昭和32年の戸田甚一、酒に暇なし          

 はじめに

 「一杯は人酒を飲む、二杯は酒酒を飲む、三杯は酒人を飲む」
 
千利休の言葉ともことわざともいわれる。酒も過ぎれば、飲んでいるつもりが、いつのまにか酒に飲まれてしまう。酒はほどほどにしておけと飲み過ぎを戒めた言葉で、筆者も含め、身につまされる人も多いのではないか。

 また、仏教には五戒(ごかい)と呼ばれる、五つの戒がある。
不殺生戒(ふせっしょうかい)、殺してはならない。
不偸盗戒(ふちゅうとうかい)、盗んではならない。
不邪婬戒(ふじゃいんかい)、邪淫にふけってはならない。
不妄語戒(ふもうごかい)、嘘をついてはならない。
不飲酒戒(ふおんじゅかい)、酒を飲んではならない、の五つ。

 創価学会も創価学会仏と仏を名乗るくらいなら、五戒に基づき、今一度自らの振舞いを正してはいかがか。末法無戒とはいえ、悪行、特にが許されるわけがない。戸田の酒に関する挿話を消し、歴史を書き換えるなら、せめて幹部や議員の贅沢や不倫を悔い改めても罰は当たらないと思うが。

不飲酒戒「酒を飲んではならない」・・・

 にもかかわらず、創価学会には酒好きが多い。二代会長戸田城聖にしてからが無類の酒豪で、お酒にまつわるエピソードに事欠かない。ウィスキーを飲みながら、あるいはやかんに酒を入れ、ぐびぐびと飲みながら酔っぱらっての御書講義。酒好きのエピソードは宗祖日蓮にまでさかのぼる。「ただ女房と酒うちのみて南無妙法蓮華経と・となへ給へ、苦をば苦とさとり楽をば楽とひらき苦楽ともに思い合せて南無妙法蓮華経とうちとなへゐさせ給へ、これあに自受法楽にあらずや、」四条金吾殿御返事(御書旧版1143頁)

戸田城聖、本名甚一(1900-1958)享年58歳、死因は肝硬変による心臓衰弱。糖尿病や糖尿病性網膜症も患っていたようだ。戸田の酒にまつわるエピソードは枚挙に、いや、酒に暇なしというべきか。
 ただ、根っからの呑兵衛ではなかったようで、西野辰吉『戸田城聖伝』によれば、むしろ若いころはあまり酒を飲めなかったというから驚く。

北海道にいたころ酒が飲めなかったのが、それから十年ほどたった昭和初年代には、酒豪に変っていた。
 のちにかれは酒のことで、こういう話をしている。最初の妻と子どもが結核で死んだとき、医者にかれも結核に感染しているといわれたのだった。そのころ結核は医療でほとんど治癒できない病気だった。戸田は睡眠をじゅうぶんとり、体力でそれに抵抗することをかんがえて、眠るために飲酒をはじめ、酒につよくなっていったのだという。
(西野辰吉『戸田城聖伝』第三文明社レグルス文庫104頁)

要するに寝酒がきっかけだった。ただ、以下に続く記述には同意できない。

医学的にいうと病気との乱暴な対抗だろうが、その後のかれの生の軌跡をみると、その特異な対抗というのは成功したようなのだ。(同書104頁)

戸田城聖の58歳での早逝は、アルコールの影響を抜きにしては考えられず、酒で病気に対抗したのが成功とは決していえないと思うからだ。戸田の師である牧口常三郎も、「戸田君は酒ばかり呑んで駄目なんだ」(福田久道の手記)と嘆き、戸田が中心の生活革新同盟倶楽部を「悪漢倶楽部」と名付け、昭和18年の創価教育学会の幹部一斉検挙では、

神田錦町の学会の本部(筆者注 昭和15年頃からの創価教育学会の本部は神田錦町の戸田が営む会社の中にあった)を家宅捜索したところ、この本部は三つの会社の一隅に同居していたのだが、そこには酒のあきびんなどが山のように積んであったり、理事長遠田丈男(筆者注 戸田城聖のこと)の家宅からも、今頃そうたやすく手に入りそうもない高価なウィスキーがたくさんに蔵されていたり、(以下略 野島辰次遺稿集『我が心の遍歴』76頁)

とあるように、戦前から既に大量飲酒の痕跡が窺えるし、今まで語られてこなかった戸田の醜聞を詳らかにした一面と言えると思う。酒好きとは知っていても、この記述は酒にだらしない、酒には金に糸目をつけない戸田の悪癖を描き出している。

『日蓮の弟子たち』島村喬著(波書房 昭和45年12月25日初版発行)という書籍においても、昭和16~17年頃のこととして新潟から北鮮(現在の北朝鮮にあたる地域)行きの船で「さ、どうぞ。こんな夜は酒でものみながら面白い話でもするに限る」と、戸田が近藤という軍人を誘って戦争の愚かさを説く場面が描かれており(同書232-235頁)、著者は戦時中でも持論を述べる戸田の言行を美談のように書いているのだが、数々の戸田の酒での悪癖を知るにつけ、筆者にはただ、酔って軍人にすらからんでいるだけではないかと思える。

また、のちに理事長を務めた小泉隆の証言もある。新心理学講座第四巻 宗教と信仰の心理学 第二章Ⅳ D(男)Dとは、戦前からの会員、教員で酒飲み、友人の教員(原島宏冶)の成長に驚き、このような友人の成長をみて行く(筆者注 一緒にやるという意味だろう)気になったとの記述内容から小泉隆で間違いないはずだ。

前会長(筆者注 牧口常三郎のこと)はひじょうに几帳面な人で真面目いっぽうで酒もタバコものまないし、なんでも理づめで、ひまさえあれば書いている人でした。今の会長さんは正反対で行儀も悪いし、酒タバコなんでもこいの人です。書くよりも話す人です。牧口先生は何か仕事をしたことがあるようですが、ぜんぜん失敗しているし、この点でも戸田さんとは反対です。むかし学会の指導をやっていたのは何から何まで牧口先生でしたし、座談会をやっても三年間で、戸田さんが出席したのは三回だけで、座談会のはじまるころになるとタクシーでスーッといなくなったものです。(以下略)同書55頁 河出書房 昭和31年7月15日第1刷発行

「タクシーでスーッといなくな」るとは、これも野島が記していた「待合びたり」か、創価教育学会内の経済人の集まりである生活革新同盟倶楽部、牧口の名付けた「悪漢倶楽部」の夜毎の酒盛りをいうのだと思う。

戦後の創価学会の再建においても酒を手放さず

 「戸田先生を囲む座談会の場所はいつも本部二階で、十人前後の弟子が膝を正し、その中央に戸田先生がいる。専用のヤカンとコップが師の手の届くところに置いてある。話の途中、戸田先生は何度もコップへ手を伸ばし、透明な液体を口に含んでグイッとやる。水かと思っていたら、小さなヤカンの中身は酒であった。
 夏などはステテコにシャツ姿、本部二階の畳の上で大あぐらだ。朝起きて飲み、昼もまた一杯やり、夜は夜で寝酒を欠かさない。
 『酒が好きで弱ったよ』
 この口癖が私の耳の奥にいまも残っている。」
(藤原行正『池田大作の素顔』講談社 1989年4月10日第1刷発行 21頁)

 昭和28年8月には戸田が弟子達を連れて故郷を訪問した際、札幌ではかつて自らが勤めていた小間物屋、小六商店を訪問するのだが、その際、昼間だというのに赤い顔で酒に酔っていたと小六商店(現・株式会社小六)の会長小六茂夫は言う。佐野眞一「化城の人」(週刊ポスト2012年3月9日号)。小六茂夫は「実は私、一度だけ戸田さんを見かけたことがあるんです。あれは昭和28年だったと思います。うちの店に戸田さんが、ひょっこり姿を現したんですよ。五人くらいのお連れさんがいました。戸田さんは立派な身なりをしていましたね。」「最初は誰だかわかりませんでしたが、母が戸田さんのことを覚えていました。何の予告もなしに店に来た戸田さんは、お連れの人に『ここはなあ、オレが昔はたらいていた店なんだ』と何やら自慢げに話していました。昼間だというのに酔っぱらっていましたね。顔が真っ赤でした。(以下略)」と言い、それを佐野は昭和29年のことと思われると小六茂夫の記憶違いだとするのだが、『年譜牧口常三郎・戸田城聖』によると、戸田は昭和28年の夏も北海道、札幌を訪れており(287-288頁)、この時の訪問は池田を伴っていなかった。昭和29年の夏に池田を伴って北海道、札幌、厚田村を歴訪したことがあるとの先入観で小六茂夫が昭和28年と言っても29年と思われると検証抜きで速断し、前年にも訪問していた事実に目がいかなかったのかと思う。池田の「若き日の日記」にも昭和29年、厚田村を訪れた記録はあっても、小六商店に寄ったとの記述はない。

 そして、昼間から赤い顔で小六商店に顔を出した半年後、昭和29年2月に戸田は倒れてしまう。
 にもかかわらず、昼日中から酒を飲む生活はその後も続いた。
 以下は、週刊朝日の取材における戸田本人の弁と、NHKのドキュメンタリー番組「日本の素顔」の初回放送「新興宗教をみる」のために戸田を取材した映像プロデューサー、吉田直哉の自著での貴重な証言である。

週刊朝日昭和31年7月29日号『戸田城聖という男』

「酒は一晩も欠かさぬ」
問 
(会長は飲酒家でもあるらしく酒ヤケしている)酒のほうは?
戸田 二十九の年から四十四で牢屋に入るまで一晩もかかさず、出獄後今日まで一晩もかかさない。前は料理屋と待合で飲んだが、今は本部と自宅で飲む。量は今ではウイスキーのオールドびん一本が三日間。会長がこの通り自由にしているので、特別に戒律というものがない。会員の恋愛も自由、自然発生的にしている。好き合った若いもの同士は、できるだけ応援してそえとげさせてやりたい。(こんなザックバランなところが、一つの魅力になっているのかもしれない)
(以下略「会長は飲酒家でもあるらしく」とは、酒の質問の前に戸田がタバコをしきりに吸っていたから。愛煙家で飲酒家でもあるとのことだろう。
週刊朝日昭和31年7月29日号12-16頁『戸田城聖という男』の特集記事より戸田会長との一問一答から酒に関する質問部分を引用した。’25.4.8追加)

昭和32年、夏頃の戸田城聖 酒浸りの日々

岩波新書「映像とはなんだろうか」吉田直哉              一 獅子吼する教祖 ―撮るべきものが撮れるか―           「グイッとあけな」                         幕あきは教祖であった。飛ぶ鳥も落とさんばかりに教勢を拡大している新宗教の会長が、森羅万象を映像化しようと志した私の、最初の対象だったのである。そして、想像もしなかったことばかりが起きた。
「グイッとあけな。グイッと」
「・・・・・・いえ、これから撮影・・・・・・。仕事中ですから」
「なにィ? それを言うなら、こっちだって仕事中だぞ」
黒ぶちの眼鏡の奥からにらまれ、これはからまれる、と確信したがコップを手にするのも勇気が要った。尋常ならぬ量のウィスキーなのだ。     こんなに荒っぽい飲みかたは見たことがない。角ビンのウィスキーを大ぶりのコップのふちまでドクドク注いで、申し訳のようにほんの少しのビールを垂らして割って、机の上に溢れさせるのだ。その濡れた机の上を、波を立てるようにさらにコップを押してよこして、飲め! とこんどは大声の命令である。縁側の籐椅子にただひとり坐って、親の仇のように矢つぎばやに酒をあおっているのは、創価学会第二代会長となって六年目の戸田城聖氏。   初代会長に牧口常三郎氏を立てて設立した創価教育学会を、終戦直後一九四五年に再建して創価学会と改め理事長となり、熱烈な折伏と法華経の講義で多くの信者を獲得。五一年に第二代会長に就任すると、さらに飛躍的に勢いを伸ばした実質的な教祖、早くも伝説的な存在となりつつある人である。 こちらはその年、一九五七年の十一月から放送を始めるテレビドキュメンタリーのシリーズ「日本の素顔」の第一集のテーマを『新興宗教をみる』にきめ、さまざまな教団のさまざまな説法を記録することにしたその撮影の初日で、富士大石寺の日蓮正宗総本山を訪れたところであった。この夜、大講堂で行なわれる会長の法華経講義を、打ち合わせどおり所定の位置から撮影するからよろしく、という挨拶のため本部の建物へ行ったのだが、まさか戸田会長の前に連れて行かれるとは予想もしなかった。ましていっしょに酒をのむ破目になろうなど、思ってもみなかったのである。ひとくち飲んで不覚にもむせると、「グイッとあけな」と眼がすわっている。ビールをあおりながらウィスキーをストレートでのむのを、アメリカでボイラーメーカーと呼ぶ、というのはのちに得た知識だが、ビールとウィスキーの量がこの場合逆転しているのだ。いかに教祖でどんな酒豪でも、酔わないわけがない。  仕事中だといいながら、どうしてこんなに暴飲するのか。―この人の、この姿をこそ撮らなければならない、と突然考えついた。これを撮っておかないと、このあとの講義でその結果があらわれたとき、説明がつかないだろう。さっきの、こっちだって仕事中なんだという言葉は、収録しておくべき大事な言葉だったのだ。しかし、カメラも他のスタッフもすでに大講堂で、戸田氏の到着を待っているところである。いまさら呼んできて、このシーンを撮るわけにはいかない。—そもそも、この姿を撮ることにOKが出るか?   こうして、私の〈映像化〉の歴史は、大いなる煩悶からはじまったのであった。演者が大酔していることを、私は知っている。しかし、証拠の映像なしにその事実を伝えることができるだろうか?              運び出される病人たち                        そうこうするうちに屈強な若い人が呼びにきて、戸田氏は立ちあがった。ネクタイは右の肩の上にはね上がり、ズボンは下がってシャツの裾が半分以上出て、みるからに酔漢の姿である。何によらず、この姿を克明に捉えることが肝要だと、先まわりするため私は講堂へ走った。一歩入ると、驚いたことにさっき見た状況と全くちがって、もう立錐の余地もないのである。板ばりの床の上に腰をおろした何千の老若男女の信者をかきわけ、講堂の中央に三脚を据えたカメラのそばまでたどり着くのに、大変な時間がかかった。
 気になったのは、ひっきりなしに病人が運び出されていることであった。担架もあったが足りないらしく、戸板が使われていた。その上に乗せられ、身をよじったり痙攣したりしている人を、青年たちが運び出すのと次つぎにすれちがった。もともと病人なのか、薄暗い会場の異様な熱気で気分がわるくなるのか、舞踏病のような症状の人が続出しているのである。
病人が運び出されたあとのスペースはたちまち埋まる。というより、あまりのすし詰めに耐えられなくなって、弱者がはじき出されているようにもみえる。病人が手早く運び出されるこの様子を撮影していいか、と私たちの世話係の青年にきくと答えは断固たる「ノー」。許可されているのは会長の法華経講義だけのはず、それ以外はいっさい認められない、との宣告であった。いま考えるとじつに情けない話だが、決定的に想像力が不足していたのだ。  カメラがあって、撮影の許可さえとってあれば、現場で何でも自由に選びとれるような気がしていた。どんな現場だろうか、と想像してみることもしなかったのである。その証拠に、持ってきた照明器具はニュース取材用のバッテリーライトだけであった。硫酸液でずっしりと重い肩掛け式の鉛蓄電池に傘のついた写真電球をつないだだけのもの。全体がかなり明るい場所での、あくまでも補助用のあかりである。こんなに暗い会場だとは思わなかった。これで演台まで光が届くのか?ためしにスイッチを入れてみると、会場の雰囲気が一変した。静まり返って、すべての視線がこっちに集まり、反感がむき出しである。招かれざる客、よそもの、闖入者―。押しよせる殺気よりもっと慄然としたのは、目立つわりには光量が全く小さいという事実だった。せいぜい三メートルぐらいしか届かない。
もっと演台ちかくにカメラを据えさせてくれ、いや絶対駄目だ、と押し問答をして何の対策も立てられないでいるうち、左手から戸田会長が登場してしまった。                             「おろかものが!」
酔歩蹣跚、という言葉を絵にしたようなよろめきかたである。いそいでバッテリーライトをつけたが、もちろん光は届かない。大あわてでバッテリーをかつぎ、床を埋めつくして正座している人びとをかきわけながら前へ進んだ。カメラは駄目でも、あかりだけが近づくぶんには不都合はあるまい。 当然の報いとしてさんざん小突かれたが、それでも何とか会長に近づいてスイッチを入れた。危なっかしくよろめく姿が照らし出されたが、とたんに右腕をあげて顔を蔽い、パンチから身を守るような仕草をなさる。服が乱れ、眼鏡がいまにもずり落ちそうなのが、まるで突然の光の一撃が元凶だったかのようだ。と同時に、会場のいたるところから怒号がとんだ。不覚にも、思わずひるんでスイッチを切ってしまった。こうなると、もう近くからは照らしにくい。やむを得ず、かなりうしろへ下がったがそこからでも同じことで、あかりをつけると再び、防禦の姿勢、怒号である。結局、演壇に立ち、話がはじまるまでは点灯を遠慮せざるを得なくなった。そして、演台にたどり着いて両手を突くなり、いきなり「説法」ははじまったのである。
「おろかものが!」
開口一番の獅子吼が、この言葉であった。戸田城聖会長の法華経講義を前にもきいたことがあれば、そんなには驚かなかっただろうというのはあとでわかったことで、はじめてのわれわれは、あかりをつけ撮影をはじめたからこの罵声が発せられた、と思いこんだのである。しかも、戸田会長はそれきり口をつぐんで虚空をにらみ、一言も発しない。
気まずい沈黙の時間が流れてゆく。きこえるのは、いやにかん高いカメラの回転音だけ。このカメラはゼンマイが動力で、十五秒ごとにネジを巻かなければならないのである。身動きもせず何も語らない人を写して、十五秒が過ぎた。カメラが停止したから、あかりを消す。とたんに、
「このオレが、病気もなおらん信心をすすめると思うとるのか!」
大音声である。病人が続々と戸板で運ばれた。その姿を見て、功徳を疑う心が胸をよぎったのではないか? おろかものが! という論旨であった。
 (以下略「映像とは何だろうか」吉田直哉 2-9頁 岩波新書 2003年6月20日 第1刷発行)

 次に、秋山ちえ子『お勝手口からごめんなさい』春陽堂書店 昭和32年発行 180-192頁『戸田城聖氏大奮戦』より引用する。
 著者の秋山女史が戸田会長の自宅を訪問し、インタビューを行う。創価学会の会長宅にしては質素なつくりだとか、月々の生活費はいくらぐらいか等の女性目線の質問を奥さんにしたあと戸田がおもむろにインタビュー途中だけれど失礼してと酒を飲みだし、やがて酔いが回って著者にからみだす。申し訳ないけれど「からみだす」以外の表現が筆者には思い浮かばない。

会長 「ときにちょっと、ビールを飲んでいいでしょうか?ビールをね。」
—どうぞ御自由に。それは奥様の会計ではないんでしょうね。―
会長 「もちろん別途ですよ。酒が好きでいけませんよ。では失礼。」
 うれしそうな顔をして、夫人に用意を命じる。コップの中にウィスキーを五分の一ほど入れ、それにビールを〝トック トック トック〟とついでぐっと一杯。もうこの頃は椅子の上にあぐらをかいていい御機嫌。カメラを向けると、
会長 「朝からこんなとこ撮られると、わしはいいが、会のものが怒るからやめてくれよ。それよりか、奥さんと並んで撮ってもらおう。(略)
 世間話や家庭の話をしているときは、三度と六度という分厚い眼鏡の奥の小さい目は、トロリとおだやかだが、一度、宗教のことになると、少し勝手はちがってくる。(略)

として、新興宗教のお金集めを批判、炭労批判と意気が上がり、

もうこの頃には、会長の全身にアルコールがまわったらしく、ますます意気軒昂。「わたしはあんたの言ったことで、一つ気にいらんことがある。」と、はげしい語気で会長がのり出す。
会長 「いいですか。新興宗教、新興宗教というが、創価学会は、日蓮正宗の中の一つの集まりなんですよ。これは七百年の歴史をもっている。それを新興宗教というのがケシカらん。」
夫人 「本当にそうなんです。わたくしも新興宗教と聞くのもいやで・・・。」
 なるほど至極もっともだが、世間では新興宗教という方が通用するのでカンベンを願いたい。いやなことをいうついでにと、口を切る。
—創価学会の、信者を獲得するときのしつこさや、この前の選挙のときのあくどさを、世間ではヒナンしていますが、この点はどうお考えですか。―
 この問いに対しては、今までにない冷やかな目の光りと、人を圧するような大声がひびく。
会長 「選挙の買収なんてウソだ。他の者がしたことを、みんな創価学会のせいにしている。信者のことは、いいことをすすめるのが何が悪い。
 あんたも信者になりなさい。この宗教に入りなさい。あんたは信者になれる。確信を持つと、人間は幸せになれる。」
と、指をキッとつき出してニラみつける。暗示にかけられそうな気もする。
―いや、それがどうも・・・・・・わたくしは何でもうたがい深くて。別に他人の宗教は否定しませんが、自分がよければそれだけでいいと思うだけで、人にまで強制というのはいけないと思うんですがね。―
(これには一言も返事なし。もう一度、するどい声があたりの空気をゆすぶる。)
会長 「あんた、入りなさい。信者になりなさい。」
(以下略)秋山ちえ子『お勝手口からごめんなさい』春陽堂書店 昭和32年発行 180-192頁『戸田城聖氏大奮戦』

 秋山『お勝手口からごめんなさい』は昭和32年刊行。内容から大阪の参院補選後に行われたインタビューと思われる。吉田『映像とはなんだろうか』も昭和32年の夏か初秋頃。共通するのは酒の飲み方。ウィスキーを並々と注ぐか、五分の一かは朝か昼かという時間帯の違いだけか。とにかく毎日こうして一日中酒を飲んでいたのではないか。様々な文献に描かれる当時の戸田の姿から筆者には58歳での逝去は獄中体験故の衰弱死というのが疑わしく、酒の飲み過ぎによる早逝としか思えなくなっている。

日隈威徳の戸田への皮肉

 このころ、戸田は、すでに病んでいたが、二十九歳のときから入獄中をのぞいて一晩も欠かしたことがないという好物の酒は、日中でも手放すことはできなくなっていた。酔っぱらって講演することもめずらしくなかった。
 「ぼくは今度病気をした。ちょうど二週間やられた。皆が、やれ病院へ行けとか、やれ名医にかかれとか、うるさくてしようがない。だが私には確信がある。絶対死なないという確信がある。死んでたまるものか。そこが確信の問題だ。」と六月の男子青年部幹部会で語っていた体も、秋から次第に衰弱の度を加えてきた。
日隈威徳『戸田城聖ー創価学会ー復刻版』2018年6月26日 242-243頁
(筆者注 戸田の発言部分は戸田城聖『講演集下』昭和36年10月12日初版発行 321頁「確信をもって生きよ」昭和32年6月12日男子青年部幹部会から引きなおした。「僕」を「ぼく」としたくらいだが、それでも。)

 日隈が「このころ」というのは夕張事件をうけてのもので、昭和32年の夏頃を指すのだと思うが、上述した通り、昭和32年頃の戸田への取材時でも平気で飲酒していた様子を描いた吉田直哉や秋山ちえ子の記述からも日中や朝から酒を手放すことなく飲んでいた様子が窺え、日隈の記述も事実といえそうである。戸田の病状に、亡くなる10ヶ月ほど前の戸田の死なないとの確信の言葉を続けた日隈威徳に筆者は底意地の悪さを見るが、ある意味筆者はそれ以上に意地が悪いのだろうし、日隈が事実をたがえた記述をしているわけでもない。『評伝戸田城聖下巻』は、この頃の戸田の体調について、秘書であった山浦千鶴子に聞き取りを行い、次のように語っているのを記している。

「一九五七年の夏頃の戸田先生は、大変衰弱しておられました。お体は痩せられ、声はかすれ、階段を上がられるのも大儀でした。ちゃんとした食事も召し上がられず、流動的なものを取られることが多かったのです。栄養剤も取られていました。血糖値を下げるためにインスリンの注射もされていました。それは太い注射で、皮膚には注射針のあとが痛々しく残っていました。」
『評伝戸田城聖下巻』第三文明社 2021年3月16日初版第1刷発行 367-368頁

 上記の記述を総合すれば、昭和32年の夏頃の戸田は、体も衰弱し、食事もまともにとらないのに、酒だけは一日中飲んでいた、ということになろう。「流動的なもの」には酒も含まれると思うが、『評伝戸田城聖』は、事実をありのままに記したくなかったのだと考える。それは、連続飲酒に他ならず、酒をやめることができなかったアルコール依存症者の末期の姿そのもので、戸田城聖の人生の評価に関わる事柄だからだ。
 実際、まともな食事もとらずに一日中酒を飲み続ける生活を続けていたなら、いくら栄養剤を摂取しようが、インスリンを注射しようが無意味といえ、戸田は昭和32年11月、再び体調悪化し、たちくらみの発作で倒れて病院に運ばれ、自宅療養がそれからしばらく続いた。「私の闘病八十日」には「重症を警告されていた肝臓病がまったく快癒した」と事実と異なることが書かれているが、手の施しようのない肝硬変が進行し、もはや末期といえる状態だった。

創価学会にみられる医学的事実を軽視、無視する態度はよくない

 この点につき、人間革命第12巻の記述は見過ごしにできない。単行本186頁、第二版聖教ワイド文庫212頁には病状として肝硬変と明記しているものの、それから治療数か月を経た逝去の9日ほど前の医師の診断にて

「ご病気はすべて治っております。ただ、お体が著しく衰弱しています。」(略)戸田は思った。―どこも悪くないということは、病魔は完全に克服したことになる。(人間革命第12巻324-325頁、第二版聖教ワイド文庫368頁)

との記述が事実だとはとても思えない。この9日後に逝去しているのだ。「病気はすべて治って」いるが、「衰弱している」というのではなく、もはや医学的に手の施しようのない状態だったというのが素直であろう。肝硬変は不可逆的な病で、いったん硬化、繊維化した肝臓が元の状態に回復することはありえない。人間革命第12巻に記している死因の急性心衰弱(単行本352頁、第二版聖教ワイド文庫399頁)というのも、それは肝硬変が引き起こしたもので、精確には肝硬変による心臓衰弱というべきものである。なので信仰で病気を克服したようにみせかけるため、戸田自身の大量飲酒、酒の飲み過ぎという戸田の病気の真の原因(どれだけ体調が悪化しても飲酒をやめることができなかった)ともいうべき面を隠蔽するために意図的に読者が誤解するよう医学的にも医者の発言としても非常に不適切な記述を加えたものと筆者は判断している。
 前述したように戸田城聖自身の「重症を警告されていた肝臓病がまったく快癒した」との記述も事実ではなく、「網膜を一枚、大御本尊より下賜さる」との記述も(ともに「私の闘病八十日」論文集418-420頁、戸田城聖全集第3巻304-306頁、論文集も戸田城聖全集も国立国会図書館デジタルコレクションで読めるのでぜひこの文章を読んで興味を持たれた方はご自身でもご確認いただきたい。―筆者)、網膜は再生力が低いとのことで、疑問を感じる。このような創価学会および創価学会が公式に刊行した著作にみられる医学的知見や医学的常識を軽視、無視する姿勢は会員に悪影響を及ぼしていると筆者は感じている。
 医学的常識、医師の専門的知見に基づく助言を聞き入れない会員、医学を無視したアドバイスを指導と称して他の会員に平気で行う会員の存在。筆者の身近にもそういう会員はいた。がんを患いながら医者にかからず、信心で治す等言明するわりに医学的根拠の薄弱な民間療法には頼り、他人に勧める非常識。自分だけならまだしも、学会でも相応の役職に就いているため、他の会員にも影響力があり、たちが悪い存在だと感じた。私にも口出ししたそうだった。しかし私はそういった医学的根拠のない「指導」は一切受け入れるつもりがないとの態度を言明していたので実際に口出ししてくることはなかったが・‥。

結び

 西野辰吉『伝記戸田城聖』における、「私の闘病八十日」に戸田が記した記述を紹介した後の、

 この三毒(筆者注 ウイスキー、煙草、仁丹)という酒では、酒で結核を癒したという自信のあるかれは、戦後も酒ずきが病膏盲(やまいこうこうー引用者注)というふうになって、会の座談会や講演でも、酒をのみながら話していたといわれる。かれは水もがぶがぶのんだ。糖尿も慢性膵炎ものどがひどく乾くのが、症状のひとつで、以下略(『伝記戸田城聖』309-310頁)

との三行の記述は、レグルス文庫版の『戸田城聖伝』(280頁にあたる)においては、削除されている。戸田の酒好きすら、現在の創価学会においてはもはや都合の悪い事実、隠蔽や改竄してでも消したい過去になってしまっているのだろう。しかし、酒を飲まない戸田城聖がありえたのか。結核すら酒で癒したと豪語してきた戸田が「ウイスキーは飲みたくなくな」って「ウイスキーのかわりに菓子、くだものをこのむようにな」ったと記した(『論文集』420頁)のは逝去前の数週間。それはもはや肝硬変の末期、酒すら体が受けつけなくなったあとの姿でしかなかったのではないだろうか。


追記 吉田直哉『映像とは何だろうか』で見事に描き出されている戸田の酔態なのだが、いつ、どこでのものか、となると疑問がないわけではない。NHKのドキュメンタリー番組『日本の素顔』は昭和32年11月から始まり、その初回の「新興宗教をみる」の取材の為、スタッフが顔を合わせたのはその二ヶ月ほど前の昭和32年の9月ごろという事なのだが、その時点では日蓮正宗総本山の大石寺にはまだ大講堂はできていない。大講堂の落慶は翌昭和33年3月。なので、戸田への「挨拶のため本部の建物へ行った」というのは東京の創価学会本部のようにも思えるのに、「撮影の初日」に「富士大石寺の日蓮正宗総本山を訪れたところであった。」とあるのが疑問に感じるところではある。『年譜牧口常三郎 戸田城聖』には昭和32年8月27日に「NHKの記者の取材を受け、この信仰をしている人の中で幸せにならない人は絶対にない、との確信を述べる」とあり、この時の発言は「このオレが、病気もなおらん信心をすすめると思うとるのか!」なので、意味としては同じようなものといえようし(ホントか?)、時期的にも8月も終わる頃の27日と9月ごろというのならそう違わず、この取材がNHK「新興宗教をみる」の取材のように思えるのだが、そうだとすると大石寺においての取材ではなさそうなのである。なにか吉田直哉氏に記憶違いがあるのではないかと筆者は考えている。(’25.3.2)

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