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[日銀法改正] 中央銀行は誰のために金利を上げるのか――「デュアルマンデート」を巡る静かなる戦争


導入:ランチの価格と、中央銀行の「言い訳」

こんにちは、葦原翔です。

街の定食屋で「唐揚げ定食」のメニューを見上げ、少しだけ絶句する。かつて850円だったはずのそれが、いつの間にか1,200円になっているからだ。

小鉢の数が増えたわけでも、鶏肉がブランド鶏に変わったわけでもない。

皿の上の唐揚げは以前と何も変わらないのに、私のポケットから消えていく千円札の枚数だけが増えていく。

レジで支払いを済ませながら、胸の奥に小さな引っかかりを覚える。
給料も確かに少しは上がったはずなのに、なぜか財布の紐を緩める気にはなれない。

むしろ以前よりも慎重に、日用品の底値を気にするようになっている。

豊かになった実感が、まったく湧かないのだ。

テレビをつければ、ニュースキャスターが神妙な顔で画面の向こうから語りかけている。

「本日、日銀は金融政策決定会合で追加利上げの検討に入りました」

「一方、政府内からは急速な利上げによる雇用の冷え込みや、中小企業の倒産増加を懸念する声も強く……」

この光景、どこか強いデジャヴを感じないだろうか。

物価を抑えるために金利を上げたい中央銀行と、景気を冷やしたくない政治家。

まるで冷めきった家庭で、お互いの主張だけを繰り返す夫婦喧嘩を延々と見せられているような気分になる。

「国民の生活を守る」という目的は同じはずなのに、なぜ両者の主張はこうも激しく衝突するのだろうか。

だが、この噛み合わなさの根底にあるのは、政治家のエゴでも、日銀総裁の頑固さでもない。

今から四半世紀以上前、1997年に作られた「日本銀行法」という名の、あまりにも古いルールブックそのものなのだ。


第1章:日銀法第2条という「行間の魔法」

日銀の憲法とも言える「日本銀行法」。その第2条を開くと、実に味わい深い文章に出会うことができる。

「日本銀行の通貨及び金融の調節は、物価の安定を図ることを通じて、国民経済の健全な発展に資すること」

お気づきだろうか。ここには「雇用」という文字が、ただの一言も出てこないのだ。

法律上で日銀に明確に課された直接の使命は、基本的には「物価の安定」ただ一つである。

世界の中央銀行を見渡せば、物価だけでなく雇用の維持を法律で命じられている例は少なくない。

しかし、日本の法律は日銀に対して「物価の番人」であることだけを求めてきた。

では、日銀はこれまで雇用のことなど一切考えずに政策を決めてきたのだろうか。

答はノーだ。歴代の日銀総裁たちは「国民経済の健全な発展」という言葉を行間から読み解いてきた。

物価を安定させるのは、その先にある国民生活や雇用を支えるためだ、という解釈である。

言わば、「言わぬが花」の暗黙の了解によって、雇用や景気にもしっかり配慮してきたのだ。

この「曖昧な優しさ」に満ちた運用は、デフレが続いていた過去30年間は実にうまく機能していた。

世の中全体が「とにかく金利を下げるべきだ」「世の中にお金を回せ」という単一のベクトルに向かっていたからだ。

金利をゼロに近づけ、莫大な国債を買い入れることが、物価対策にも雇用対策にもなった。

目的地が同じである以上、法律の文言が曖昧であっても誰も困らなかったのだ。

だが、世の中が「インフレ」へと舵を切った瞬間、この曖昧さは恐ろしい装置へと変貌する。

物価を抑えるために金利を上げれば「雇用の敵」「住宅ローン破産を生む元凶」と叩かれる。

かといって利上げを躊躇してインフレを放置すれば、「通貨の価値を捨てた」「庶民の生活を見捨てた」と糾弾される。

あらかじめ法律で「どちらを優先すべきか」が書かれていないため、日銀はどちらに動いても責められる。

かつての優しき行間の魔法は、いまや日銀を出口のない暗闇に閉じ込める呪いへと変わってしまったのだ。


第2章:アメリカが「雇用」に命をかけ、日本が「物価」に縛られた理由

ここで少し視点を太平洋の向こう側、アメリカへと飛ばしてみよう。

米連邦準備制度理事会(FRB)には、法律で明確に決められた「二大命令」が存在する。

それが「物価の安定」と「雇用の最大化」を同等に追い求める「デュアルマンデート」だ。

FRBの議長は、物価の上昇率だけでなく、毎月発表される雇用統計の数字にも命をかけて向き合う。

インフレが起きていなくても、雇用が急速に悪化すれば、躊躇なく金利を下げて市場に資金を流し込む。

なぜアメリカは、中央銀行にここまで明確に「雇用」を守らせようとするのだろうか。

理由は極めてシンプルだ。社会保障のセーフティネットが限定的なアメリカにおいて、失業は即座に個人の破産を意味する。

職を失った人々が街に溢れれば、ローンは焦げ付き、犯罪率は跳ね上がり、都市の治安は一瞬で崩壊する。

銃社会でもあるアメリカにとって、失業者数の急増は単なる経済指標悪化ではなく、文字通りの「国家の危機」なのだ。

だからこそ、法律の力を使ってでも、中央銀行に雇用を守る防波堤にならせているのである。

翻って、日本の歴史的な文脈はどうだろうか。

戦後の猛烈なハイパーインフレや、1970年代のオイルショックにおいて、日本人が舐めた辛酸は「物価の暴騰」だった。

預けたはずの預金の価値がみるみる目減りし、買い占めによって店頭からトイレットペーパーが消えた記憶である。

ドイツがナチス台頭の背景にあったハイパーインフレを恐れるのと同様、日本もまた「通貨価値の崩壊」をトラウマとして抱えてきた。

だからこそ日銀法は、「何が何でも通貨の信認(買物力)を守る」ことに特化した構造で作られたのだ。

だが、ここで現在の日本に目を向けてみてほしい。

もし今、FRBの真似をして「雇用の最大化」を日銀法に書き込んだら、一体何が起きるだろうか。

ここに、議論の表面には決して出てこない「不都合な真実」が潜んでいる。

現在の日本が直面しているのは、若年層の減少に伴う超構造的な「人手不足」だ。

失業率は2%台と、世界的に見ても極限まで低い水準に張り付いている。

企業は喉から手が出るほど働き手を求めており、「雇用の数」自体はすでに飽和状態にあるのだ。

この状況下で必要なのは、「雇用の量」を増やすことだろうか。それとも「給料の実質的な価値」を守ることだろうか。

もし日銀が「雇用悪化のリスク」を言い訳にして低金利を維持し続ければ、どうなるか。

日米の金利差を嫌気した投資家によって容赦ない「円売り」が進み、輸入資材やエネルギー価格が高騰する。

企業の売り上げが伸びても、それ以上のスピードで物価が上がり、実質賃金は下がり続ける。

結果として達成されるのは、「全員が仕事を持っているが、誰もまともな生活ができない」という「貧しい雇用の最大化」だ。

アメリカの薬をそのまま日本の病人に投与すれば、病状はかえって悪化するかもしれないのだ。


第3章:「独立性」とは、政府に逆らう権利のことではない

テレビの解説者たちがよく口にする「中央銀行の独立性」というフレーズがある。

多くの人はこれを、「専門家集団である日銀が、政治家の口出しを無視して好き勝手に決めていい権利」だと解釈している。

だが、行政学や法学の本来の定義に照らせば、これは重大な誤解であることがわかる。

独立性には二つの種類がある。「目的の独立性」と「手段の独立性」だ。
「どのような社会を目指すか」「物価と雇用のどちらを優先するか」という目標(目的)を決める権利。

これは、国民から選挙で選ばれた政治家や議会だけが持つ「民主的な正統性」に基づく権限である。

国民の信認を得ていない日銀の官僚たちが、国家の優先順位という理念を勝手に決めて良いはずがない。

中央銀行に与えられている本来の独立性とは、与えられた目標を達成するための手段(方法)の独立に過ぎないのだ。

「2%の物価目標を達成せよ」と政府と議会から命じられたとき、金利を0.25%上げるか据え置くか。

その具体的な政策ツールとタイミングの選択においてのみ、政治からの介入を防ぐのが正しい「独立性」の姿である。

しかし、日本の政治は長年、この最も重い「優先順位の選択」という責任から逃げ続けてきた。

2013年に政府と日銀は共同声明(アコード)を交わし、2%の物価目標を共有したことになっている。

だが、「物価の上昇」と「景気・雇用の悪化」が同時に襲ってきたとき、どちらを優先して庇うべきかという最終判断は曖昧なままだ。

政治家は、日銀が利上げをすれば「住宅ローンを抱える庶民をいじめるな」と悲鳴をあげる。

逆に日銀が利上げを躊躇すれば、「円安放置による物価高で国民生活が破壊されている」と怒鳴り散らす。

要するに、どっちに転んでも批判できるように、あらかじめ日銀を「悪役」として配置しているのだ。

明確な優先順位のルールブックを与えないことで、政治は自らの不作為の責任を日銀に転嫁できる。

日銀の「独立性」という美しい言葉は、政治家が批判を回避するための格好の防空壕として使われてきたのである。


第4章:もしも「デュアルマンデート」を明文化したらどうなるか?

ここで、一つの思考実験をしてみよう。

もし私たちが世論を動かし、日銀法を改正して「雇用の最大化」を法律に明記させたら、未来はどう変わるだろうか。

法改正が成立した翌日、日銀の金融政策決定会合の空気は一変することになる。

政策委員たちは利上げを検討する際、「この利上げによって失業率が0.1%でも上がらないか」を厳密に検証しなければならない。

もし中小企業の倒産が増える懸念が少しでもあれば、利上げの提案は否決されることになる。

法的な義務として「雇用」が課されている以上、日銀は雇用の悪化を招く政策を採ることができなくなるからだ。

結果として、利上げのハードルはかつてないほど高くそびえ立つことになるだろう。

変動金利で住宅ローンを組んでいる人々は胸を撫で下ろし、借入金依存度の高い企業は倒産を免れる。

一見すると、国民全員が救われたかのような素晴らしい世界が到来したように思える。

だが、視点を「通貨の価値」へと戻した瞬間、私たちはその裏に隠された絶望的な代償に気づくはずだ。

金利を上げられなくなった日本を見透かし、世界のヘッジファンドや投資家たちは容赦なく「円」を売り浴びせる。

1ドルが160円、170円、180円と留まることなく円安が進んでいく。

海外から輸入する原油、トウモロコシ、小麦、半導体の価格は跳ね上がり、あらゆる商品の値札が書き換えられる。

定食屋の唐揚げ定食は1,200円から1,500円へ、やがて2,000円へと達するだろう。

企業は倒産しないし、誰も職を失わない。しかし、働いて得た給料で買えるものは以前の半分になる。

私たちが突きつけられているのは、「利上げによる局所的な痛み」を取るか、「物価高による全体的な痛み」を取るかという二者択一だ。

デュアルマンデートの明文化とは、後者の「ジワジワと全員が首を絞められる痛み」を永久に受け入れるという宣言に他ならない。


第5章:欧州の「覚悟」と、日本の「先送り」

世界に目を向けると、日本と同じように「物価の安定」を絶対的な正義として掲げる中央銀行が存在する。

欧州中央銀行(ECB)だ。

ECBの基本条約(マーストリヒト条約)には、明確に「物価の安定」が最優先目標として刻まれている。

雇用や経済成長への配慮は、あくまで「物価の安定が損なわれない範囲において」という厳しい条件付きの第二目標に過ぎない。

なぜ欧州はこれほどまでに硬直的なルールを自分たちに課しているのだろうか。

それは、複数国が集まる通貨統合(ユーロ)において、中央銀行が政治の顔色を伺い始めたら通貨が崩壊することを知っているからだ。

イタリアが景気対策を求め、ドイツがインフレ抑制を求める。政治の要望を聞いていたら政策は迷走する。

だからこそ、「物価しか見ない」という頑固な鎧を纏うことで、中央銀行の信認を担保しているのだ。

ヨーロッパの人々は、物価を抑えるための急激な利上げによって景気が後退し、一時的に失業者が増える痛みを何度も受け入れてきた。

「インフレという病を放置するよりは、一時的な景気後退という薬の副作用に耐える方がマシだ」という社会的な覚悟が存在するからだ。

では、翻って我が国・日本の態度はどうだろうか。

私たちはインフレの痛みも嫌がり、利上げによる景気後退の痛みも拒絶する。

政治家は双方の良いとこ取りを語り、日銀はどちらの批判からも逃れるために言葉を濁し続ける。

「痛みを伴わない特効薬」など、経済学の歴史上に一度も存在したことはない。

日銀法改正の議論が浮かんでは消える最大の理由は、私たちがどちらの痛みを選ぶかという「覚悟」を決めていないからなのだ。

制度を変えるというのは、単に条文を書き換えることではない。

その制度がもたらす最終的な副作用を、国民全体で引き受けるという契約を結び直すことなのである。


結び:曖昧な時代を生き抜くための「自分の解像度」

「日銀法を改正すべきか」「デュアルマンデートを導入すべきか」。

一見すると、永田町の議員会館や、霞が関の官僚たちの間で交わされる難解な法律論争に見えるかもしれない。

しかし、ここまで読み進めていただいたあなたなら、もうお分かりだろう。

これは、私たちが来月受け取る給料の「価値」と、銀行口座に眠る預金の「購買力」を、誰がどのように守るのかという、極めて身近な生活の契約なのだ。

政治が選択を先送りし、日銀が曖昧な言葉の裏に隠れ続ける時代において、真の犠牲者になるのは常に構造を知らない人々である。

「日銀の利上げが遅いから生活が苦しい」「政府の対策が足りないから給料が上がらない」。

そうやってわかりやすい「犯人探し」に終始する正義中毒から、そろそろ抜け出さなければならない。

制度の歪みを知り、裏にあるトレードオフの存在を理解すること。

構造を正しく理解したとき、1,200円の唐揚げ定食の景色は全く違ったものに見えてくるはずだ。

その価格の背景には、世界の金利の動きと、日本の法律の限界、そして政治の不作為が複雑に絡み合っている。

次に街の喫茶店に入り、湯気の立つコーヒーカップを手にしたときは、ぜひその一杯の価格にじっと目を凝らしてみてほしい。

その小さな値札の向こう側で繰り広げられている「物価と雇用の静かなる戦争」に思いを馳せるとき。

誰かの用意した単純な物語に惑わされない、あなた自身の「経済的な自立」が、静かに始まっているのだ。

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葦原 翔(あしはら かける) 読んでいただきありがとうございます!もしこの記事が面白い、役に立ったと感じたら、下の「チップを渡す」からサポートしていただけると嬉しいです。あなたの応援が、次の記事を書く大きな励みになります。

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