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決闘から冒険、そしてマイクへー極端の時代に「あわい」を生きる強さとは

1. 極端の時代にあわいを生きる

 SNS上では過激な言葉が飛び交い、それに呼応するように単純な二元論が社会の分断を深める。ショート動画はわかりやすさを優先するために、物事の複雑な機微を削ぎ落とし、その流れは個人にも及ぶ。私たちはいつの間にか、複雑な内面よりもわかりやすいキャラクターを求められているかのようだ。今は立ち止まって逡巡するよりも迷いなき極端が魅力とされる時代である。しかし、ラッパーのTaiTanはポッドキャスト『奇奇怪怪』で

中道こそが最大のカウンターカルチャーになっている

TaiTan, 玉置周啓,挨拶論と『国宝』とオーガニック,奇奇怪怪, 第105号

と述べた。彼の言葉は、政治の世界だけに限らない。人の在り方においても意識的に中道を保つことこそがよりよく生きるヒントではないだろうか。
 本稿では、相反する二つの極の間でバランスをとる、その危うくも豊かな状態を「あわい」と呼びたい。互いに矛盾して見える二極の「あわい」に立つ可能性と強さを、決闘(高貴と野蛮)・冒険(慎重と大胆)・マイク(身体と言語)という三つ象徴を通して探っていく。

2. 学生決闘―高貴と勇敢なる野蛮の「あわい」

ドイツ学生決闘

 一つ目の象徴は「決闘」である。特に、私たちが探るべき最初の「あわい」として近代ドイツ以降の大学で行われている「学生決闘」を取り上げよう。この学生決闘を日本人として体験することとなった菅野瑞治也による著書「実録 ドイツで決闘した日本人」においては、これはエリートに求められる資質である「高貴なる野蛮」を育む行為とされている。事実、鉄血宰相ビスマルク、哲学者ニーチェ、自動車の父ダイムラーやポルシェなどの歴史に名を刻んだ多くの者たちがこの決闘を経験している。
 この学生決闘に勝敗はなく、単なる暴力の応酬でもない。厳格なルールのもと、恐怖に耐え、己を律し、相手に敬意を払う。だからこそ、顔に刻まれた刀傷は名誉の証だった。先にあげた菅野瑞治也による著書を取り上げた書評サイトHONZでは、傷の意味をこうまとめている。

1930年代までは、この刀傷は、それを顔に負った人間がドイツ語圏で大学教育を受けたというエリートの誇り高き証しであり、追い詰められた状況においても尻込みすることのない、勇敢な人間であることの象徴なのだ。

HONZ 『実録 ドイツで決闘した日本人』 - 高貴なる野蛮

高貴×野蛮

この学生決闘で育まれたのは、洗練された知性や精神と、野生的な強さあわせもつ人格である。それはまさしく、理性と野性のあわいにたつ人間像そのものである。書斎で思索にふける知性を持ちながらも、いざという時には恐怖を抱えながらも一歩も引かない「高貴なる野蛮」とも呼ぶべき精神こそが、後に彼らが外交、軍務、そして技術開拓で前例のない場所に飛び込む胆力の土台になった。

3. 冒険―慎重と大胆の「あわい」

 第二の象徴は、「冒険」である。これは「決闘」で示された恐怖を抱えながらもその場に立ち続ける強さを、さらに一歩進めるものであるといえる。偉大な冒険を成し遂げた人物は、例外なく「慎重さ」と「大胆さ」という二つの「あわい」に生きていた。ここでは、玄奘と河口慧海を例に挙げたい。

玄奘
玄奘は、仏典を求めて、国禁を破り、灼熱の砂漠を超えインドを目指した。その行動はまさしく大胆不敵と言っていい。しかし、彼の旅を可能にしたのは、周到なルート選定や徹底した語学習得、現地人との交流による情報の更新、さらに道中の有力者を味方につける的確な交渉といった緻密な「慎重さ」だった。帰国の判断さえ、唐の国際情勢と皇帝の宗教政策を読み切った上での、計算された「大胆さ」だったに違いない。

河口慧海
 
明治の日本において、同じく仏典を求めて鎖国体制を敷いているチベットに単身で乗り込んだのが河口慧海である。ヒマラヤを徒歩で越え、正体を隠してラサの寺院で学ぶその「大胆さ」は常軌を逸している。一方で、完璧な現地語の習得や危機に際して仏典をまとめて冷静に脱出を図る周到さを持っていた。また、ラサ滞在時に交際していた人々が投獄されていると知るや、ネパール国王に働きかけてチベット法王にあてて上書を書いてもらうという国際情勢の機微を用いた外交的駆け引きも行っている。こうした行動は、彼もまた、類稀な「慎重さ」を兼ね備えていたことを物語っている。

慎重×大胆
 
彼らがもし大胆さだけを頼りに進んでいたならば、歴史に名を刻むことなく異境の土と化していただろう。逆に、慎重さのあまり一歩も踏み出せなかったなら、その名は誰にも知られなかったはずだ。生きた時代は全く異なる二人の旅路は、常識外れな「大胆」な跳躍は、それを成立させる徹底的な「慎重さ」という裏付けがあってはじめて可能になるという事実を示している。それは、決闘における「退かずに立ち続ける」受動的な勇敢さから未知へと「前へ踏み出す」能動的な勇敢さへの、確かな進化なのである。

4. マイク―身体と言語の「あわい」

 三つ目の象徴は「マイク」である。決闘で恐怖に立ち向かい、冒険で未知に踏み出した。では、現代において我々が向き合うべき世界とは何か。その最前線に立つ象徴として、ここでは「マイク」を取り上げたい

身体と言語を握る強さ
 TaiTanと三宅香帆の対談(TaiTan×三宅香帆「流通会議室 presented by 流通空論 いいプロデューサーとは何か?)で、非常に興味深いやり取りがあった。三宅はTaiTanの強さを「ラッパーであること」だと評した。その理由は、彼が音楽やライブを作り上げるという「身体」の世界とポッドキャストや企画といった「言葉」の世界の両方を経験し、どちらの手綱も握ることのできる人であるからだという。そして、三宅は「言葉と身体が伴っていると人間は強い」と指摘し、「身体と言語、どちらの手綱を握ることのできる人が覇者になれる」と結論付ける。

身体×言語
 「身体と言語、どちらの手綱を握ることのできる人が覇者になれる」という発言は、これまで展開してきた「あわい」の議論と重なり合う。人を揺さぶるパフォーマティブな「身体性」と、物事を的確に捉え、伝える「言語化能力」の二つは、相反した要素として捉えられがちだ。しかし、これからの時代に求められるのは、まさにこの両極の「あわい」に立つ人間なのではないだろうか。TaiTanはその好例である。彼はライブで観客を熱狂させるパフォーマンス、フロウやリズムといった非言語的な身体性とポッドキャストで聞かせる論理的で的確な言語化力を持ち合わせている。

5. 「あわい」を生きる厳しさと強さ

 分かりやすさが称賛され、極端な意見が注目を集めるこの世界において、様々なバランスを取りながら「あわい」の中で立ち続けるのは決して簡単なことではない。自分を極端に振り切ってしまいたいという誘惑はあまりにも魅力的だ。だからこそ、その流れに身を任せない営みが重要になる。自分の中に根を張り、常に自分を見て、軌道を修正し、意識的に自分をあわいの中に留まらせるのである。そして、この「あわい」で揺れ続けること自体がすでに一つの行為であり、強さである。なぜなら、安易な答えに飛びつかず、立ち止まって逡巡し、自己を絶えず更新し続けることは、白か黒か、0か100かで判断する方が楽なこの世界で、あえてその間のグラデーションを見つめ、自分もその中にあり続ける、その葛藤こそが、人間を深く、強くするからだ。
 決闘における高貴と野蛮、冒険における慎重と大胆、そしてマイクが象徴する身体と言語といった「あわい」を本稿で取り上げた。これらの「あわい」に立つことは、常に緊張を強いられる、厳しい生き方かもしれない。それでも僕は、相反する二つの要素の間に立つ人間でありたいと思う。様々な内心の恐怖や外的な圧力に耐え続ける胆力を持ち、確かな知性と計画性を武器に、ラディカルな挑戦を続け、そして豊かな身体性とともに、自らの言語を磨き上げていきたいのだ。
 極端さがもてはやされる時代だからこそ、意識的に中道に、「あわい」に立つ。それは厳しいものであるが、その揺らぎの中に身を置き続ける姿勢こそが現代という時代への最大のカウンターなのかもしれない。

参考

[1]TaiTan, 玉置周啓,挨拶論と『国宝』とオーガニック,奇奇怪怪, 第105号.

[2]菅野瑞治也, 実録 ドイツで決闘した日本人, 集英社新書.https://shinsho.shueisha.co.jp/kikan/0711-n/
[3]内藤順, 『実録 ドイツで決闘した日本人』 - 高貴なる野蛮, Honz. https://honz.jp/articles/-/34101
[4]玄奘,水谷真成,大唐西域記,東洋文庫.
[5]河口慧海,チベット旅行記,講談社学術文庫.
[6]TaiTan, 三宅香帆, TaiTan×三宅香帆「流通会議室 presented by 流通空論 いいプロデューサーとは何か?」.https://peatix.com/event/4382483?lang=ja-jp



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