過激であるほど、合理的になる。
彼らは本当に、肉食をやめさせたいのだろうか。
5月1日、東京・お台場の肉フェス会場前に、エイリアンに扮した活動家が現れた。
人肉を食べるパフォーマンスを演じ、ヴィーガンになるよう呼び掛けた。
(AFP, 2026年5月2日)
勧誘として見ると、機能していない。
不快感を呼び起こす演出は、肉食者を引き寄せない。
嘲笑は同調を生まない。
反感は支持に変換されない。
勧誘として見れば、不合理だ。
それでも彼らが合理的に振る舞っているのだとすれば、勧誘とは別の意図を見なければならない。
ここで見えているのは、勧誘ではなく境界線の管理だ。
支持者を増やすことと、組織のアイデンティティを維持することは、しばしば衝突する。
全員が理解者になれば、「気づいた側」というポジションは消える。
特別性は希少性に依存している。
だから、理解できない者の存在が必要になる。
理解できない者が外にいることで、理解した者の結束が機能する。
本人たちがそう意図しているかは分からない。
しかし、パフォーマンスの機能だけを見ると、勧誘よりも境界線の確認に近い。
才能は不要だ。羞恥心だけが参入コストになる。
正しい側にいるというポジションだけで自己顕示欲が満たされる。
意図ではなく機能として——過激なパフォーマンスは、勧誘の失敗ではない。
ポジション管理の成功だ。
外部から批判が来るほど、内部では「正しいから攻撃される」という確信に変換される。
反論が届かない構造になっている。
閉じたループだ。
嫌悪感は、拡散を生む。
「あれはおかしい」と怒った人間は、拡散する。
嘲笑した人間は、さらに広める。
無視した人間は、何も生まない。
組織にとって最悪なのは無視だ。
嫌われている間は存在できる。
ここで批判者も同じ回路に乗る。
反論の種類は豊富だ。人間は長く動物性タンパクを摂ってきた。
生きることはすでに他の命を奪っている。植物の命を軽んじるのは矛盾だ。
どれも一定の論拠を持っている。
しかし批判の中身は関係ない。
パフォーマーはそもそも議論したいわけではないからだ。
反論している、という事実が火に注がれる。
燃焼の条件が整っている。
内部側が燃料を供給する。選民意識、自己顕示欲、結束の確認。
批判側が酸素を供給する。注目、嫌悪、拡散。
全員に続ける理由がある。
誰も止める理由がない。
善意があるかどうかは関係ない。
動機は問題ではない。
回路が問題だ。
構造は、動機を必要としない。
