名前の変更とその後の回復、大学や仕事について
昔の名前、つまり親がつけた名前を捨てて新しい名前で生きると決めたのは具体的に何歳頃だっただろう。
目標であった20代のうちに名前の変更をする、は無事に達成したが、実行するまでに様々な葛藤があった。
名前を変えたかった理由は明確にあり、その名前で呼ばれること、名前の漢字を見るだけでフラッシュバックしてしまい倒れて救急車で搬送されていたからだ。
名前も元々はカルトのトップがつけたこともあり、名前自体がフラッシュバックのトリガーとなってしまっていた。
あまりに発作が頻回で、この名前でいる限り社会復帰出来ないと感じ、20代前半には本格的に名の変更について調べていた。
現在の変更後の名前はまず自分で決めた。
今後私はこの名前で生きるんだ。
新しい人生を切り開いていくという覚悟をもって決めた。
当時のパートナーに客観的にその名前が私に合うかも聞いた。
そして知人のお母さんが姓名判断をされている方で、名前に合う漢字や画数も調べてくださり現在の名前の漢字も決めた。
それからはその名前を多くの人に認識してもらう為に通称名が使えるところには全てその名前で変更手続きを行った。
公共料金、図書カード、通院先(事情を理解してくださった所)、友人にその名前で手紙を書いてもらい自宅宛で送ってもらい、その手紙も溜めた。
約5年間の通称名の使用実績と共に理解ある精神科医の元、書類も作成してもらった。
名前を変更したい理由とその必要性である。
20代のもっとも症状が重かった時期、常に鎮静剤を打たないとパニックになる時期の入院時にもその名前で呼んでいただいた。
医師、看護師、カウンセラー、
同室の患者さんや身近な友達。
そんな時間を過ごしているうちに親につけられた名前よりもだんだんと新しく自分で付けた名前が自分なのだ、という実感が少しずつ湧いてきた。
愛着も湧いてきた。
それでも葛藤があった。
親がつけた名前を変更して本当に後悔しないのだろうか。
まだ20代、親が変わってくれるかもしれない、と淡い期待があった。
現実にはその20年後も全く親は変わらないのだが、とにかく当時は罪悪感があった。
だから名前を変えたいと思い始め、実際変更すると決意をし、そのための書類集めなどの行動を起こしてもなお、その葛藤は長く続いていた。
決め手になったのは、周囲からその名前で呼ばれた時、心底ホッとしてそしてほんのり嬉しかったことだ。自分の存在を認められた気がした。
過去の、生まれた時に付けられた名前は酷い虐待と深く結びついていてどうしてもフラッシュバックが起こる。
新しい名前というのは、わたしの覚悟の表れでもある。
考えに考えた末、後悔はないと思い書類を提出し、家庭裁判所に向かった。
ふと振り返ると名前を変更して14年ほど経つ。
今では昔の名前を知る人の方が圧倒的に少ない。
変更して本当に良かったと感じています。
少しでも自分の人生が生きやすくなるように行動したことに後悔は全く生まれませんでした。
様々な葛藤や出来事は続いていますが、きちんと自分で考え、向き合い、自分で出した答えなら後悔はありません。
どうなれども、自分の意思で決めた道です。
その積み重ねの中で少しずつですが自分を信じる自信がつきました。
色々と模索していましたが、今後は大学生として勉強をしていく予定です。
生活もあるので通信制で学びを深めていこうと思っています。
私はずっと、学びに飢えてきました。
スポーツより、知的好奇心が勝り読書に没頭する子供でした。絵が大好きで、中学3年生、絵の専門高校になんとか独学で受かって喜んだ私。
宗教の学校じゃない限り行かせないと拒否され合格しても美術高校に行けず働きながら夜学に通うしかなかった学生時代。
リウマチが辛い。激しく痛む。けれど親は医療費など絶対払ってくれない。だから痛くても働くしかない。治療のために。
高卒の資格だけは欲しい。中卒で働いてかなり周りに馬鹿にされてきた。心底、悔しかった。
4年間リウマチと戦いながら必死で働いて、夜は学校に通った。医療費と学費の支払いと、親から逃げる為の上京資金を溜めた。
その間にも親に『宗教が一番大切だから』とお金を取られたこともあった。
殴り倒したかった。
どうしても、どうしても大学に行きたくて、勉強がしたくて一度だけ親にお願いをしたことがある。
『きちんと働いて返しますので学費を貸してくれませんか?』と。
父は公務員である。父も母も健康であり、毎年何百万円もカルトに貢いでいる。お金はあるのである。
返ってきた言葉は『お前何言ってんの?』だった。
私に使うお金などないのだ。
わかっていたはずだった。
その時この人たちは親ではない、と良くわかった。悔しくて、悲しくて泣いた。
奨学金も考えたが、当時のリウマチの悪化で返済能力が自分にあるとは考えられず、ひとまず諦めて親元を離れる為上京することを優先した。
その後もなんとか大学に行けないか模索していたが、親元から離れて安心してから起こるフラッシュバックや悪夢、鎮静剤や点滴を打つレベルの情緒不安定などにより、まずは治療が最優先だと理解し治療に取り組んできた。
それがこんなにも時間のかかることだなんて当時は全く知らなかった。
諦めの悪い私はやりたい仕事が高卒ということで書類選考では必ず落とされる為、直接ハローワーク経由で研究室の面接までこぎつけた。
研究所や大学病院は当然だけれどみんなほとんど大卒である。
最低でも専門は出ていて、さらに大学院を出ている人が多数いる場所である。
でも私はとにかく理数と絵が好きだった。特に何かを深掘りしつづける研究に興味があった。脳や遺伝子から自分が苦しみ続ける実態も知りたかった。
絵は個人でも出来るが研究はそうは行かない。
だからどうしても職場に入る必要があった。
面接でなんとかありがたいことに仕事に就けることになった為、実務経験を得ることができた。本当に感謝しています。
実務経験があれば次の職場でも有利である。
そういうふうにしてなんとか職についてきた。
けれど私がやりたい仕事はどうしても学歴が壁となることが多かった。
どんなに努力して、信頼してもらえても学歴上できないことが沢山あった。
悔しかった。でも諦めたくなかった。だから勉強を続けてきた。
40代に入り、その後も火事巻き込まれたり、またカルトの信者に追われてシェルターに避難したり、一時生活保護を受給しているあいだにCWから暴言を受けたりして酷い希死念慮に襲われた。
一体何年頑張れば報われる?
私が何をしたというのか。
久しぶりに本当に危うく死にかけてしまい、久しぶりの入院をした。
が、そこでもCW問題が発生し、漫画に書いた通り申し立ての為、言質を取ったりまとめる作業をしていた。
全然療養していない。
社会福祉士の先生の協力のおかげでなんとか区の判定を覆すことが出来たが、それは私が諦めが悪いし声を上げてきたというのもあるが、実際、私が運が良い人だったというのもある。
しかし運が良いとか悪いとかの差で苦しんでいる人の運命が分かれてよいわけではない。
勿論、本人が諦めたら何も始まらないし、回復もない。
ただ努力して必死に生きている人に対して最終的に運が良かったとか、そんな次元で物事が決まっていくことにどうしても納得がいかなかった。
憤りを感じた。
そこで私はもっと現場を深く知りたいと思うようになった。
当事者の立場からではどうしても見えないものがある。
現場で起きていることを知らない限り、解決しない問題が沢山あることをここ数年で特に実感した。
なのでその現場にいくために大学に行くことにしました。
これは私1人の力では絶対に無理だったことです。支えてくれるパートナーのおかげです。
本当に感謝しています。
4年間という時間をかけて、様々なことを学んでゆこうと思っております。
同時に今まで研究に携わってきた者として、当事者研究にも積極的に参加する予定です。
とかく私の場合はエネルギーを消費しやすく、無理にも気付きづらい為、上手に休むことを学びながら継続して行ければと思っています。
長くなりましたが、今後もさちんぬの活動を応援して頂けたら嬉しいです☺️
大好きな喫茶店巡りや、そういう自分だけの時間も大切にしつつマイペースに歩いてゆきます。
今後もどうぞ宜しくお願いいたします😊🌷
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