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第二十一話 「上島珈琲の神様は、二度目も、ちゃんとゴリラを讃える」


上島珈琲店に、また来た。
ロイヤルミルクコーヒーを頼んで、窓際の席に座った。
土曜日の午後三時。
店内は、穏やかだった。
穏やかすぎて、今日は収穫なしかもしれない、と思い始めた。
十一話目にして、まだ学ばない。
レーダー、起動。


反応は、カウンター席から来た。
男性、二人。
二十代後半か三十代前半か。
一人は体格がいい。筋肉質で、肩幅が広い。以後「フジモト」。
もう一人は細身で、眼鏡をかけている。以後「ミキ」。
二人ともコーヒーを飲みながら、スマートフォンを交互に見ている。
何かを、調べながら、話しているらしい。
最初は、何の話かわからなかった。
でも、聞こえてきた最初の一言で、私のレーダーが、予想外の方向に、振り切れた。


「ゴリラって、マジでやばいと思う」とフジモトが言った。
「やばい?」とミキ。
「どのくらいやばいか、わかってる人、少なすぎる」
「少ない、絶対少ない」
「もっと知られるべき」
「知られるべき、ほんとに」畳みかけるフジモト。


私は、ロイヤルミルクコーヒーを、口に運びかけて、止めた。
ゴリラ。
ゴリラの話が来た。
二十一話にして、初めての、ゴリラだ。

ありがとう、土曜日の午後三時よ。


「まず、握力」とフジモトが言った。
「握力」とミキが繰り返した。
「ゴリラの握力、どのくらいか知ってる?」
「知らない」
「五百キロ」
「ごひゃく」
「キロ」
ミキが、自分の手を見た。
「俺、四十五キロくらいだと思う」
「十倍以上だよ」とフジモトが言った。
「人間の最高記録でも、百キロ台とかだから、ゴリラはその三、四倍はある」
「それ、もう、握られたら終わりじゃん」
「終わり」とフジモトが言った。
「即終わり」


私は、ビスコッティを一口かじった。
即終わり。
確かに。
五百キロの握力に握られたら、即終わりだ。
反論の余地がない。


「でも」とミキが言った。
「ゴリラって、温厚じゃない?」
「温厚」とフジモトが頷いた。
「そこがまたすごい」
「強いのに、温厚」
「強いのに、温厚なんだよ。草食系なんだよ、基本的に」
「意外だな」
「だろ。果物とか、葉っぱとか、食べてる。肉、ほぼ食べない」
「あの体で」とミキが言った。
「あの筋肉を、草で作ってるの?」
「草で作ってる」
「それはもう、ゴリラの方が、俺より食生活、正しいじゃん」
「正しいよ、絶対」


私は、手帳に「草で筋肉を作るゴリラ」と書いた。
書きながら、なんでこれを書いているのか、一瞬わからなくなった。
でも、書いた。
如月みどりの手帳には、六十八歳の離婚宣言も、三億円の宝くじも、離婚届も、ゴリラの筋肉も、全部、並んで記録されている。
人生は、多様だ。


「ゴリラって、コミュニケーション能力も高くて」とフジモトが言った。
「高いの?」
「高い。表情が豊かで、感情表現がすごくて」とフジモトが言った。
「笑うし、悲しむし、仲間を気遣う」
「仲間を気遣う」
「群れで生きてて、リーダーのシルバーバックが、みんなを守る」
「シルバーバック」
「大人のオスの背中が、銀色になるんだよ。それがリーダーの証で」
「かっこいいな」とミキが言った。
「かっこいいんだよ」とフジモトが言った。力が入っていた。
「シルバーバックは、群れに危険が迫ったとき、自分が囮になって、みんなを逃がすんだよ」
「自分が囮に」
「命がけで、守る」
ミキが、スマートフォンを置いた。
「それは」と言った。
「かっこいいな、普通に」
「普通にかっこいいんだよ」


シルバーバック

私は、コーヒーを飲んだ。
シルバーバックが、群れを守るために、自分が囮になる。
五百キロの握力を持ちながら、草を食べながら、仲間のために命がけになる。
強くて、温厚で、草食で、仲間思い。
これは、理想の上司だと思った。
あるいは、理想の父親か。
あるいは、理想の友人か。
ゴリラに、人間が負けている部分が、いくつかある。


「知能も高くて」とフジモトが続けた。
「どのくらい?」
「手話を覚えたゴリラがいて、人間と会話できたんだよ」
「え、手話を?」
「ココっていうゴリラが有名で。千個以上の手話を使えた」
「千個」
「人間の言葉を、理解してたんだよ」とフジモトが言った。
「で、ある日、飼育員が、ゴリラは死んだらどうなると思う?って聞いたんだよ」
ミキが、眼鏡を押し上げた。
「ゴリラに、死後の世界を聞いたの?」
「聞いたの」
「ゴリラは、何て答えたの」
フジモトが、スマートフォンを確認した。
「『快適な穴』って答えたらしい」


店内が、静かになった気がした。
私の中でも、何かが、静かになった。
快適な穴。
ゴリラが、死後の世界について考えて、出した答えが、快適な穴だった。
天国でも、無でも、輪廻でもなく、快適な穴。


「快適な穴、か」とミキが言った。
「深くない?」とフジモトが言った。
「深い。なんか、深い」
「俺、これ読んだとき、ゴリラの方が、哲学的だと思った」
「哲学的だよ、それは」とミキが言った。
「人間が宗教作って、天国とか地獄とか言ってるより、快適な穴の方が、なんかリアルじゃん」
「リアルなんだよ」
「ゴリラ、哲学的だな」
「哲学的で正直なんだよ、ゴリラは」


私は、手帳に「快適な穴」と書いた。
第六話で、スカーフの女性が「桜の木の下に入りたい」と言っていた。
カーディガンの女性が「太平洋にばーっとまかれたい」と言っていた。
そしてゴリラは「快適な穴」と言った。
死後の行き先を、みんな、それぞれの言葉で、考えている。
ゴリラも、人間も。


「ゴリラって、老いる?」とミキが聞いた。
「老いる」とフジモトが言った。
「シルバーバックになって、群れを率いて、老いて、死ぬ」
「老いたシルバーバックは、どうなるの」
「若いオスに、リーダーを譲る」
「譲るの?」
「争うこともあるけど、平和的に譲ることもある」とフジモトが言った。
「老いたシルバーバックが、若いオスに、少しずつ、権限を渡していく」
「潔いな」
「潔いんだよ。老いを、受け入れてる」
「人間より、潔い」とミキが言った。
「人間より、潔い」とフジモトが繰り返した。
「人間は、なかなか、譲れないじゃん」
「なかなか、な」
「ゴリラは、譲れる」


私は、ロイヤルミルクコーヒーの最後の一口を飲んだ。
老いを受け入れて、潔く譲る。
快適な穴で、安らかに眠る。
草を食べて、仲間を守り、命がけで囮になる。
ゴリラは、やばい。
フジモトとミキの言う通りだ。
もっと知られるべきだ。


「俺さ」とフジモトが言った。
「うん」
「ゴリラを好きになったのって、ちょうど仕事がしんどかったころで」
「そうなの?」
「職場で、なんか、うまくいかなくて。人間関係が、ぐちゃぐちゃで。そのとき、たまたまゴリラの動画見て」
「見て、どうだったの」
「なんか、救われた」とフジモトが言った。
「シルバーバックが、群れを守ってる動画で。強くて、でも穏やかで、ちゃんと仲間のこと見てて」
「うん」
「こういう存在に、なりたいと思った」
ミキが、少し黙った。
「ゴリラに、なりたいの?」
「ゴリラに、というか」とフジモトが笑った。
「シルバーバックみたいな人間に、なりたい、と思って」
「強くて、温厚で、仲間思いで」
「そう。怒鳴らなくても、強い人。草食でも、たくましい人」


私は、そこで、ペンを置いた。
ゴリラの話だと思っていたら、フジモトの話になっていた。
仕事がしんどかったころ、ゴリラに救われた男の話になっていた。
盗み聞きは、いつも、予想外の場所に着地する。


「なれてる?」とミキが聞いた。
「シルバーバックみたいな人間に」
フジモトが、コーヒーを飲んだ。
「なれてないけど」と言った。
「目指してる」
「それでいいじゃん」とミキが言った。
「そうかな」
「ゴリラだって、最初からシルバーバックじゃないじゃん。年月かけて、なるんじゃないの」
フジモトが、少し笑った。
「そうだな」
「だから、まだ途中でいい」
「途中か」
「途中だよ、俺たちは」


如月みどり、四十三歳。今日は、ゴリラについて、真剣に考えた。
快適な穴。
シルバーバックの潔さ。
草で作った五百キロの握力。
仲間のために囮になる勇気。
そして、ゴリラに救われた男が、シルバーバックみたいな人間を目指している話。
人間は、いろんなものに救われる。
友人に救われる人も、コーヒーに救われる人も、亡き母に救われる人も、ゴリラに救われる人も、いる。
私は、隣のテーブルの他人に、救われてきた。
三十一話分、救われてきた。


今夜は、十八本目のサキに、ゴリラの話をさせようと思った。
主人公に向かって、ゴリラってやばいよね、と言うサキを。
主人公が、なんでゴリラの話になるの、と聞いて、サキが、なんとなく、と言う場面を。
その「なんとなく」の中に、全部が入っている。
快適な穴で眠れるなら、今夜の執筆も、悪くない。
ロイヤルミルクコーヒーは、今日も丁寧に、温かかった。
上島珈琲は、手間をかけることをいとわないから。
だから今日は、いっか。
いや、今日は、最高だった。
ゴリラのおかげで。

(次回に続く)

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