第1回|静かに壊れていくものは、音を立てない
先日、ニュースで
小中高生の自死が過去最高だと知りました。
その事実を知ってから、
ずっと、心のどこかが引っかかったままです。
強い言葉も、
すぐに答えも、
見つからないまま。
ただ、
「何かが、静かに壊れている気がする」
その感覚だけが、
消えずに残っています。
危機、と聞くと 私たちはつい、戦争や災害、暴力や恐怖のような
「分かりやすい出来事」を思い浮かべる。
サイレンが鳴るとか、 ニュース速報が流れるとか、
誰もが「これは非常事態だ」と 同じ方向を向けるようなもの。
でも、本当にこわい危機は、 たいてい——音を立てない。
日常の中に潜む「沈黙」
ある日、ふと立ち止まる瞬間があった。
夕方のチャイム。 少し重たそうなランドセル。
玄関で靴を脱ぐときの、 どこか力の抜けた背中。
「今日どうだった?」 そう聞くと、
「べつに」
「ふつう」
短い言葉だけが返ってくる。
それは反抗でも、拒絶でもない。
ただ、何かをしまい込んだような沈黙だった。
削られていく「感じる力」
危機は、教室で起きている。
家庭で起きている。
会話の隙間で、静かに進んでいる。
黒板の前で、「正解」を待つ時間が増えること。
間違えないように、目立たないように、
空気を読んで座っていること。
評価されるのは、
早く答えられる子、 指示通りに動ける子。
考える前に、
**「どうすれば怒られないか」**を先に計算する癖。
それはとても賢い生き方だけれど、
同時に、感じる力を少しずつ削っていく。
飲み込まれた言葉の行方
家庭でも、同じことが起きている。
忙しさの中で、
「早くして」「あとでね」「それはダメ」
悪気はない。
むしろ、ちゃんと守ろうとしている。
けれど、
子どもの言葉が途中で引き返していく瞬間を、
私たちはどれくらい見ているだろう。
言おうとしたことを、
「やっぱりやめた」と飲み込む目。
その小さな選択の積み重ねが、
やがて「語らない」という習慣になる。
耳を澄ますということ
この連載では、
大きな答えを出そうとは思っていない。
誰かを責めたいわけでも、
正しい教育論を語りたいわけでもない。
ただ、この国で子どもを育てながら、
胸の奥に溜まってきた小さな違和感を、
言葉にしてみたいと思った。
静かに壊れていくものは、気づかれにくい。
でも、気づいた人が、そっと手を伸ばすことはできる。
今日、あなたが見た子どもの目は、どんなふうに映っていましたか。
その奥で、まだ言葉になっていない声は、何と言っていますか。
その声に、耳を澄ますためのものです。
