『サンキュー、チャック』は、記憶を書き換えて自分を赦す映画なのではないか※この記事は映画『サンキュー、チャック』のネタバレを含みます。

『サンキュー、チャック』を観て、私は第2部のダンスの場面で強く心を動かされた。
チャック本人も、観客も、なぜ彼が突然踊り出したのかは分からない。
それでも、なぜか感動してしまう。
この映画は、第3部から始まり、第2部、第1部へとさかのぼっていく構成になっている。
第2部で、観客は突然チャックのダンスを見ることになる。
そしてこのダンスが素晴らしい。
最初は、彼の過去に何かがあり、それが身体の奥から自然に現れたのだろうと受け取っていた。
だから、その理由がまだ示されていなくても、踊る彼の背後に、まだ語られていない人生の厚みを感じ取ってしまう。
幼少期のチャックと、踊ること
第1部では、両親と妹を亡くした幼いチャックが祖父母に育てられ、祖母からダンスを教わることが明かされる。
その後、チャックより2歳年上で背も高い、ダンス教室のパートナー、キャットとパーティーでダンスをする約束をする。
彼は最初、足が痛いと言って踊ることを断る。
そこには、不安や恐れがあるのだろう。
観客はそこに自分を重ね、自然とチャックを応援する。
そして彼は勇気を出して踊る。
この流れだけを見れば、幼少期の決断が大人の身体に残り、第2部のダンスとして表れたのだと読むことができる。
また、屋根裏部屋は死の象徴として置かれているようにも見える。
チャックは幼いころから、両親と妹、祖母、祖父の死に触れている。
人はいつか必ず死ぬ。
そのことを知ったうえで、どう生きていくのか。
つまりこの映画は、死を忘れずに生きるという、メメント・モリの物語としても受け取れる。

けれど、私は別の読み方をした
ただ、見終わったあと、私は別の可能性が気になった。
第2部のダンスは、現実ではなく、病床のチャックが思い描いた「なりたかったもう一つの自分」だったのではないか。
話としてはこう。
病床のチャックには後悔があった。
少年期のパーティーで、女の子と踊る勇気が出なかったこと。
そして、その後ダンスをやめてしまったこと。
現実のチャックは、祖母から受け取ったものを最後まで生かせなかった。
だから死の間際に、街角で音楽に身を任せ、見知らぬ女性と自由に踊る自分を空想した。
第2部のダンスは、過去の自然な表出ではなく、チャックが最後に見たかった理想のもう一つの自己像だったのではないか。
この読み方をすると、第2部のダンスは単なる感動的な場面ではなく、後悔を抱えた人間が最後に作り出した、もう一つの人生になる。
屋根裏部屋は、未来と過去をつなぐ場所
もし第2部のダンスが空想だとすると、それを成立させるには、大人になるまでダンスを続けた過去が必要になる。
そこで、第1部の意味が変わる。
第1部は単なる回想ではなく、病床のチャックが自分の過去を組み替えている場面に見えてくる。
屋根裏部屋は、少年チャックが未来を見る場所ではない。
死にかけている大人のチャックが、過去の自分へ接続する場所だったのではないか。
そこで彼は、幼少期の自分に流れ星を見せる。
その小さな出来事によって、少年チャックは勇気を出して女の子と踊り、そのままダンスを続ける人生へと変わる。
流れ星が変えたもの
この読み方をすると、流れ星は単なる美しい演出ではなく、記憶改ざんの決定的なポイントになる。
大人のチャックが街角で自然に踊り出すには、幼いころのチャックがダンスを続けていなければならない。
そのためには、パーティーで踊れずに終わった過去も、そこでダンスをやめてしまった過去も、書き換えられる必要がある。
そこで病床のチャックは、屋根裏部屋を通じて過去の自分に接続し、流れ星を見せたのではないか。
流れ星は、チャックにダンスの技術を与えるものではない。
彼はすでに踊れるし、キャットと踊りたい気持ちもある。
足りなかったのは、自分が一歩を踏み出していく決断。 決断をする勇気。
だから流れ星は、行動を直接変えるのではなく、チャックの世界の見え方をほんの少しだけ変える。
その一瞬によって、彼は決断する。
ダンスをやめた人生は、ダンスを続ける人生になる。
チャックは過去を丸ごと作り直したのではない。
ただ、人生を分ける一点に、ひとつの流れ星を差し込んだ。
けれど、そのわずかな違いだけで、人は変わる。
そして記憶もまた、まるで最初からそうだったかのように、別の人生を形づくってしまう。
第2部の理想の自分を成立させるために、第1部の過去が書き換えられるのである。

手の傷に残る、小さな違和感
この解釈を考えるきっかけになったのが、チャックの手の傷だった。
映画の中では、チャックはパーティーでキャットと踊ったあと、一人で高揚して踊り続け、フェンスで手を切る。後年、妻には「キャットの恋人ダグに突き飛ばされてできた傷だ」と嘘をついていたことが明かされる。
さらにその傷は、屋根裏部屋で病床の自分を見たとき、それが未来の自分だと気づく手がかりにもなる。
ただ、私はここに少し引っかかった。
本当に自分が楽しく踊っていてできた傷なのなら、わざわざ「ダグにやられた」と嘘をつく理由が弱く感じられたからだ。
むしろ逆なら分かる。
本当はダグに突き飛ばされてできた傷だった。けれど、それを語るのがつらくて、「一人で踊っていて切った」と妻に嘘をついた。
でも、実際には「ダグにやられた」と妻に嘘をついている。
私の考えでは、現実では踊れなかった自分や他者に傷つけられた記憶と結びついていた傷が、病床のチャックの再編集によって、「自分が踊った証拠」へと意味を変えさせた。
第2部のダンスが、死に際のチャックが思い描いた理想の自己像なのだとすれば、第1部の過去もまた、それを成立させるために組み替えられている。
手の傷は、その書き換えの跡なのではないか。
映画が見せている「踊ってできた傷」のほうが、あとから作られた改ざんされた記憶なのではないか

人は、少しのことで変わる
そのように考えると、この映画は単なる人生賛歌ではなくなる。
人間の記憶は曖昧で、過去は現在の自分によって何度も意味づけ直される。
人は死を前にしたとき、客観的な事実としての人生ではなく、自分が最後に受け入れられる人生を必要とするのかもしれない。
誰でも一度は、
「あのとき別の選択をしていたら、自分はどうなっていただろう」
と考えたことがあるのではないだろうか。
あのとき声をかけていれば。
あの手を取っていれば。
あの一歩を踏み出していれば。
ただ、チャックは自分の人生をやり直したかったわけではないのだと思う。
彼には彼の人生があり、愛した人も、積み重ねてきた時間もあった。
それでも死を前にして、ふと見てみたかったのではないか。
あのときダンスを続けていた自分が、どんなふうに生きていたのかを。
誰もが一度は考える、選ばなかったもう一つの可能性、つまりIFの物語 だったのではないか。
私はそう考えた。
