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【映画】『名無し』解説 見たくないものを引きずり出される


 城定秀夫監督は「見えないもの」を撮る監督だ。

 僕が大好きな『アルプススタンドのはしの方』では高校球児による熱き試合を映さない。

『ビリーバーズ』ではカルト教団の実態が見えない。

『嗤う蟲』では村の因習の見えない空気感に翻弄される作品だ。

『悪い夏』では生活福祉課の職員が裏社会の男に管理されているという市民からは見えない世界を描いた。

 そして本作『名無し』では見えない凶器で大量に人が殺される。
 見えなき凶器により殺されていく人々は、まるでSNSや劣等感という凶弾によって次々と自殺していく人々のようだ。


 城定秀夫監督は「見えないもの」を描いているのになぜ我々観客には「わかる」のか。
 それは観客が脳内で映像化しているからだ。
 だから「見えないもの」がスクリーンを越えて我々の感情に刻み込まれる。主に不快さを伴って。
 城定秀夫監督のノワール的な(本作中の表現を用いれば「空が黒い」ような)作品を観ると考察や批評を停止してしまう人もいるだろう。なぜならそれは考察や批評をするために自分の中の見たくないものを脳内で映像化する作業を挟まなければならないからだ。

 その意味で『名無し』は露悪的である。
 なぜか。
 それは「神は殺せない。だったら社会を殺そう」という短絡さによる。

 以下『名無し』のネタバレを含みます。

公式サイトより



◯『名無し』考察 神殺し


 タイトルの「名無し」とはまず大量殺人鬼である山田太郎(佐藤二朗)のことである。
 そして名前を知らない多くの我々観客のことでもある。

 山田太郎は特殊能力の持ち主で、右手で触ったものを消してしまう。

 ・非生物(つまり物体)は透明になる。
 ・植物は枯れる。
 ・動物(人間含む)は絶命する。

 ただここにルールがあって、植物は草花の名称を知らなければ枯れない。そして人間や動物も固有名詞を知らなければ触れても絶命しないのだ。

 つまり、山田太郎にとって名前を知るほど近しい仲になると死なせてしまう、という悲しい設定となっている。
 逆に言えば、多くの市民にとっては安全だ。名前を知られないから。
 だが本作に描かれるように、名前を知らない大勢の無関係な人たちを、山田太郎は所構わず手当たり次第殺しまくる。名前を知らない存在を見えない凶器で殺しまくるのだ。

予告より。
金属バットは見えないが「見える」


 まるで悪魔の右手とでも言いたくなる能力だ。
 山田太郎の願いは、「こんな能力を創った神と右手で握手すること」だ。
 つまり神殺し。
 こんなクズみたいな世界を創った神を殺したい。だができない。だから神が創った人間を殺しまくって社会をぶっ壊す。山田太郎のことも、山田太郎を救おうとした刑事(丸山隆平)のことも、山田花子(MEGUMI)のことも救わないこの世界をぶっ壊したい。
 そしてラスト、山田太郎と山田花子との間に生まれたと思われる少年の右手の能力によって山田太郎は絶命する。
 少年は天に向かって神へ唾を吐いて映画は終わる。

 刑事の息子でその後自身も刑事となった国枝(佐々木蔵之介)も少年期は山田太郎と同様にこの世界を見つめていた。すなわちどんなに晴れた空でも真っ黒く見えていた。それなのに国枝と山田太郎は刑事と殺人鬼という全く違う道を歩んでいる。
 それはやはり悪魔の右手の能力のせいだろう。
 山田太郎と山田花子の息子も同じ能力を持っているであろう時点で、彼が大人になったら同じくこの社会をぶっ壊そうとしてしまうのかも知れない。


◯神を殺せないから社会の方を殺す、という短絡さ


 映画の冒頭。山田太郎は新興宗教の勧誘の女を殺す。
 なぜなら神は山田太郎を一度も救ってはくれなかったからだ。
 その殺人を皮切りに、神のくだらなさを証明するためなのか手当たり次第殺しまくる。「ほらな、神は人を救わないだろ」とでも言いたげに。

 だがここに山田太郎の短絡さがある。
 なぜなら「神は人を救ってはくれない」というのは当たり前のことだからだ。
 神は人を救わない。お布施をしたら救ってくれるような存在は神ではない。信仰すれば救いを与えるような存在は神ではない。逆に、信仰やお布施によって人が神に救いを求める行為は神への不敬だ。なぜなら条件によって神に命令する行為であるからだ。
「お布施をしたので神は私を救いますよね?」
「信仰に篤い私を優先して神は救ってくれますよね?」
 という人間同士で取り交わすような契約など神への不敬である。人からの契約に神が対応するはずなど無い。


 山田太郎はこのことを知るべきだった。
 その意味で、幼少期から学ぶ機会を奪われ続けた不幸がまずある。おそらく彼は幼児期に一番最初に母と父を右手の能力で無自覚に死なせてしまったのだろう。


 だから山田太郎はまずはこの社会にアクセスするところから始めるべきだった。
 社会を壊すのではなく、様々なものにアクセスし、多くを学ぶべきだった。
 何も学ばず、自身を呪うことに全力で、結果、社会に害悪を撒き散らす。
 これは本稿の冒頭にも書いたように、SNSによって害悪を撒き散らしたり、それらに被弾したりする現代人に通じる。
 そう。「名無し」とは我々観客のことだった。山田太郎でもあり、山田太郎の被害者でもある我々観客のことだ。
 スマホを操る右手で無関係な人を殺しまくっている我々を批評する映画。それが『名無し』の正体である。



 さかもと五度の映画感想マガジン。


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