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森のお姉さん

 noteを始めて最初の記事「くずやさん」のころのことである。
 ほとんど消えかけた朧げな記憶、それを推測で補っているので、ご容赦頂きたい。

 古い家と文化住宅が混在する街並みに、一箇所だけまったく手がつけられていない森があった。
 かなり高い木々で枝も張っていた。昔からあった自然の森で、そこだけ人を寄せつけないような空気があった。楠や欅やブナなどの混成林だったのではないかと思う。家の近くでもあり、大きな文化住宅さえも呑み込みそうな勢いがあった。特に風が吹いた時などはざわざわと枝が大きく揺れて怖かったのを覚えている。
 都市部であるから、入ったら道に迷って出られなくなってしまうほどの規模ではなかった。この森はとにかく木々がものすごく高く、自分が今に至るまで苦しめられているデンドロフォビア(樹木恐怖症)の最初のトラウマになったものと思う。

 幼稚園児が一人で出かけることはない。
 園の行き帰りは、少し距離があったので、友だちのお母さんが運転する、日野自動車がライセンス生産していたルノーだった。母や祖母とは主に買い物に出かけていた。

記憶の中の森のお姉さん

 幼稚園から帰って来ると、森の前の空き地のようなところで何人かで遊んでいた。すると決まってきれいなお姉さんがやって来た。
 お姉さんと言ってもたぶん小学校6年くらいではなかったかと思う。制服ではなかったからたぶんそうだ。
 お姉さんはいつも僕たちを整列させ、ズボンとパンツを下ろさせて、柔らかい素材でできた小さな魚のおもちゃのようなもので、一人一人の下半身におまじないのようなことをした。全員終わると「よし」と言って勝手に遊ばしてくれたように思う。何が「よし」だったのかはよく分からなかった。

 お姉さんと一緒に何かをして遊んだ覚えはない。唯一の記憶はおまじないだった。
 お姉さんがどこから来てどこへ帰って行ったのか、いつ現れていつ去って行ったのか、どこに住んでいたのか、誰も何も知らなかった。
 でもとにかく少し色黒でスラッとした綺麗なお姉さんというイメージだったから、僕たちは歓迎していた。

 ある日、友だちとケンカして叩き合いになり、泣きながら家に帰ったことがある。するとたまたま在宅していた父に、「ケンカで負けて帰ってくるヤツがあるかッ!殴り返して来いッ!」と怒鳴られて、本当に相手の家に行って殴り返し、今度は向こうの子どもが泣いてしまった。結局は母が謝りに行く羽目になったのを覚えている。
 あの時、お姉さんが森の奥からじっと僕を見ていたような気がする。

 後になって考えると、幼稚園の終わる時間と学校の終わる時間はずれているから、お姉さんがいつも僕たちが集まっているところへ来ていたのは、ちょっとおかしいのだ。

いつも森を背にして立っていた

 お姉さんが喋っていたことの記憶がわずかに残っているのだが、ときどき妙なことを言っていた。

 「この森の中には絶対に入っちゃダメだよ」

 「この辺はとってもいい場所なんだよ。安全だからずっとここに住んでなさいね。他へ行っちゃダメだよ」

 これが何を意味しているのか、分からなかった。

 このお姉さんのことは子どもたちが親に話していたから、どこの子なんだろうと訝しむ向きもあったと思う。しかしお姉さんは子どもたちだけの時にしか現れないから、親たちがお姉さんの顔を見たことはなかった。別に危害を加えるようなこともなかったので、うやむやになったのだと思う。

 やがて小学校への入学前になって、母が学区を気にし始め、あまり遠くない別のところへ引っ越しすることになった。自然とお姉さんともお別れになった。
 仮住まいの後、新しい家が完成してそちらへ移った。幼稚園時代のことやお姉さんのことはすっかり忘れていた。
 新しい家で中学、高校時代を過ごし、やがて大学入学とともに一人で東京に出ていくことになった。その後は東京で職を得て、結婚もして子どもも生まれた。そしてあの震災の日を迎えた。

この辺りは奇跡的に被害が少なかった

 父が心血を注いでこだわり抜いた新しい家はあっけなく全壊した。
 両親は命からがら家から脱出した。あの壊れ方では、とにかく火災がなく、命があっただけでも幸運だったと言える。自分が現地に入れたのは、鉄道がある程度復旧してからだった。

 しかしあのお姉さんと過ごした辺りは、あまり離れていないのに、被害が少なかったのだ。 
 本当にちょっとした活断層の位置の違いで大きな差が出た。新しい家はまさに活断層の真上にあったことを後から知った。

森はすっかり消えてしまった

 「この辺はとってもいい場所なんだよ。安全だからずっとここに住んでなさいね。他へ行っちゃダメだよ」

 この言葉が震災のことを指していたのかどうか、よく分からない。

 お姉さんがやってきた森はすっかり造成されて、モダンなデザインのマンションが幾つも建っている。

 お姉さんが人間だったとすれば、年齢的にはまだご存命だろう。

 お姉さんが森に棲む妖精とか妖怪だったとしたら、いやそうとは限らない。森の精がお姉さんの姿で現れていたのかも知れない。
 どちらにしても、森も陰翳も、ちょっとした暗がりの一角さえもなくなって、すっかり明るさが支配してしまった土地からは、とっくに去っていることだろう。
 もしかしたら、子どもにしか見えない精霊だったのかも知れない。
 お姉さんがおまじないに使っていた魚の形のおもちゃ。魚は豊穣の象徴であることも後から知った。

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