【台湾民主化の父】李登輝の生涯
みなさんは本省人として初めて台湾(中華民国)総統に就任し、台湾の民主化・近代化に大きく貢献した政治家、李登輝をご存知でしょうか。

李登輝は日本統治時代の台湾に生まれ、日本兵として戦争を体験し、日本の敗戦後は台湾の発展に人生を捧げました。
また、流暢な日本語を話し、自ら「22歳までは日本人だった」と発言するなど、亡くなるまで日本に対して深い愛情を持ち続けました。
今回は台湾人アイデンティティの確立に多大な貢献を果たした「台湾民主化の父」、李登輝の生涯を解説します。
【生い立ち】
李登輝は1923年(大正12年)1月、日本統治時代の台湾に警察官の次男として生まれました。

幼い頃から日本語に親しんだ李は大変な読書家で、中学時代までに岩波文庫を700冊読んだとされます。
また、李家は「岩里」という日本名を持っていました。
そのため、李が中学生の頃、父から「政男」という名を与えられ、李登輝は「岩里政男」となります。

「岩里政男」こと李登輝は、大変な読書家かつ大変な勉強家で、1940年(昭和15年)に難関の旧制台北高等学校に入学しました。
李はここで、西田幾多郎の『善の研究』、ゲーテの『ファウスト』、新渡戸稲造の『武士道』などを読み耽ります。
【兄の死】
李が台北高等学校在学中の1941年(昭和16年)12月、日本の真珠湾攻撃により太平洋戦争(大東亜戦争)の火蓋が切られました。
こうして、日本統治下にあった台湾も必然的に戦争に組み込まれていきます。
台北高等学校を卒業した李は京都帝国大学農学部に進学し、1943年(昭和18年)12月、日本陸軍へ入隊します。

千葉陸軍高射学校へ配属された李は、1945年(昭和20年)3月に東京大空襲が起きると被災地で救援活動を指揮しました。

そして、この年の8月、李は名古屋で終戦を迎えます。階級は少尉でした。
ちなみに、李登輝の兄・李登欽(日本名:岩里武則)は終戦を迎える半年前にフィリピンのマニラで戦死しています。

弟と同じく優秀だった李登欽は台湾の海軍特別志願兵に1期生として合格し、1944年(昭和19年)7月にフィリピンに出征しました。
1945年(昭和20年)2月のマニラの戦いでアメリカ空軍の攻撃を受け、李登欽は軍艦とともに海に沈みました。24歳でした。
李登欽は海軍特別志願兵に合格した際、新聞の取材にこう答えていました。
「出来る事なら第一線でお国のために華々しく活躍したいと思っておりましたがそれが本当になりました」
「自分としてこんな感激に浸った日は今日までありません。これからは立派な帝国海兵としてお役に立つ日の一日も早く来ることを願うばかりです」
【二・二八事件】
日本の敗戦により、台湾出身者は日本国籍を喪失し、李登輝も台湾へ戻ることを決意します。

日本軍が台湾から撤退した後の1946年(昭和21年)、李は台湾に帰国しました。
この時、中華民国が既に台湾の接収を始めており、台湾の行政権は蔣介石率いる中国国民党が握っていました。
日本の台湾統治は1895年(明治28年)から1945年(昭和20年)までの50年間続き、その間、台湾の教育水準や経済は飛躍的に発展しました。

一方、日本の撤退後に中国大陸から国民党がやってくると、台湾各地で略奪や暴行が発生しました。

当時の台湾では、こう言われたとされます。
「犬(日本)が去って豚(中国国民党)が来た」
ちなみに、戦前から台湾に暮らす人々を「本省人」、戦後に中国大陸から台湾へやってきた人々を「外省人」といいます。
そんな中、ある事件が起こります。
1947年(昭和22年)2月、台北でタバコを販売していた女性が官憲に摘発されました。
当時の台湾では、日本統治時代の専売制度が引き継がれ、酒やタバコなどは政府が専売していました。

摘発された女性は土下座して許しを請いますが、官憲は女性を暴行して所持金を全て奪いました。
こうして周囲に人だかりができると、官憲は民衆に向かって威嚇発砲し、不運なことに男性が1人亡くなりました。
この事件をきっかけとして、本省人が終戦後にずっと抑えていた怒りがついに爆発し、抗議のデモが発生します。

当時の台湾では、日本の統治によって国歌「君が代」をほぼ全ての人が歌えたため、立ち上がった民衆は「君が代」を歌えない者を外省人として排除していきました。
また、ラジオ局を占拠し、日本語で「台湾人よ、立ち上がれ」と呼びかけました。
抗議行動は台湾全土へ広がりますが、国民党政権は中国大陸から軍を派遣し、武力弾圧を行います。

多数の一般市民が命を失い、裁判官や役人など日本統治時代に高等教育を受けたエリート層は次々と逮捕・投獄され、殺害されました。
この事件は「二・二八事件」と呼ばれ、犠牲者数は1万8000人~2万8000人にのぼるとされています(1992年、中華民国行政院による推計)。

こうして、1949年(昭和24年)5月から台湾全土に戒厳令が敷かれ、大陸からやってきた国民党によって「白色テロ」と呼ばれる政治弾圧が続きました。

【国民党入党】
日本の敗戦後に台湾へ戻った李登輝は台湾大学農学部に編入学します。

しかし、台湾へ戻った翌年には二・二八事件が発生し、エリート教育を受けた本省人の李は粛清対象となる可能性があったため、知人に匿われました。
国民党政権による白色テロの時代の中、李は台湾大学農学部を卒業し、1951年(昭和26年)にアメリカへ留学します。
1953年(昭和28年)にアイオワ州立大学で農業経済学修士号を取得し、翌54年には台湾の農政当局で働き始めました。
その後、1965年(昭和40年)に再度アメリカへ留学した李は、1968年(昭和43年)にコーネル大学から博士号を授与されます。

その際に書き上げた論文「台湾における農業と工業間の資本移動」は全米農業経済学会で最優秀論文に選出され、李登輝の名は一躍脚光を浴びるようになりました。
しかし、台湾へ戻った李に危機が訪れます。
1969年(昭和44年)9月、李は突如憲兵に連行され、長時間にわたる取り調べを受けました。
勤務先や交友関係、留学時代のことまで細かく調べられますが、最終的に無罪放免となります。
そして、1971年(昭和46年)、李は国民党に入党し、政治の道へ進み始めます。
台湾生まれの本省人である李が、政治弾圧を行う国民党へ入党したことに、周囲の人間は驚きました。

しかし、李は国民党を内側から変える覚悟で入党していました。
【「2つの中国」】
国民党入党からわずか1年後の1972年(昭和47年)、李は無任所大臣に相当する農政担当の政務委員として入閣します。

この時の行政院長(首相に相当)は蔣介石の長男・蔣経国が務めていました。

蔣経国は優秀な人材であれば本省人でも抜擢しようと考えており、そこで農業経済学の専門家として李に白羽の矢が立ちました。
「中華民国」と称する台湾はこの頃、対外的な危機に直面していました。
戦後、中国大陸では中国国民党と中国共産党による内戦が勃発していました(第二次国共内戦)。

劣勢となった国民党が台湾へ逃れた結果、1949年(昭和24年)に大陸で中華人民共和国が成立し、中華民国は首都機能を台湾へ移転しました。

こうして、大陸にある中華人民共和国、台湾にある中華民国という「2つの中国」が存在することとなります。
この時、中華民国(台湾)は第二次世界大戦の戦勝国として国連の安全保障理事会常任理事国の地位を得ていましたが、1971年(昭和46年)のアルバニア決議案により、「中国の代表権」が中華民国から中華人民共和国へ取って代わられました。
日本やアメリカは台湾が国連に残留するように画策しますが、「中国の代表権」を奪われた台湾は激怒し、蔣介石政権は国連から脱退する道を選びます。
また、1972年(昭和47年)2月にはアメリカのニクソン大統領が中国を訪問し、冷戦状態だった米中が急接近しました。

同年9月には日本の田中角栄首相が中国を訪問し、日中共同声明に調印して日本と中国が国交を正常化させました。

日本政府が「中華人民共和国が中国の唯一の合法政府であることを承認」したため、これに反発した台湾は日本との断交を宣言しました。
李が入閣したのは、そうした激動の時期でした。

こうして、戦後の台湾で最年少となる49歳で入閣した李は、以後6年間、農政担当の政務委員として精力的に活動していきます。
【中華民国総統】
1975年(昭和50年)4月、長らく中華民国総統を務めていた蔣介石が87歳で亡くなると、憲法規定により副総統の厳家淦が総統に昇格します。

厳は蔣介石に残された3年あまりの任期を務めて退任し、蔣介石の長男・蔣経国が第3代総統に就任しました。

総統となった蔣経国は首都・台北の市長に李登輝を任命します。

蔣経国のもとで薫陶を受けた李は政治家として手腕を発揮し、1984年(昭和59年)には副総統に就任しました。

蔣経国はメディアの部分的自由化や1949年から続いていた戒厳令の解除などを行い、台湾の民主化、自由化へ舵を切ります。
そして、1988年(昭和63年)1月に蔣経国が77歳で病死すると、副総統の李が総統に昇格しました。

こうして、本省人で初の中華民国総統が誕生しました。
この頃の台湾では民主化運動が活発化しており、1990年(平成2年)3月には中正紀念堂で「三月学生運動(野百合学生運動)」が発生しました。

李は学生らに理解を示し、学生代表に総統府に来て対話するよう求めました。
こうして学生代表53人が総統府を訪れ、デモ隊は静かに解散しました。
ちなみに、その前年の1989年(平成元年)6月には、大陸の中華人民共和国で学生らが民主化を求めてデモを行い、武力で弾圧される「天安門事件」が起きています。

この事件によって多数の学生が命を失い、主要なデモ参加者だった王丹、ウーアルカイシ、劉剛らは国外へ亡命しました。

学生デモに対する「2つの中国」の対応は真逆でした。
【「台湾民主化の父」】
李登輝は総統に就任したとはいえ、政府には本省人の李登輝をよく思わない長老や守旧派らが跋扈していました。
「李登輝おろし」の動きも起きるなど、李は薄氷を踏む思いで政権運営をしていきます。
徐々に政権基盤を確立していった李は1990年(平成2年)5月に政治犯の特赦や公民権回復を実行し、92年(平成4年)には「陰謀犯」による内乱罪を規定していた刑法100条を修正させました。

こうして民主化を進めていった李は総統の直接選挙導入を主導し、同時に「1期4年・連続2期」という任期制限を設けて独裁政権の発生を防止しました。
1996年(平成8年)3月、ついに台湾で初の総統直接選挙が実施されました。
しかし、台湾を自国の一部と主張する中国は猛反発し、軍事演習を実施して台湾の南方海域にミサイルを発射しました。

これに対して、アメリカ軍が2隻の空母を台湾海峡に派遣し、中国の威嚇を牽制しました。
総統選では中国の恫喝に屈しなかった李登輝が54%の得票を獲得し、台湾史上初の民選総統となりました。

李は「三民主義万歳、中華民国万歳、台湾人民万歳」と述べ、大歓声を浴びました。
こうして、李の尽力により、台湾は完全に民主化を果たしました。
【李登輝と日本】
台湾初の民選総統となった李は4年の任期を終えた2000年(平成12年)、後継者として副総統の連戦を推薦します。

憲法の規定では李の再出馬も可能でしたが、李は後進に道を譲る決断をしました。
しかし、選挙では野党・民主進歩党(民進党)の陳水扁に敗れ、陳が第5代総統に就任しました。

こうして、台湾では民主的に政権交代が行われました。
李は選挙敗北の責任を取って国民党主席を辞任し、これ以降、「台湾独立」の立場を鮮明にしていくこととなります。

2000年に総統を退任した李は、何度も日本を訪問し、数々の場所を巡りました。
中国は李が訪日する度に不快感を表明し、日本へ圧力をかけました。
また、李は2007年(平成19年)の訪日で靖国神社を参拝しました。
李登輝の兄・李登欽はマニラで戦死し、靖国神社に祀られています。李は兄の慰霊も込めて靖国神社を参拝しました。

これに対して、中国外務省の報道官は「日本が李の訪日を許したことに強い不満を表明する」と述べ、日本を批判しました。

この時、日本の首相は安倍晋三でした。

安倍は後に、産経新聞のインタビューでこう証言しています。
「(訪日中の)李登輝さんの行動に制限をかけようという動きがあったが、そうすべきではないと(指示した)」
中国国営新華社通信は李に対して「日本軍国主義思想に染まった民族のくず」と罵る記事を配信しました。
これに対して、李は外国特派員協会で会見し、このように述べました。

「国のために亡くなった若い人を祀るのは当たり前だ。外国政府に批判される理由はない」
「靖国をめぐる批判は中国大陸やコリア(韓国と北朝鮮)が自国内の問題を処理できないがゆえに(対日批判で)作り上げたおとぎ話」
安倍が1年で首相を退任し、その後自民党が野党へ転落していた2010年(平成22年)、安倍は台湾にある李登輝の自宅を訪ねました。
この時、李は安倍にこう伝えました。
「もう一度、首相になりなさい。いま、あなたのほかにリーダーはいない」
この2年後、安倍は選挙に大勝し、吉田茂以来戦後2人目となる首相再登板を果たし、憲政史上最長の政権を樹立します。
自ら「22歳までは日本人だった」と発言し、日本、そして台湾の将来を憂えた李登輝は2020年(令和2年)7月、静かに息を引き取りました。享年97。
李登輝の死から1年後、安倍は産経新聞のインタビューにこう述べています。

「世界の中でこれほど日本のことを思ってくれたリーダーは(李氏以外に)存在しなかった。諸般の状況が許せばお墓参りをしたい」
しかし、このインタビューから1年後、安倍の台湾訪問が現実味を帯びていた矢先、安倍は街頭演説中に背後から銃撃され、帰らぬ人となりました。

安倍晋三は李登輝を師と仰ぎ、一方の李登輝は安倍晋三のリーダーシップに期待し、両者は固い絆で結ばれていました。

2人の再会は天国で果たされることとなりました。
李登輝は亡くなる5年前、このように述べています。
「70年前まで日本と台湾は『同じ国』だった」
「当時われわれ兄弟は、紛れもなく『日本人』として、祖国のために戦った」

以上、数々の苦難を乗り越え本省人初の台湾(中華民国)総統に就任し、台湾の民主化・近代化に大きく貢献した「台湾民主化の父」、李登輝の生涯を解説しました。
YouTubeにも動画を投稿したのでぜひご覧ください🙇
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【参考文献】
『李登輝秘録』河崎眞澄, 産経新聞出版,2020年
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