〈短編小説〉『新卒電車』
向かいの窓に映った自分は、まるで死体のようであった。
日が沈み、街灯が息を吹き返す頃、電車の席に座って発車を待つ。
買ったばかりなのにくたびれているスーツを着て、疲れを感じながら虚な目をしていた。
足の指が痛い。
何本も営業の電話をかけ、革靴で何件も営業先をまわった。新卒の4月とは思えない仕事量だ。
ひと月前までは、明日がくるのが楽しみだった。誰と遊ぼうか、どこに行こうか。そんなフワフワした気持ちで過ごす毎日は、天国のようにキラキラしていた。
それも、今思えばという話であって、それが当たり前だった頃は、その幸福に気付けていなかった。
あの頃に戻りたい。あの頃といっても、ひと月前だ。近いようで遠い幸福な日々には、どれだけ手を伸ばしても届かない。
バイトをしていた頃の同僚である、後輩の田中さんとのLINEのやり取りを見返す。
"社会人大変じゃない?"
"何かあったら相談してね"
自分に優しくしてくれるのは、田中さんだけだった。
ドアが閉まり、電車が動き出す。
本当になりたい姿は、こんなものじゃない。それでも、自分にはレールを外れる度胸なんてない。
自分が本当になりたい姿とは何なのであろうか。
ゆっくりと目を閉じた。
「おい。刀出せ」
歌舞伎町の赤いネオンに照らされながら、俺は舎弟から刀を受け取った。鋭い刀に、赤い光が反射する。
その瞬間、立ち並ぶ店が発する光も、すべて赤に変わる。星さえも、真っ赤に光出す。
俺が率いる不良グループと、敵対する不良グループが、夜の新宿で相対する。俺が刀を突き上げると、舎弟たちは雄叫びをあげた。すると、敵たちも叫び出した。二百人規模の大喧嘩である。
二つの集団が、新宿のど真ん中で衝突する。
刀と刀がぶつかり合い、新宿の街は血で溢れかえった。
俺は、向かってくる十人、二十人を切り刻み、気づいたら死体の山の上に立っていた。血の雨を浴びる俺は、赤い月の光に照らされている。
敵のリーダーと目が合う。血だらけの切先を向ける。
「俺が不良の天下を取る」
敵のリーダーは、イモ引いて逃げてしまった。
次の日も、俺は金のランボルギーニで歌舞伎町に降り立った。
全身をルイヴィトンで固め、街ゆく人に一万円札をばら撒いて歩く。後ろには、有名なキャバ嬢や女優を連れて歩く。二人のゴツいボディガードは、金色のマシンガンを持っている。
すると目の前に、スーツ姿のヤクザが一人で道を阻んできた。
「昨日はえらい荒らしてくれたのぉ。俺のシノギどないすんねん。俺の使いっ走りみんな殺っちまいやがって。この野郎」
ヤクザは拳銃を突きつけてきた。指にはクロムハーツの指輪が光る。
俺は一ミリも引かない。ルイヴィトンのサングラスを外し、真っ直ぐな目でヤクザの目を見る。
「ヤクザがカタギ弾くんか。コラ」
俺は目線だけでヤクザをどかした。
そして、想いを寄せる田中さんとの待ち合わせ場所まで行く。キャバクラの看板の前で待つ、田中さんの美しい姿が見えた。
ブラウンに染め上げられた長い髪、白い滑らかな肌、二重瞼の大きな目、明るくて溌剌とした水々しい性格。その全てを、地球がひっくり返りそうなほど愛していた。
目が合った瞬間、空からは金の雨が降り注いだ。
歌舞伎町タワーには、『一万年に一度の天才』『トム・クルーズがわざわざ会いにきた漢』と、自分が紹介されているニュースが流れている。
BADHOPのProject Boyが盛大に鳴り響く。
目を開いた。
電車の向かいの窓に映る、眠たい目をした自分と目が合う。
AirPodsから流れるヒップホップは、夢の余韻と、夢と現実とのギャップを強く突きつけてくる。
自分のだらしない姿から目を逸らした。そこには、不良の世界に足を踏み入れるどころか、不良に話しかける勇気すらない自分がいた。レールからはみ出すのも怖くて、やりたくもない仕事を、嫌々やり続ける自分がいた。
死ぬ勇気すらない。だから、無意味で辛いだけの人生を、このまま何十年も送っていくのである。
そのとき、鞄の中から、スマホのバイブが鳴る感覚が一瞬伝わった。
田中さんからLINEがきていないかスマホを確認する。
だが、私用携帯の通知は何もきていない。腹の中に、モヤモヤと煙が立っているような気分になった。
仕事用の携帯を鞄から取り出す。
軽くため息をつきながら、明日を思う。
すると、味気ない日々が、淡々と列をなして向かってくるのを感じた。それはまるで、退屈な各駅停車の電車のようであった。

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