マンカンの女 第41話 設計予算の内訳は見せられない

午後七時、集会室の蛍光灯が白く光っていた。
長机の上には、配布された資料とペットボトルの水。
空調の微かな唸りだけが響く中、理事長の斉藤が静かに言った。
「それでは、ARKさん。説明をお願いします」
前に立つのは、ARKの設計主任・森川。
グレーのスーツに黒縁の眼鏡、四十代半ば。無駄のない所作と落ち着いた口調で、まるで舞台の台詞を読むように話し始めた。
「建物の劣化診断の結果を踏まえた上で、大規模修繕工事の設計予算を算出しました。総額はおよそ二億円になります」
一瞬、会議室の空気が固まった。
森川はスライドを指しながら淡々と続ける。
「人手不足と円安の影響で、材料費・人件費ともに上昇しています。特に外壁タイルと防水シートは昨年比で二割近い値上げです。したがって、これ以上の圧縮は現実的ではありません」
理事たちは黙って資料をめくる。
宮本は、資料の数字をじっと見つめた。
築年数が古く、補修箇所が多いことは理解している。それでも――108戸のマンションで二億円は高すぎる。
「森川さん、この工事費の内訳書を見せていただけますか」
そう口にした瞬間、場の空気がわずかに緊張した。
森川は軽く笑みを浮かべ、ゆっくりと答えた。
「申し訳ありません。施工会社の選定が終わるまで内訳書は社外に出せません。金額が他に漏れると問題になりますので」
「でも、それを見ないと金額が妥当かどうか判断できません」
「そのお気持ちは理解します。ただ、社内規定で……」
言葉を濁した森川の視線が、一瞬だけ田中の方をかすめた。
その微妙なやり取りを、宮本は見逃さなかった。
「まあまあ、今どこも工事費は上がっていますし、仕方ないですよ」
修繕委員の西田が、場を和ませるように笑った。
「そうそう。職人さんの数も減ってますし、これくらい普通ですよ」と佐々木が続く。
林も黙ってうなずき、三人が自然とARK側を支持する形になった。

宮本は静かに言った。
「だからこそ、内容を確認する必要があるんです。値上がりしているなら、その根拠を見せてもらうべきです」
その声に、田中が穏やかに割って入った。
「では、まず修繕委員の皆さんに設計予算を確認してもらうのはいかがでしょうか。西田さんも佐々木さんも、工事関係のお仕事をされていますし」
そう言って理事長の斉藤に目を向けた。
「そうですね。せっかく委員になっていただいたのですし、初仕事としてお願いしましょうか」
斉藤がうなずくと、会議はその流れでまとまってしまった。
宮本は沈黙のまま資料を閉じた。
理事長の決定に逆らうつもりはない。だが、胸の奥に何かが引っかかる。
(なぜ森川は内訳を隠す? なぜ修繕委員の三人は、あんなにすぐ賛同する?)
会議が終わったあと、森川はノートパソコンを片付けながら、田中に軽く会釈をした。
二人の間に交わされた、ほんの短い目配せ――それが妙に意味ありげに見えた。
宮本は一人、残された会議室に立ち尽くした。
スクリーンに映った「工事費:2億円」の文字が、消灯の光でぼやけていく。
静かな違和感が、彼の中で確かな警鐘に変わりつつあった。
