第2回|「いい子」でいることが、才能を削るとき
「いい子だね」
それは、子どもに向けられる
もっともやさしくて、
もっとも安心できる言葉のひとつだと思う。
ちゃんと座れる。
言われたことができる。
順番を守れる。
空気を乱さない。
社会で生きていくうえで、
どれも大切な力だ。
だから最初に、
はっきり言っておきたい。
学校は、素晴らしい場所でもある。
学びの機会を与え、
集団の中で育つ経験をくれる。
この文章は、
学校を否定するためのものではない。
それでも、ときどき
胸の奥が「きゅっ」とする瞬間がある。
授業参観で、
整然と並ぶ机と椅子。
先生の問いかけに、
決まった答えが返ってくる教室。
その中で、
わが子がまっすぐ前を向いて
黙って座っている姿を見たとき。
誇らしさと同時に、
ほんの一瞬、
説明のつかない違和感がよぎる。
評価されやすいのは、
「言われた通りにできる子」だ。
指示を理解し、
素早く動き、
余計なことをしない。
間違えないこと。
はみ出さないこと。
波風を立てないこと。
それは、
集団を運営するうえで
とても合理的な仕組みだ。
先生一人で、
何十人もの子どもを見る現場では、
秩序がなければ回らない。
だからこの構造自体が
悪いわけではない。
けれど、その合理性の中で、
少しずつ育っていく癖がある。
それは、
「考えないことに慣れていく」こと。
「どう思う?」より先に、
「何が正解だろう?」を探す。
自分の感覚より、
評価の基準を気にする。
手を挙げる前に、
間違えないかを確認する。
考えないことは、
楽だ。
傷つかないし、
叱られない。
でも同時に、
思考する筋肉は、使わなければ弱っていく。
とくに、感受性の強い子ほど、
この仕組みに適応しすぎてしまう。
場の空気を察し、
求められている役割を演じる。
「いい子」であることは、
生き延びるための
とても優れた戦略でもある。
だからこそ、
大人は見逃しやすい。
その裏で、
「本当はこう思った」という芽が、
静かに摘まれていくことを。
親が感じる、
あの「きゅっ」とする感覚。
それは、
問題を起こしそうな不安ではない。
むしろ逆だ。
あまりにも、
うまく適応しすぎていることへの
小さな怖さ。
その感覚は、
過剰な心配でも、
教育熱心すぎる証拠でもない。
ちゃんと、見えている証拠だと思う。
この国の教育は、
長い時間をかけて
「整える力」を磨いてきた。
それは誇るべきことでもある。
ただ今、
次の問いが
そっと置かれている気がする。
整えたあと、
子どもたちは、どこで自由になればいいのか。
答えは、
まだ分からない。
でも、問いを持ち続けることはできる。
「あなたは、どう思った?」
その一言を、
家庭の中で、
何度でも差し出すこと。
それだけで、
削られかけた才能は、
また静かに息をし始める。
「いい子」である前に、
感じ、考え、迷っていい存在なのだと。
