長い遺書


そういえば「一生のお願い」を使うタイミングが見つからないまま歳を重ねてしまった。

子どもの頃、安易に使いまくる同級生たちがただただ羨ましかった。

あの頃ならきっと何度も使えたはずなのに、良く言えば慎重、悪く言えばただの小心者な私は結局この齢まで一度も使う機会のないまま生きてきてしまった。
このままだと87歳くらいで「モテたい」と願ってしまいそう。
つくづく捻じ曲がった人生を歩んでいるなと思う。

だが、そんな時にふと考えてしまう。
私の人生はいつまで続くのだろうかと。

今のところ死にたくはないし、死ぬつもりもない。
だけれども、それは私が決められることではない。
だから、このままきっとほとんどの人と同じように死ぬつもりがないまま勝手に死んでいくのだろう。


もし死んでしまったらいったいどうなるのだろうか。
私調べで申し訳ないが深夜にふと考えてしまって寝られなくなる原因の第四位に位置する疑問だ。(ちなみに今、堂々の一位は辺境の地在住で太っているくせに小心者なおじさんはどうすれば怪しまれずに「もっちゅりん」なる甘味を手に入れることが出来るかについての脳内作戦会議)

現実的に考えるのならば、死は完全な終わりであり、死んだらずっと無の時間が続くのだろう。
でも、まだ誰もその証明は出来ていない。
ならば私は死の向こうにも世界があって欲しい。
まだ誰も帰って来ていないからきっとその世界は居心地がよいはずだ。
その場所で何が出来るかわからないけれど、何でも出来ると思いたい。


わかっている。これがただの与太話であることは自分自身が一番理解している。
だけれども、こんなふうに死後の世界があると嘯いて少しでも死後を肯定的に捉えないとあっという間に今生を蔑ろにしてしまいそうだ。

絶望に向かっては走れない。
例えそれが偽りの希望であったとしても、時には騙された方がいい場合もある。
だから、今夜も精一杯、虚勢を張って、より良い終わり方を模索している。

そして、改めて思う。
何かをより良くはじめることよりも何かをちゃんと終わらせることの方がずっと難しい。
まさに今、書いていて思っていることでもあるのだが、これは色んな事柄にもそのまま当てはまりそうだ。


私がこの場所で書き始めてもう三年目になる。
ありがたいことに多くの縁に恵まれて色んな人たち(人以外も)と巡り合うことが出来た。

素敵な小説や詩を紡ぎ続けている人がいる。独特で味のある文章を淡々と書き綴る人もいれば、私好みのぶっ飛んだ思考の人や、ただただずっと優しい言葉を積み重ねている人もいる。

ペンギンが好きな人もいれば、おにぎりが好きな人もいる。下ネタを極めた人、円周率で無双している人、海外での生活を満喫している人、犬を愛する人もいれば猫を愛する人もいる。勉強に励む中学生もいればまだまだ青春を謳歌する貴婦人もいる。

他にも自分と向き合い続けている我慢強い人や、めちゃくちゃ家族を大切にしている人、考えすぎる人、素敵なタイトル職人にダジャレ職人、絵や漫画で表現する人、惹きつける声音のラジオパーソナリティーまで多岐にわたる人たちとひとつのプラットフォームで言葉だけで繋がることが出来た。
最近では味噌汁系noterの方や爬虫類の方とも出会った。

中にはもちろん明らかに怪しい情報ビジネスを展開している人や絶対にフォロワー数稼ぎたいだけの人、唯我独尊で暴れまわる人だっている。(究極に暇になったら私のフォロー欄を覗いてみて欲しい)

本当に個性的で面白い方々がたくさんいて、我ながら素敵な縁に恵まれたなと感慨深くなる。
そして、その想いは日々が連なるにつれて、より強く鮮明になっていく。


ただ私が最初に出会った人はもういない。
今でこそ人種ならぬ言葉のサラダボウルを存分に堪能出来ているが、当時の私はそれこそ誰にも見向きもされず、ひとりぼっちだった。

そんな私を何の導きか見つけ出してくれたその人は私に自信を授けてくれて、そして、何も言わず去ってしまった。

ここでの終わりはとてもあっけない。
みんな風のようにふっといなくなってしまう。別れの言葉を遺して去る人はほとんどいない。
それがここの摂理であって、私だって例外ではない。


私は書くことが大好きだ。どんな形であれ死ぬまで書き続けたいと思っている。
だから、私がここを去る時はきっと本当の意味でも終わりが訪れた時なのだろう。

だが、お気づきだと思うが私は完全に立つ鳥跡を濁すタイプの人間だ。(太りすぎて鳥のように高く飛べないのもある)
先人たちには申し訳ないがめちゃくちゃ糞をまき散らして逝こうと思う。

それにまだ、おでんを食べる約束や縁側で待ち合わせする約束だって果たせていないし、何より一緒に300年生きようと誓いを押し付けた人たちや私の尻の呪いを律儀に受け続けてくれている人たちもいるのだから何も遺さずに逝けるはずがない。


もちろん自分を過大評価することは出来ない。
私は人様に遺せるようなものを何も持っていない。自ら持っていると言えるのは溢れんばかりの脂肪くらいだ。
だから、私という一人の人間?がいなくなったところで世界は昨日までと何も変わらない。
強いていうなら地球の自重が少し軽くなるくらいだ。
それは紛れもない事実。

それでも合縁奇縁。せっかく出会ったのだから、こんな私の別れの言葉だけでもどうか受け取っておいて欲しい。

遺書にしてはだらだらと長すぎるから、今書いているこの文に辿り着けている人もほとんどいないかもしれない。だが、ここへたどり着くことが出来た心優しく我慢強いあなたに。
ここでは言葉通り言葉だけで繋がっているのだから、やはり言葉だけを遺そうと思う。
いつかその時が訪れた時の為に。



私が死んだら必ず雨になろうと思う。
もしも、その時が来て、その後に雨が降ったならば、それは私だと思って欲しい。
生前がどれほど反映されるかわからないけれど、重い雨だったら申し訳ない。でも、大雨は迷惑をかけるからなんとか小雨にする。通り雨くらいがベストだな。一番は春雨が好きなんだけどな。麻婆春雨とか最高!おっと、いけない。このままだと中華風になりそうだ。極太麺が空から落ちてきたらさすがに申し訳ない。

とにかく向こうにも世界があることは私が雨になることでお知らせする。
ただその後に虹をかけられるようなカリスマ性は持ち合わせていないのでそこはご容赦願いたい。あと広範囲も難しいから相撲と同じで各地を巡業するシステムで行こうと思う。

そうやって死後の世界は私が必ず肯定するから、あなたはもう何も怖がる必要はないよ。
だからどうか、これからは死に惑わされることなく、ただあなたらしく今の人生を歩んで欲しい。(要約すると、とにかくしっかり寝て欲しい。あなたのより良い睡眠に繋がるのならば本望だ)

ここで唯一の懸念があるとすれば、私の一世一代の雨を見てもらうには少なくとも私より長く生きてもらう必要があるということだ。

正直にいって、私はあなたのことをまだ何も知らない。健康状態は?普段何を食べているの?ラーメンには必ず炒飯をつけるよね?炒飯はもちろん大盛?そんな基本的なことすら知らないから知ったかぶりすら出来ない。

言葉で確かに繋がっているのにその言葉もまだお互いを知るには全然足りない。
お互いの家族や大切の人たちと比べたら私たちの縁は希薄もいいところだ。

これぞ上辺だけの関係。
でも、死んだらどうせみんな上に行くと考えたら、向こうではちょうど同じ目線に立てるかもしれない。それこそ年齢も性別も関係ない。言葉さえあればきっともっと仲良くなれる。ならば、どうぞ死後もよろしく。

色々と嘯いてしまったが本当のところ、私にはあなたに何かを強いることは出来ない。あなたの人生は今までもこれからもあなただけのものだ。


だから、これは祈りではなく、呪いでもない。


どうか、末長く生きて欲しい。


一生のお願いだ。


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