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初蝉の羽衣

重たい空気が街の騒音を抑えつけるかのように静かで、時折涼しい風が吹く。そんな七月初旬の午後。どこからか聞こえてきました。夏になると鳴り響く、あの羽音です。
「ああ。もう夏か。」
ただその一言を心で呟く私の耳には蝉の声。

閑や岩に染み入る蝉の声

松尾芭蕉

初蝉の一声は、松尾芭蕉の俳句のように風流な余韻を残して、いつしか静まりました。

いよいよ夏本番となれば、数多の蝉が競うようにして力強く、酷暑をものともせずに羽音を響かせることでしょう。

蝉の羽音を、日本の夏は単に鬱陶しい声としてだけでなく、どこかもの悲しく儚い鳴き声として響かせ、人の心を揺さぶるように感じます。

日本は、とても長い歳月を経て今日まで存続して来ました。その数万年、数千年という長い歳月のなかで展開した歴史は様々であろうと、日本の夏はいつも同じ趣を持ってやって来ます。
先祖たちもまた遠い夏の日に蝉の鳴き声を、いま私たちが立っている同じ土地、同じ場所で聞いていたことだろうと考えると、感慨深くなります。

ふと耳をすませば、静寂の中に聞こえ始める初蝉の声が岩に染み入るような、その趣を捉えたあの頃の、先祖たちの心に響いた蝉の羽音は、現代の私たちにも同じように風流に響いているでしょうか。

悠久の夏に漂っていた、平和を含んだ熱風と、蒸すほどにこみ上げてくる希望を含んだ空気の匂いを覚える日本の風流を、大切に心に納めていた日本人が聞いた蝉の声は、どんな音だったのでしょうか。

今もなお、私たちは同じ心と姿勢で、生命を繋ぐために力の限り羽を擦らせる蝉の声を聞いているのだろうか、という思いがよぎります。

夏に羽織る衣を、悠久の日本人は蝉の透き通った羽に見立てました。

「蝉の羽衣」と呼んだ夏の衣には、酷暑に鳴き止まぬ蝉の声を涼やかに受け入れて歓迎し、蝉とともに生きる喜びや生命を尊ぶ心が宿っていたことでしょう。

夏が訪れる度、幾度もこの国に響き渡る、薄く透きとおった蝉の羽音を聞いているうちに、ふと考えることがあります。この国が歴史を開始した、その夏に響いていた蝉の平和で穏やかな声と、これからの日本の在り方について。

古代の風流人たちが、静まり返る夕暮れの空気のなかに残る羽音の余韻を感じながら物思いにふけっていると、明日へと向かう日本の希望と平和の香りを帯びたそよ風が、衣桁に掛けた蝉の羽衣を揺らしたのでしょうか。喜びも悲しみもすべて心に納め、明日に心を向けて過ごした姿を想像してみたくなります。

終戦の日が近づく時分には、蝉の声がサイレンの音とともにいよいよ力強く鳴くものですから、過去の出来事と、たった今大合唱を繰り広げている数多の蝉の声が折り重なって、日本人である私の心に押し迫るような気がするのです。夏の炎天下で鳴く蝉の声は、日本の過去といまを繋げて、聞いている私の心に様々なできごとを振り返らせるのです。

夏の夕暮れに残る羽音の余韻は、この先の日本はどのような在り方がふさわしいのかを問うているように感じるのです。
それがひとつの感情移入によるのか、そんな感傷的思いに浸ってしまうのです。

蝉の声を聞いて、はたと我に返り、戦後81年という重圧に苛まれた日本の歴史とこれから先の事について考えさせられる夏の候。

今、日本は国存続の危機に瀕していると言われています。
終戦を迎えてから81年目になるこの夏、何がこの国を滅びへと引きずり込もうとしているのでしょうか。
これから先、夏が来る度に日本列島を呑みこむような蝉の鳴き声は、日本人の耳をつんざき、胸を絞めつけるのでしょうか。子孫たちとともに、未来永劫に憂いと悲しみの合唱として聞き続けるのでしょうか。

この国を愛し、この国に生まれたことを喜びながら、先の歴史を正しく認識しつつ明日に向かって進む日本人に、夏蝉の合唱が平和と希望の歌となって響くことを願います。

人はだれもが、神が人類の霊魂に鳴り響かせようと願っておられる、真実の訴えを聞かなければなりません。神が鳴り響かせておられる音は、この世にあるどのような音とも比べ得るものがない、神の国の福音です。福音はこの世の一切の隔たりを超越し、すべての人に普遍的に響き渡る神の永遠のいのちのことばです。その歓喜の音が、イエス・キリストをとおして今もなお、信じる人々の霊魂を動かし、永遠のいのちへと至らせる霊的世界の真実として、イエス・キリストを信じるすべての人に到達し続けています。

建国から数千年経ったいま、日本国はどれくらい熟したでしょうか。

蝉の羽衣をまとって風流を民族の柱に添えていた時代、岩に染み入るように蝉の声を聞いたあの時代。私たちはそこに戻ることはできるでしょうか。
否、麗しき悠久の時代に立ち返るよりむしろ、先祖たちの風流を受け継ぎつつもさらに成熟した国の民として、この先を進んで行くことが求められてはいないでしょうか。
古代、日本に根付いていた心の豊かさを、イエス・キリストを信じる熱情とイエス・キリストの人として歩む意志とが支えていたことは、歴史的にも明らかです。キリスト教という西洋の宗教としてではなく、日本という国に宣べ伝えられた福音を、多くの人が尊び崇めた歴史が、この国にあります。
いま、その歴史が展開していた時代に立ち返ろうというより、むしろさらに成熟した国として、これから後にも存続するために、未来への方向を確実に捉えることができるなら、と思います。その先には、どの国にも劣ることのない、揺るぎない意志と胆力が伴うことでしょう。

そこに向かって進むためには、先ず思いと考えの中心に神の国と神の義が立たなければなりません。

神の国と神の義を第一に求めること。これは霊的世界の真理です。

たとえ人間の義が堅固に立っている立派な国であっても、霊的世界の視点からその国を見ると、空中の権勢者である悪魔がその国の背後で働いており、人間の限界が及び、民族の弱音が聞こえてくるのを虎視眈々と狙いながら待ち伏せているのです。この現実から、私たちは如何にして逃れることができるでしょうか。人間の限界と弱さは、血肉に属する知恵と能力によって克服できません。

憂うことは、平和を歌う偽りの音が、戦後81年の時の川を渡って私たちの思いと考えを支配し続けて来ました。けれども私たちは、その違和感に気付かぬまま、無力と無気力の中で従順し続けて来たことを、今やっと悟り始めたところです。

けれども、もう二度と騙されてはならない..…。

ああ。
悪を善、善を悪と言っている者たち。
彼らはやみを光、光をやみとし、
苦みを甘み、甘みを苦みとしている。

旧約聖書 イザヤ書 

善悪二元論は、目に見えるものに対する所有と支配の欲望をその軸にしながら、いまや世界中に拡散されて列国がその偽りに騙され、誘惑を受けています。これが人類の限界と弱みとなるように仕向けている悪の根源は、霊的問題として理解する必要があります。人の世の背後においてはたらいている霊的存在に、目をつぶっていてはなりません。
その存在すなわち、永遠前からおられた唯一なる神への反逆者とも、神と人類の間に立ちはだかって離間する者とも呼ばれて世界中を惑わし続ける霊的存在のことです。それが悪魔の正体です。
それに対して如何に打ち勝つことができるか。答えは既に出ているのです。それを悟ることが、平和を求める人類にとっての喫緊の課題です。

神に使える立場として造られた霊的存在のうち、その立場を逸脱して神に立ち向かい、神の栄光よりはるか高き峰へと上ろうとした不法者の正体は、聖書で既に暴かれています。
サタン(すなわち、神に対する反逆者のこと)は神の国から追放されてよみに落とされ、裁きと滅びの時をやがて迎えるのです。
よみとは、まさに暗黒の宇宙空間のことを言っているのです。よみにあって、人類は神の栄光と義を仰ぎつつ、神の福を享受する霊的ないきものとして創造され、存在していました。ところが、神に対する犯罪者が人類をまことの神から引き離し、結果として人類は霊が死んだために、人は自分の創造主を見失いました。
サタンは神と人類の離間者となったその時から、人類にとっては悪魔であり、空中の権勢者、偽りと死の父と呼ばれています。

それを打ち破り、圧倒的な勝利者となることが、人類にとって普遍的な最重要課題です。

悪魔のしわざを打ち破る。
それは何によって可能であるのか。
悪しき霊的存在のしわざに対しては、人間の知恵と能力によって立ち向かうものではありません。

ただひとえに、霊的世界の真理を悟って立ち向かうことです。悪魔に立ち向かい、打ち勝つ力は、人間の義によるものではありません。

人間至上主義や、社会主義、唯物主義の呪縛を以て平和を歌う悪しき偽りの音がこの国-日本を脅かす、そのしわざに楽々と勝利する人は、霊的世界の真理を霊魂に所有した人です。たとえ、正義の上に立つはかりごとであっても、いかなる善行も、神の福音なしで完成されるわざは、人を暗闇の霊的圧制から解き放つことはないでしょう。

正義が堅固な日本が81年前に直面した限界と弱さ。
その背後には悪魔のしわざがはたらいていたことを見逃さないでください。

そして、まさにいま直面している、日本の憂い。
それらを打ち破って前進しなければ、私たちに希望の明日はないことを、多くの人が気付き始めた今日にあって、勝利はくすしく妙なる神の福音のことばにあります。

神の国の福音こそは、霊的世界の真理です。

神の国の到来を告げ知らせた福音の始まりは、イエス・キリストによる御わざとともにこの世に現わされました。二千年前のできごとですが、そのわざはいまもなお神の聖霊によって、霊的世界の真理として世界中に響き渡っています。その音が初めに響いたその日、よみにおいてはサタンが驚愕し、稲妻のように自分の王座から転げ落ちました。

イエス・キリストが、死と復活を通して真実なる霊的世界である神の国に上がられたからです。イエス・キリストは死とよみの権勢を打ち砕かれ、サタンとも悪魔とも言われる死の魔王を完全に裁き、霊的なる人類に神の国の福音を確かなものとされました。

その音を、耳をつんざく無意味な騒音として聞くのか、それとも歓喜と平和の訪れの音として聞くのか。イエス・キリストの福音を聞いて御前に出て来る人は救われます。

だれでも、生きておられるまことの神様の前に謙遜の意志を以てひざまずく人は、いまもなお圧倒的に現わされる神の国の力を体験し、霊的世界の真理を聞いて悪魔の制圧から脱出するのです。
このような徴を体験する人は幸いです。

人類に向けられた神の国の福音の始まりは、「イエスこそ生ける神の御子、救い主である」と信じ認めて告白するところにあります。
神の国は、この世に実現する国家ではありません。物理的、有限的なこの地上に建国される、血肉に属す国ではないということです。神の国は、永遠のはじめから唯一自存する神の、最も尊いところに据えられた、神がご自分の愛を一途に注がれる御子の嗣業の国です。そこは、造られた時から永遠であり、死も偽りも暗黒も皆無な場所です。栄光といのちと真理が充満な霊的世界の御国に、神の御子は人の子となって入って行かれました。そのような栄光の国の権勢と能力が、聖霊によって信じるすべての人の霊魂に今まさに到来しているのです。

いまや、神の国は人の子となられた神の御子が永遠に治める霊的な真理の世界であり、この世の列国も比べ得るものはありません。この世のいかなる国も発揮し得ない、空中の権勢者悪魔、暗黒の魔王である悪魔を完全に圧制する能力。それが神の国です。
神の国は思想、理想の声にあるのではない。神の国は霊的暗闇をことごとく打ち砕く力にあります。

神の御子がこの世に入って来られた時、御自分の嗣業の名として人類に現わされた尊い御名、すなわちイエスの名を信じる人たちの霊魂は、並外れて大いなる神の国の力を帯びて悪魔のしわざを圧制し、裁く霊的な力であることを知った人は何と幸いでしょう。

それゆえに、神の国と神の義を先ず第一に求める人が手に入れるのは、歓喜の福音とともに前進する胆力と、勝利の凱旋行列です。

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