古地図で木嶋神社の一ノ鳥居を確認しておく..
木嶋神社にまつわることを調べていくと、際限がないことに今更ながら気がつくんだが…
僕の住まいは嵐電(らんでん)の蚕ノ社駅(かいこのやしろ)と太秦広隆寺のちょうど間ぐらいにあるんだけれど、何となく普段は広隆寺の駅を利用することが多い。その蚕ノ社駅の近く、三条通に面している石造の鳥居は木嶋神社の一ノ鳥居(いちのとりい)と呼ばれている。
現時点での考察をまとめ
明治25年(1892年):当時作成の地図に鳥居を記したような記号が確認できる(今よりも250mほど南側)。記号として有効であるか未調べ。
明治43年(1910年):嵐山電車軌道の開業当時の写真より、木造の一ノ鳥居が三条通(旧嵯峨道)で確認できる(今と同じ位置)。
昭和9年(1934年):現在の石造の一ノ鳥居は建立されている。
現在の一ノ鳥居
鳥居の建立は「昭和9年(1934年)2月」のようだが、木嶋神社そのものは、「続日本記」大宝元年(701年:飛鳥・古墳時代)4月3日の条に、神社名が記載されていることから、1000年以上の歴史があることもあって、比較的新しく作られたものと言える。



嵐電の歴史
いつ蚕ノ社駅ができたのかを調べるのに、嵐電を調べてみると、正式名称は京福電気鉄道の軌道路線の嵐山本線と北野線を「嵐電」と指しているらしい。京福電気鉄道の沿革をひもとくと、嵐山電車軌道(らんざんでんしゃきどう)の開業が明治43年(1910年)となっており、沿革図をみると、あれこれ繋がっており、脱線してしまいそうになるw

明治時代の古地図
明治25年(1892)

嵐山電車軌道開業(明治43年 1910年)から18年ほど遡った状態の地図となる。周囲は、ほとんどが田んぼの記号が記されている。縦の太い線は天神川、この図の中央が木嶋神社、そして左側が太秦村となる。
現在の三条通は「嵯峨道」として、比較的大通りとして利用されていたと推測できる。木嶋神社の前を左右に伸ばした道は太秦村から安井村への主要な道となっていたようで、現在の「太子道(広隆寺に所以がある)」に相当する。三条通から木嶋神社まで田んぼの中を南北に繋げた線(畦道だろうか?)が、現在の「一ノ鳥居」から木嶋神社に至る経路となる。
まだ嵐電は開通していないし、嵯峨道は今の三条通のように斜めに描いていないことがわかる。
大正元年(1912)

嵯峨道が今の三条通のように斜めになった(三条御池という交差点ができる伏線)。当時の太秦村の中心地が広隆寺を起点して集落が集まっていたためだとわかる。木嶋神社に至る嵯峨道からの南北の道も以前よりか少し太くなってきた印象がある。木嶋神社の正面(南側)には丸い区画があるが、農業用水の溜池があったと聞いている。明治25年の地図にはなかったので、その後作られたということやな。
木嶋神社と広隆寺の間に「学校」の地図記号があるし、広隆寺付近にも同じ地図記号が見つかる。現、京都市立太秦小学校は、1872年(明治5年)、広隆寺内に太秦村太秦学校として開校。その後、京都市立太秦尋常小学校・京都市太秦国民学校と改称し、1947年(昭和22年)に京都市立太秦小学校となったとされているが、明治25年の地図に学校の表記は見当たらないのは、ひょっとすると記号がなかった説ある?
嵐山電車軌道株式会社が開業してから2年ほどになるんだが、この時期に線路が確保されていたのかは地図では確認できないんだが、国鉄(JR)では花園駅の次は嵯峨駅となっているので、嵐電の蚕ノ社駅ができる時期は不明である。
そんな中、社会福祉法人京都市右京区社会福祉協議会のウェブサイト内にて京福電気鉄道株式会社の資料に「嵐電開業当時の蚕ノ社付近」とされた写真が見つかる!(下記に転載)
写真でみる限り線路を彷彿させる形状が見られるだけなく、立派な木造の鳥居も確認できる!(すごい!)


写真の右手前から左奥に続く道が「嵯峨道(三条通)」で鳥居の右手に田畑の中に続く道の先に、木嶋神社(蚕ノ社)があることが想像できる!
同じ資料に当時の広隆寺の写真もあるので、転載しておきます。


写真左手は広隆寺の山門。今と同じ面影が残っている。左奥は人が立っている姿から広隆寺駅ホームではないかと推測できる!電車の左側に電線状のものから吊るされているのは何だろうかw
大正11年(1922)

大正元年と比べると地図自体の精度が上がっており、嵐電の軌道が明確に記されている。この頃であっても特に集落が増えた様子はない。周辺は田んぼだらけ、太秦=田んぼ=百姓が主たる職業であったことがわかる。
さらに、地図を拡大すると太秦広隆寺駅は「太子前駅」と表記があるが、「太秦天神川駅」付近に「蠶ノ社」という表記が見つかる。蚕ノ社駅の前身だろう!当時の地図では木嶋神社は「蚕ノ社」と記載されている。古くから「蚕養神社」という呼称もあるため、大正時代には「木嶋神社」よりも「蚕ノ社」としての名称が一般的に認知されていたことがわかる。今も2つの名称で通じている背景はこの辺りにありそうだわ(実に興味深い)。嵯峨道は「嵯峨街道」に名前が変わっている。
蚕ノ社・蚕養神社は、その名の通り、蚕=絹糸=織物の神社という背景がある。推古天皇(33代天皇:在位592~628年)の頃、養蚕、織物、染織の祖神を祀って養蚕神社の創建という話もあるので、木嶋神社より古い時代に蚕ノ社が存在していた可能性が高い。詳しくは「養蚕神社(こかいじんじゃ)、通称「蚕ノ社」の云われ」にまとめている。
昭和10年(1935)

さらに地図の精度があがって、住宅地がぼちぼち増え始めている。この地図でも木嶋神社は「蚕ノ社」と記載されたままだが、太秦小学校の位置は「太秦尋常高等小学校」と記載され、太子前駅と蚕ノ社駅が現在と同じ位置に移設され、そして嵯峨道が「三条通」となっている。
さらに目立った変化としては広隆寺から続いていた太子道よりも三条から南北に結ぶ道の方が太くなっている。冒頭で話した現存する石造の一ノ鳥居の建立は「昭和9年(1934年)2月」なので、その当時、人の往来が増えていたのが目に浮かんでくるわー
一ノ鳥居はいつからあったのか?
嵐電開業当時の蚕ノ社駅付近の写真からみるに、嵐山電車軌道開業(明治43年 1910年)の頃には、木造の鳥居が存在したことは明確である。明治25年(1892)の地図では、嵯峨道(三条通)は斜めを描いていないので、鳥居の場所も南に250mほど下がった位置にあったのだろう。西高瀬川の少し北側ぐらいだ。現在の「エスリード太秦(マンション)」の北側、ちょうど南北に小さな水路が残っているんだが、ひょっとすると木嶋神社前の溜池から西高瀬川へ続く農業用水であったのではなかろうかーw
その後、嵐山電車軌道開業に伴い、嵯峨道(三条通)の移設に伴い、鳥居も移設したと推測できる。(妄想!)
なお、明治や大正の地図に嵯峨道から南北につながる道の両端に漢字でいうところの草かんむり状で「線」が引いてあることがわかる。神社の地図記号は鳥居のシルエットなので、関連性があると推測しても良いかと考えている。

明治25年(1892)の地図を紐解く
現時点でもっとも古い資料が、明治25年の地図になるんだけれど、なんと、同じような記号がいくつか見つけることができる。
・賀茂別雷神社(上賀茂神社)に至る道(らしい記号がある)

・曼殊院に至る道(らしい記号がある)

・北野神社(北野天満宮)に至る道(らしい記号がある)

…ただ、他の神社には見つけることができないし、地図に神社じゃなく鳥居の記号があるなんて聞いたこともないんだけれど…
・松尾社(松尾大社)に至る道(らしい記号がない)

・梅宮神社(梅宮大社)に至る道(らしい記号がない)

木嶋神社の境内直前にある木造の鳥居(ニノ鳥居)は、2021年11月に新調している。2018年の台風被災で少し痛んでいたのを記憶しており、良いタイミングを見計らってということでしょうねー

何か、続きがあれば加筆しますよー
これらの地図情報は「立命館大学 近代京都オーバーレイマップ」より拝借している。あざっす!
https://www.arc.ritsumei.ac.jp/archive01/theater/html/ModernKyoto/
その「近代京都オーバーレイマップ」に記載されている所蔵一覧をこちらにも転載しておく。
京都市都市計画基本図(縮尺1/3,000)(昭和28年)
京都市都市計画局(京都市指令都企計第90号)
※この地図は京都市発行の都市計画基本図(縮尺1/3,000)を参考に
作成したものである
京都市都市計画基本図(縮尺1/3,000)(昭和10年)
京都市都市計画局(京都市指令都企計第90号)
※この地図は京都市発行の都市計画基本図(縮尺1/3,000)を参考に
作成したものである
京都市都市計画基本図(縮尺1/3,000)(昭和4年)
京都府立京都学・歴彩館
京都市都市計画基本図(縮尺1/3,000)(大正11年)
京都大学文学研究科所蔵
京都市明細図(縮尺1/1,200)(昭和26年)
京都府立京都学・歴彩館
京都市明細図(縮尺1/1,200)(昭和2年)
長谷川家住宅所蔵
正式地形図(縮尺1/20,000)(大正元年)
国土地理院
※この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万分1 正式図を使用した。(承認番号 平29情使、 第1360号)
仮製地形図(縮尺1/20,000)(明治中期)
国土地理院
※この地図の作成に当たっては、国土地理院長の承認を得て、同院発行の2万分1 仮製図を使用した。(承認番号 平29情使、 第1360号)
