元糺の池(もとただすのいけ)は枯渇していると聞くけれど。ちょっと違うようだ。
追記:この記事を投稿していから8年以上が経過しているが… 紆余曲折があって、木嶋神社の公式ウェブサイト(2026年4月1日公開)に結実した!https://www.konoshima.org/
前回「養蚕神社(蚕ノ社)」の概要でしたが、今回はその続きとなります。
木嶋神社の周辺地域は、御室川と宇多川が合流し、その下流では天神川に合流している。土地の高低差は川なり程度で多くは平地が広がり、周辺の古い住宅や町内には古井戸が点在している。6〜7世紀当時の環境がどこまで残っているかは不確かであるが、農業・産業の発展だけでなく生活するにも適した土地であったと推測できる。
木嶋神社の由緒書「元糺の池(もとただすのいけ)」の箇所には、次のような内容が記されています。
境内に「元糺の池」と称する神池がある。嵯峨天皇の御代に下鴨に遷してより「元糺」と云う。糺は「正シクナス」「誤ヲナオス」の意味で、此の神池は身滌(みそぎ 身に罪又は穢のある時に心身を浄める)の行場である。夏期第一の「土用の丑」の日にこの神池に手足を浸すと諸病にかからぬという俗信仰がある。
嵯峨天皇(52代天皇:在位809年〜823年)の時代に心身を浄める神池(糺の池)の役割を賀茂御祖神社(下鴨神社)に移したとされる。「糺の池」が移されたのは、ちょうど平安時代(794年〜1185年頃)であることから首都の整備計画の一環だと思われる。
木嶋神社の御神紋は「二葉葵(ふたばあおい)」であり、下鴨神社と同じ(上賀茂神社、松尾大社も同じ)。近年まで太秦を含む広域は「葛野郡」と呼ばれており、葛野(かどの)という呼称は古くは『日本書紀』にも登場する。その流れも踏まえても太秦の秦氏と下鴨神社の賀茂氏とは深い縁や共通する役割もあったであろう。
下鴨神社には「糺の森」と呼ばれる原生林が今もなお残されている。その森の中には「御手洗池」という神池はあるが「糺の池」とは呼ばれていないが、禊祓いをして、罪、けがれを祓う「足つけ神事/御手洗祭(みたらいまつり)」が夏の土用の丑の日に行われることから「糺」云われを持つ池には間違いない。

木嶋神社の境内にも原生林がある。こちらは「元糺の森」と呼ばれており、本殿西側に「元糺の池」があり、下鴨神社と同じように夏の土用の丑の日に「足つけ神事/御手洗祭(みたらいまつり)」行われている。平安時代の云われはまだ見聞きできていないが、おそらく公式な機能として役割は終えた後も、慣習として伝承されてきたのだろう。その池の中に非常に珍しい造形体である「三柱鳥居」があるが詳しくは後述する。
また、最近SNSに流れてきた情報だと、木嶋神社周辺の地下水脈は「御室川扇状地」に含まれていることがわかる。
⑥なぜ明治期になっても平安京の東側に町が片寄っていたのか。扇状地の範囲を重ねると鴨川扇状地、天神川扇状地の上に町が広がっていたことがわかる。つまり、地下水脈が浅い場所にあり、井戸を数メートル掘るだけで水が得られる地域であった。『凹凸を楽しむ 京都「高低差」地形散歩』(2月10日発売)… pic.twitter.com/pUFd6bkNf0
— 新之介 (@jusojin) January 4, 2026
元糺の池は枯渇しているが、水脈は活きている。
近年、木嶋神社の水脈に大きな変化があった。1984年からその兆しがあり1993年頃に元糺の池は枯渇したとされ、その原因不明とされている。今も続く木嶋神社の「御手洗祭」など、行事に合わせて地下からポンプで水を汲み上げて水を満たしていることから、水脈として完全に枯渇しているという表現は異なる。
今も残る元糺の池から流れ出る下流に水路では、少し昔は農家の方が大根などの野菜を洗う洗い場があったとされている。正面の鳥居(二ノ鳥居)の南側は駐車場や幼稚園が建っているが、近年までは池(溜池?)もあったと聞くが、今は付近は住宅が増えたこともあってか、すっかり埋め立てられている。1000年以上の歴史からみると半世紀にも満たない期間であるので、この先再び自然に水が湧き出るのではないかと期待を寄せておく♪
池の枯渇に関する資料
平成16年(2004年)ぐらいを最後に、すでに更新は止まっているウェブサイト「木嶋神社の湧き水を復活させる会」がある。管理は森ヶ東町まつり委員会という組織、すでに会としての継続的な活動も止まっているのだろうか…
https://konosimawakimizu.omiki.com/
当時、その組織によって池の調査も行われているので紹介しておく。調査を実施したのは、上林鑿泉工業株式会社(かんばやしさくせんこうぎよう)という伏見での井戸工事に携わっている業者。僕の実家(宇治市)では井戸水が主な生活用水であったので、ひょっとすると何やら関係もあるかも知れない。ちなみに今住んでいる太秦の家の敷地内には井戸が健在しているので、いつかお世話になるかも知れない。
蚕ノ社「元糺の池」 (仮称)周辺の地質・地下水について
今から20年ほど前(2003年)に行われた調査は「考察書」という形でまとめてられており、当該サイトの継続が不透明なので、念の為、一部抜き出しておきます。
この調査から推測するに、現在運用されているポンプ式による水の汲み上げはこの調査の後に実施された工事かと推測される。(いつか、当時を知っている人に確認したい)
引用元:https://konosimawakimizu.omiki.com/iroiro/kosatu/kousatu01.html
件名:蚕ノ社「元糺の池」 (仮称)周辺の地質・地下水について
平成15年2月
上林鑿泉工業株式会社
3.池の湧水と枯渇について
「元糺の池」は清澄な地下水を豊に湧き上がらせ、その流末は中池、下池などで調整されながら下流の田畑の主要な水源にも成っていたようである。この池は、地形上から見ると段丘地形の末端部付近という地形の変わり目(変遷部)に辺り、洛北山地に降った降水が地下に浸透し、地下水となって段丘地層内を伝って供給され、その地下水が後背地の比高差によって湧水していたものと思われる。
木嶋神社(蚕ノ社)は、この湧き水を祀り神社を造営したものとも推測される。いずれにしても木嶋神社付近を境にして沖積低地へと地形も変遷している事によって、段丘層内を浸透してきた地下水がこの地で湧き出ていたものであろう。
地下水の涵養と供給は、自然林の樹木や畑地などがその貯留量を制御しながら関わっていたと思われる。
しかし、今日の急速な都市化開発によって森林が伐り払われ、住宅地域に変化すると共に道路などの整備によって路面は舗装され、河川は三面張りに改修されて表流水の地下浸透を著しく阻害してきている(図-7)。さらに、地面の中にあっては下水道設置のために管渠が布設され、地域によっては地下水の“みずみち”を分断するように設けられることもある。このような影響を受けた地下水はその流れを変えるか、浸透を阻止されることによって表流水として河川を流下することになり、地下浸透量も必然的に減少し地下水低下をまねくもとにもなってくる。
「元糺の池」の湧水が間歇的になってきだしたのは1984,5年ごろからで、約120年前から完全に枯渇してしまったとの事である。その原因としては周辺の開発や河川改修などによる地下水浸透量の減少や下水道工事による“水みち”の変化などを挙げることができるが、主原因は明らかになっていない。いずれにしても、「池」を取りまく自然環境の大規模な変化によって今まで「池」に供給されていた集水面積が減ったことと、地下水位低下が湧水を止めるもとになっていることは確かである。
4.今後の対策と方向性の考察
「元糺の池」の湧水を自然条件下において蘇らせる方法としては、自然地下水の水位を現在の池底よりも上昇させる事である。この方法としては、
池周辺に地下水を効率的に集めることと、水位を上昇させる事。
横穴パイプなどを遣わせることによって、池に地下水を誘導する。
池を掘り下げ、池内に井戸を設けて地下水をポンプアップによって汲み上げる。
その他としては、現在行っているように他に井戸を設けてポンプで供給する方法、などが考えられる。
上記のうち、自然地下水を上昇させるのは周辺環境の著しい変化から至難のことであるが、次のような方法も考えられる。
地下ダム形式に神社の境内の南や東面に地中壁(難透水性の地盤にする)を設ける。
池の周辺の下流部に半円形の地中壁(上述)をもうけ、その後部に井戸を掘っ水位の上昇を計る。
同井戸か他の井戸に水中ポンプを設置して将来の水位低下に備える。
河川などの表流水を地下浸透方に変更し、神社の周辺にも自然透過型の雨水側溝を設け、効率的に集水浸透させる。
こうした方法によっても水位をどの程度上昇させることが出来、湧水を呼び戻すことになるかは疑問点も多い。
したがって、方向性を十分検討した上で環境調査や水文・水理地質調査を行い検討していくことが望ましい。
調査の方法については今後の検討課題であろう。
<続き:三柱鳥居>
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