと思いました。その宗教が掲げるテーマは『世界平和』です。どこが平和なんだと思いました
ただ当時私は6歳です。
こんなことを思ってしまう私はいけない子供なのではないかと自分を責める気持ちも同時にうまれました。

当時幼い私はまだ親に好かれたい一心でした。
私がもっと頑張ったらお父さんやお母さんに好かれるのかな、と思っていました。
母の日にも、父の日にも、子供ながらにプレゼントを用意しました。
クラスメイトは親にプレゼントをして喜ばれているようでした。

ある母の日に渡したプレゼントを『こんなゴミいらない』と言ってバラバラにしてごみ箱に捨てられた記憶は、私の心を強く引き裂きました。私は愛されない子供なのだ、この人たちは私の父でも母でもないのだ、という思いを強くしました。

そして父も母も私をゴミ扱いする癖に、子供の私に依存していました。
母親の体調が悪くても、父は宗教活動に出かけます。
その際『母さんをみてろ』と言われます。
母も母で私の名前を布団から呼ぶのです。『○○、辛いの、助けて』と6歳の私に言うのです。そのころから私は過剰に責任というものが怖くなりました。子供の私には出来なくて当然のことですが、私が親の思い通りに動けないと罰があるからです。

母や父の幼少期の愚痴も何百回も聞かせられました。
私たちはこんなに大変だったのだ、お前は恵まれているんだ』と何回も聞かせられました。
私の心は分裂しそうでした。この人たちは可哀想な人なの?私はどうしたらいいの?でも私の気持ちはどうして聞いてくれないの?

私の体調や気持ちはすべて無視されたうえでこの人たちの生活が回っていることに幼いながらも心のどこかで気づいていました。

そして子供ながらにそんな親が哀れだとも感じていました。
自分の親をそんな風に思いたくなかったけれど、どうしたってこの人たちは未熟で哀れな人たちだと感じるようになりました。
私は情緒的に、子供時代が一度もありませんでした。

その間も両親の宗教活動は熱心に行われ、選挙の時期などには私も県外にまで連れまわされました。人混みで酔うのでとても辛かったです。休みをゆっくり安心して過ごしてみたかったです。友達と遊んでみたかった。
両親は現実社会になじめないため、宗教活動をすることによって、また過度に依存することによって自分を維持しているようでした。

10歳から早朝の宗教の新聞配達とリウマチの発症、学校のいじめ

10歳、小学校4年生の時、再度父の仕事の関係で今度は秋田県へ引っ越しました。家庭内での親の不安定さはさらに増し、足音、咳払い、ドアノブを回す音など生活音すべてに気を張り巡らせていました。

理由もなく、容赦なく、不機嫌だと殴られたり、大切なものを壊されるからです。トイレもお風呂も監視下にあります。長く使用することは出来ません。私が使うものは全て生活費の無駄で『金食い虫』だからです。
そのころ私は学校の体育の時間に体の違和感を覚えました。膝に力が入らなくなり、朝、全身がこわばるようになりました。

辛さを訴えましたが私は『金喰い虫』です。
親は病院費を出しません。
このころには両親が毎年宗教に何百万も貢いでいることを知っていました。
ずっと『我が家はお金がないんだ』と両親に言われて育ってきましたが、お金はきちんとあるのです。
ただ私に使いたくないだけでした。

いよいよ体の関節が腫れだして熱が上がり、歩くのが困難になりました。
体育の授業に出られなくなり、ようやく親が私を病院に連れて行きました。

様々な検査をした結果、若年性の慢性関節リウマチであることが判明しました。親からは検査にかかったお金についてと、『体が弱いお前が悪い』と言われました。
毎日全身の関節が痛くて足を引き摺って学校に行きました。
まだ成長期だったので強い薬は使えず、痛み止めもほとんど効いていませんでした。
でも家にいるより外にいるほうが安全です。
意地で学校に行きました。

ですが、今度は転校先で虐めが始まりました
当時の私は暗くて、内向的な子供だったのでそんな転校生は虐めのターゲットとして最適だったのでしょう。

下駄箱の上履きには毎日画鋲が入れられるようになりました。
わたしの机には花瓶と花が置いてありました。
ノートには死ねと書かれるようになりました。
ある日、学校に行くと椅子も机もありませんでした。
クラスメイトはニタニタ笑っていました。

ああ、この世界は地獄なんだなと思いました。
生んだ親もクラスメイトも、私はなにもしていない、ただ存在しているだけで死ねという。こいつらは一体何なんだろう。

私はこの頃なんの疑問もなく、感情も感じられず、ただ『早く死ななくてはならない』とだけ思って生きていました。後になってそれが洗脳で、どれだけ怖いことかを知りました。

私を救ったのは当時、学年は違えど同じように転校してきて虐めにあっていた女の子との出会いでした

彼女は関西出身で、辛い毎日でしたが会うと楽しい笑いを私にくれました。
ほとんど無表情で生きてきた私は彼女と会話できる時間だけ、希望を持ちました。
虐めてくる奴らにだんだんと腹が立つようになり、すこしづつ感情を取り戻しました。
ですが生まれ持った性格はすぐには変えられず、なかなかイジメをする人間に言い返す事ができない日々が続きました。

そのころ家庭内では『お前ももっとこの宗教に貢献しろ』ということで毎朝学校に行く前に宗教の新聞配達をさせられることになりました。

リウマチは特に寒い時期に痛みが酷くなります。
また、朝が一番体のこわばりもきついのです。
私は親に訴えました。本当に体が辛いから許してくださいと頼みましたが、そんなことを聞く親ではありません。
この頃から親は私に敬語で話せと要求するようになりました。
親子ではなく、完全に私は奴隷でした。

仕方なく私は雪の日にも足を引き摺って新聞配達を配達して、それから学校に向かいました。
本当に辛くて死にたかった。
毎日お風呂場で声を殺して泣きました。

それまで家庭のことを誰にも話せずにいました。
他の家の普通と自分の家の違いを知らなかったからです。みんなも辛い日々を送っているものだと思っていました。

でももうあまりに辛くて唯一話せる彼女に話しました。
そこで初めて私は親に酷いことをされていて、私自身は何も悪くなかったことを知りました。

彼女に泣きながら『私は死ななくてもいいの?』と聞いたとき『あたりまえだよ!』
と言ってくれたことが忘れられません。本当にありがとう。

その日から私は変わろうと強く思うようになりました。
負けたくない。

その翌年、また引っ越しと転校がありました。彼女との別れは辛かったけれどわたしは自分を変えるチャンスだ、と思いました。

私を誰も知らない環境に行けるので、強い自分に変わりたいと必死で毎日願いました。ですが、人間はそう簡単には変われません。
初めは嫌な事を言われても何も言い返す事が出来ませんでした。

でもそんな自分が悔しくて、もう誰にも虐められたくなくてある日、勇気を振り絞って相手に言い返しました。
声は震えていたと思います。でももう私は虐められる毎日を変えたかったのです。そんな自分をもう見たくなかった。惨めな自分を変えたかった。
相手はすごく驚いた顔をしていてそのまま何も言わずに私の前からいなくなりました。

そこで知りました。
虐めをするような人間は子供であろうと人を選んでやっていて、言い返してくるような人にはしないんだという事。

結局誰かとつるんで動く事しか出来ず、1人では何も出来ない弱い人間なのだと理解しました。

そこからは段々と物怖じせずに発言できるようになり、それはクラスメイトだけでなく親に対しても変化し、おかしいものはおかしいとはっきり言うようになりました。

父の単身赴任・宗教の拠点会場と殺人未遂


今まで反抗しなかった私がハッキリと両親に対してもおかしいものはおかしいと言い出した事に腹を立てた母親はより不安定になり、毎日怒りを爆発させるようになりました。私はなるべく関わらないように、刺激しないように静かに暮らす毎日となりました。
父は宗教活動により熱心となりました。本気で宗教活動を頑張れば全てが良くなると信じているようでした。気が狂っていると私はすでにこの時感じていました。

とはいえ、子供なので帰る場所はここしかありません。
私が中学生になる頃には寝ている夜に母親に腹を蹴られる毎日になりました。

なぜ寝ている時かといえば、起きている時は私が大きくなり相手の腕を振り払ったり、自分で防御できるようになったからです。
寝ている時は完全に無防備なのでもろに腹に蹴りを喰らうと動けなくなります。
こうして家は全く安全な場所ではなくなり、私は野宿を始めました。

当時の中学校と海

当時住んでいた家は海沿いで、近くには小さな漁船とテトラポットがありました。
田舎なので1人でいると目立つのでテトラポットの隙間で夜を過ごし、朝になると漁師が来る前に中学校に向かう生活になりました。
テトラポットが危険だということは大人になってから知りました。
その頃から安心して眠れることはありませんでした。
また、学校なので給食がありますが朝ごはんと晩ごはんを家で出されなくなったので毎日空腹でした。『お前のご飯なんかない』とはっきり言われました。父と母の2人でご飯を食べている姿を見ていました。
あまりの空腹で雪を食べたこともありました。

こうしてなるべく両親と接しないように、刺激しないような毎日を生きていましたが、また引っ越しをする事になりました。

場所はすぐ近くです。
転勤族だった私たちは大体が官舎か借家住まいでしたが、両親が家を建てる事にしたのです。

新しい家が建つことは私は嬉しかったのです。
初めて自分の部屋が持てるかもしれないなと思い、今まで引っ越し続きで家というものがなかったので自分の居場所が出来るような、そんな嬉しい気持ちを持っていました。

けれど家が完成して引っ越すとその家は宗教の拠点会場として使用することがわかりました。その頃には両親が宗教内で役職にもついていました。

駐車場が異様に広いのはそのせいで、仏間も異常な大きさでした。

宗教の拠点会場というのは、信者たちが集まってお経を唱えたり、会合を開いたりする場所になるということです。

毎日のように朝から晩まで信者が来て、私はノイローゼ気味になりました。
常に家に信者がいる。全く休めない。限界を感じていました。

そして家を建ててから父の単身赴任が決まりました。
はじめ、母親は『お前も行くんだ』と何度も言いましたが、私はもうリウマチの痛みの辛さや、転校先でやっと友達ができたことや、何より親に対してハッキリと『嫌だ!』という事が増えたので最終的に父が一人で行く単身赴任となりました。

そこから母は完全に気が狂ったようで、ある日の夜、お腹が空いて冷蔵庫に何かないかなと台所に向かうと、一人で佇む母親を見ました。
その瞬間に『あ、これはやばい』という感覚が、警告音が爆音で頭の中に響きました。

目、目がおかしい。
危険だと即座に察した私は引き返そうとしましたが母が凄い形相で『お前を殺してやる!』と台所にあった包丁を手にしました。

私はその時初めて本気で殺意のある人間と対峙しました。
そうか、殺意を持たれるってこんな感じなんだ。時間も空気も凍って止まった感じがする。やたら周囲の音が静か。

そして恐怖で足がすくんで動けなくなったのです。

そうして私は台所で喉元を刺されました。
けれど、かなり傷が浅かったため、命には別状ありませんでした。
しかし心のほうはそうは行きません。震えが止まらなくなりました。呼吸がうまく出来ません。心臓がバクバクする。
相談できる大人はいません。身近な大人は全てカルト信者です。
両親の兄弟のほとんどもカルトに入信しています。過去に軽く家庭の事を話したら『嘘を吐くな』と言われてから大人を信用出来なくなっていました。

ここにいたら私は多分本当に殺される。生まれて記憶がある頃からずっとそう思って生きる毎日で私が壊れるのはあっという間でした。


家に帰りたくない。怖い。けれど中学生だ。
まだ仕事は出来ない。家から出ることが出来ない。
家は牢獄で地獄だ。毎日暴力と暴言を投げつけられる。
最近は母親の状態が異常すぎる。
怖い。逃げたい。安心して休みたい。リウマチで全身が痛い。早く大人になりたい。


独学の高校受験と離人症の発症


なんとかギリギリの精神状態で私は中学3年生になりました。
リウマチは薬を飲んでも痛くて箸も持てなくなり給食もうまく食べられなくなりました。ストレスなのか毎日頭痛と腹痛もあり体調は最悪でした。
私は幼い頃から数学と絵が好きな子供で、いつも一人の時、絵を描いてはその世界に没頭して心をなんとか保っていました。唯一の逃避先でした。多分、絵がなかったらすでに生きていなかったと思うほど大きな私の居場所であり、逃避先でした。
私には明確に行きたい高校がありました。
それは当時その県内で唯一ある美術短大附属高校です。

その高校に入学することだけを希望に、私は生きていました。
当たり前ですが親が受験のサポートなどは絶対しないのでまだインターネットが普及する前の時代、大きな図書館に足を運び、美術について学びました。

デッサン、平面構成、小論文。
受験に必要なことは全て図書館で借りた本から学びました。
孤独でしたが、頑張れたのは希望があったからです。

その美術高校には寮がありました。
当時私の住んでいた場所からはその高校までかなり距離があるため、高校に合格すれば寮に住めるかもしれない、この家を出られるかもしれないという希望がありました。

好きな絵を学びたい。この家をどうしても出たい。
そのためだけに必死で勉強しました。

学校生活では現実感が感じられない時間が増えました。
ある朝、起きて顔を洗おうと洗面台に向かうと鏡に映っている人間が誰なのか一瞬わからなくなりました。

とにかく現実感がないのです。

子供の頃から絵が好きな理由の一つとして色は私に元気をくれました。

しかしその頃から色の感じ方も遠くなり、ご飯の味もしなくなり、自分の顔を見ても、手を触ってみても、まるで自分ではないような感覚が消えなくなりました。

後に診察でわかったのですが当時わたしは『現実感喪失・離人症』に罹患していました。

過度のストレスから逃げられない時、人間の防衛本能として自分自身を現実から遠ざけることにより心身を守るための反応です。

私はご飯を食べられずフラフラで学校にゆき、独学で受験勉強をして、夜は野宿で外で寝ていました。

受験結果がきて、合格して、私はやっとこの牢獄から出られるという希望で一杯になりました。とても久しぶりに嬉しいという気持ちを感じていました。

喜ぶ私に対して親は面白くなかったようで私にこう言いました。
誰がお前の学費を払うのか。行かせるとしたら宗教の学校以外ない』

私は懇願しました。
お願いします。1人で一生懸命勉強して合格した学校です。
学ばせてください。
土下座までしました。
ここから逃げたかった。
でも、ダメでした。
虐待を受ける子供にとって親は世界の中心でありトップであり、権力者です。子供の全てを奪う力があります。どんなに努力しても、懇願しても親の機嫌一つで全てが終わります。

こうして受かった高校にも行けず、離人症も酷くなった私は生きる意味を失いました。


【続きます】



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