【noteでBL】サトゥルヌスの午餐
3つのお題でBL小説を創作する企画「noteでBL」に、参加させてもらうことにしました。
今回のお題は、以下のとおり。
食事シーン
家以外の、作者の大好きな場所や土地、時代を舞台にした話
脊髄反射
ということで、書いた。
なお、「家以外の、作者の大好きな場所や土地、時代」は、「美術館」とさせていただいた。
ジャンル
SF(※一部、流血の表現あります)
あらすじ
人が人を喰うようになるウイルス感染により、文明が打撃を受けた世界。生き残った人々は自治区を築き、感染者から身を守りながら暮らしている。皓輝の暮らす自治区内で、殺人が起こった。状況から犯人は皓輝のパートナーである嶺太だと思われた。嶺太の残した暗号から、美術館の廃墟へ向かった皓輝は、そこで嶺太と再会する。嶺太は、皓輝にチリクラブを振る舞うのだが――。
以下、本文(文字数:4,996 文字)
サトゥルヌスの午餐
坂本エンジン
1
薄暗い食堂の壁からこちらを凝視しているのは『わが子を食らうサトゥルヌス』だ。
老いた巨神は、おのれの子の、すでに頭部と左腕を失った肉塊に喰らいついていた。昏い深淵のように空虚な双眸は、神がすでに理性を失っているのではないかという疑念と恐怖を鑑賞者に抱かせる。神が理性をなくしたら、世界はどうなるのだろう。
この複製画を港湾エリアの保税倉庫跡からサルベージしたとき、皓輝は食堂に掛けたいと真っ先に思った。食欲をそそる絵でないのは承知のうえ、あまりに悪趣味なキュレーションだったが、自分たちが今やどんな世界に生きているのかを思い知るのに、これほどふさわしい絵もないだろうと思ったのだ。隣人が化け物へと成り果て、まさしく親が子を喰らうことさえある。束の間だけの和みをくれる美しい風景画よりも、この絶望的な現実の直喩こそが、生きている感覚を鋭利に研ぎ澄ませてくれる。
また、そもそものこの絵のオリジナルは、ゴヤが自邸の食堂の壁に描いたものだった。
「皓輝さん!」
静寂を破ったのは、靴音と震える叫びだった。皓輝は一人で摂っていた遅い朝食――簡素なオートミールの容器から顔を上げた。駆け込んできたのは若手の猟兵だ。顔面は青白い。
「医療班が……殺されました。第四医務室です。医師が1名と、看護師の2名」
「感染者の侵入か」
「……いえ、状況が、その」
言葉を詰まらせ、縋るような視線を皓輝に向けた。
「内部で発症が?」
「遺体は喰われていません。……第四医務室の予定は……嶺太さんの定期検診で」
皓輝の背筋を、冷たい針が刺し貫く。
「嶺太は」
「……姿が見当たりません。装備一式も消えています」
医務室には鉄錆の匂いが立ち込めていた。床に広がる赤黒い海は、すでに油絵具ほどの粘度になっていた。カバーをめくり、遺体の状況を一瞥する。迷いのない斬撃。感染者を解体するときの――あるいは、帰還後に厨房で腕を振るうときの、あまりに手慣れた彼の手技を、皓輝が見まがうはずもなかった。
「あの……本当に、嶺太さんが……?」
皓輝は深呼吸で自分を落ち着かせた。
浮かぶのは、昨日もいつもと変わることのなかった嶺太の笑顔だ。そして、ふたりを見下ろす、食堂の壁のサトゥルヌス。その虚ろな目。
皓輝は気づいた。壁のごく低い位置に、血で文字が書かれていたのだ。状況を検分するのを装い、そっと移動すると、皓輝は靴底でその文字を掻き消した。
2
アスファルトの裂け目から伸びた雑草が、かつての文明の残骸を飲み込もうとしている。
封鎖地区の空気は重く、停滞していた。すでに廃墟と化しているビルの隙間を縫うようにして、皓輝は音もなく進む。初めてのことではないが、背負ったタクティカル・ボウガンの重みが緊張を忘れさせてはくれない。
やがて、木々に囲まれたコンクリートの威容――目指す美術館が近づいてきた。
正面玄関へと続く前庭には、左右に体を揺らしながら、徘徊する影が三つあった。感染者だ。皮膚は土気色に変色し、服はボロ布のように裂けている。
皓輝は遮蔽物の影に身を潜め、ボウガンを構えた。スコープ越しに、一体の首筋を捉える。
理性を失い、食欲の権化と化したかつての隣人。彼らを真に「停止」させるには、脳幹から脊髄に至る中枢神経を物理的に断てばいい。動いてはいても、かれらにはすでに知性も感情もない。ただ、ウイルスに感染した中枢神経が、病理的にその肉体を操っているに過ぎないのだ。その無限の食欲すら、脊髄反射の産物でしかないのである。
乾いた音が響く。放たれたボルトが正確に延髄を貫いた。
一体が、糸の切れた人形のように崩れ落ちる。続けて二射、三射。無駄のない動作で弦を引き、狙いを定める。最後の一体が地面に沈んだ時、周囲には再び死んだような静寂が戻った。
割れたガラスの破片を踏まないよう、皓輝は慎重に館内へ足を踏み入れた。
高い天井に、自分の足音だけが空虚に反響する。展示エリアに踏み込んだが、壁に並ぶ額縁の多くは空で、残された絵画も湿気とカビで無残に剥落していた。
ふと、感覚が混濁した。
埃と饐えた臭いの代わりに、洗練された香水の匂いと、シャンパングラスの触れ合う繊細な音が蘇る。
それは遠い日の、まさにこの場所での記憶だった。
企画展のレセプション・パーティーだ。担当の学芸員だった皓輝は、気を抜く暇もなく、会場を足早に駆け回らざるをえなかった。そのため、出会いがしらに、その男とぶつかりそうになったのだ。
「っと、失礼」
相手はケータリングのスタッフだった。大柄な男だ。白いコックコートがはち切れんばかりに盛り上がった胸板と、野性味のある無精ひげ。しかし不思議と不潔感はない。その瞳は驚くほど優しく、そして真っ直ぐに皓輝を射抜いた。
呼吸を、忘れた。パーティーの華やぎの中で、その男だけが特別に鮮やかな色彩を放っているように見えた。……というより、彼以外の人間が――心血注いで集めた企画展の展示品さえも、その瞬間に色あせてしまったのだ。
あの時、互いの瞳に灯った光は、今も嶺太の中に残っているのだろうか。それとも、食堂の壁のサトゥルヌスのような、虚ろな闇に塗りつぶされてしまったのか。
皓輝は展示室の奥へ踏み込む。
そこに、見慣れた男の広い背中があった。
奥の壁に掛かったまま、朽ちつつある額縁をじっと見つめているようだ。皓輝のボウガンが、その背中の真ん中を……彼の脊髄をぴたりと狙う。
「よう。来たな」
いつもと変わらぬ、嶺太の声だった。コントラバスのように低く、あたたかみのある深い声だ。陽気な冗談で仲間たちを笑わせ、自身も大笑いする声。料理をしながら、でたらめなカンツォーネを歌う声。ベッドで、皓輝の名をそっと呼ぶ声――。
目頭が熱くなったが、かろうじて、涙をこらえた。
「……ひやひやした。UMA。Urban Museum of Art。都市美術館の略称だが、知ってるやつは知ってる。暗号としてはちょっとな」
「おまえ以外に誰がわかるよ。アートのことなんか、もうみんな忘れちまってる。明日、生きられるかどうかもわからなんだからな」
振り向いた顔も、昨日までと同じ嶺太だった。
「メシにしようぜ」
3
液晶画面の向こう側で、世界は音を立てて崩壊していこうとしていた。
アナウンサーの震える声が、外出を控えるよう繰り返す。空撮映像には、蟻のようにうごめく群衆と、その中心で上がる黒煙が映し出されていた。人々が人を喰らい、蹂躙し、秩序が砂の城のように崩れていく。
皓輝は窓の外をヘリが飛ぶのを見た。テレビの中の風景は、このマンションからもさほど遠くはない。
「皓輝、メシにしようぜ」
唐突に背後からかけられた声に、肩が跳ねた。嶺太がエプロンの紐を結びながらキッチンに立っている。
「こんな時に?」
皓輝が掠れた声で問うと、嶺太は無精ひげの顎をなでながら、にやりと笑った。
「こんな時だからだよ。腹が減ってちゃ、守れるもんも守れん。俺ができるのはこれくらいだからな」
まな板の上で包丁が規則正しい音を立て始める。野菜を刻む軽快なリズム。ガスの青い炎が鍋の底を舐める。立ち上る湯気の匂いは、どこまでも温かく、家庭的だった。
テレビの中の地獄よりも、目の前の嶺太の背中の方が、ずっと現実味を持って皓輝の心を繋ぎ止めた。彼が料理を作っている限り、自分たちはまだ人間の側にいられる。そう信じることができた。
そんな記憶が、蜃気楼のように揺らめいている。
そこは廃墟と化した美術館内に、かつて存在したレストラン跡だ。
一面がすべて窓なので、フロアは明るい。厨房には異様な熱が立ち込めていた。自家発電装置を無理やり稼働させていたようだ。黙々と作業をする、その姿は、コミューンの厨房でも何度も見た。嶺太の調理技術と、根っからの明るさは、体制が崩壊した都市で、小集団に分断された人々が自治区に立てこもって暮らし始めてからも、仲間を癒してくれたものだ。
テーブルのひとつが、どこで調達したのか、真新しいクロスでセッティングされていた。
ぴかぴかのカトラリーとフィンガーボウルが並べられている。そこに運ばれてきたのは、皿から溢れんばかりの湯気立つチリクラブだった。
どろりとしたソースは、目に沁みるほどに赤い。カニの殻が、まるで血にまみれた骸のように積み重なっている。
皓輝は喉を鳴らした。漂ってくる匂いには、鼻腔を刺す香辛料の刺激と、トマトの酸味、そして暴力的なまでに濃厚な、甲殻類の香りが溶けている。
皓輝は震える指を伸ばし、真っ赤に染まった殻を掴んだ。熱い。火傷しそうなほどの熱が、指先を苛む。
この地獄のような色彩こそが、今の彼らにふさわしい食卓なのかと、皓輝は考える。
4
対面に座った嶺太が、チリクラブにむしゃぶりついた。
手づかみで、赤いソースにまみれた甲殻類を口に運ぶ。黙々と、嶺太は食べた。豪快に、殻を噛み砕き、したたるソースとともに啜るようにカニ身を味わう。そうだった。嶺太ほど、どんなものでもうまそうに食う男はいないのだ、と皓輝は思い出す。
そう思うと、急に腹が減ってきたような気がして、皓輝もカニを口に運んだ。
濃厚な海鮮のうまみが溶け込んだソースは絶品だった。
手づかみの食事は、人間の本能的な食欲を直に刺激するようで、嶺太と向かい合い、一心にカニ身を貪る行為に、皓輝はどこか官能的なものを感じた。
「このへん、感染者減ったよな」
「……ああ、ひところに比べるとな。最近、西に移動始まってるから」
始まったのは、他愛のない、世間話のような会話だった。
「むかし、ここの公園よく来たよな」
「毎年、花見もした。……嶺太が弁当つくってくれて」
「そうだった。俺、弁当はマジで気合入れちまうんだよなあ」
訥々と――、語る合間に、いくばくかの笑いもあった。
そして。
山盛りにあったカニも、男ふたりにかかれば、ほどなく食べ尽くされる。
その頃には、会話はずっとなめらかになっていた。嶺太が水を注いだグラスを手に取り……ふいに、その水を零してしまうまでは。
「……」
テーブルに重い沈黙が戻ってきた。
「不随意運動」
猟兵たちのマニュアルの最初に書いてあることだ。ウイルスは脊髄に感染し、その最初の兆候が、手の不随意運動だ。
「定期検診で診断を受けたんだな。だから殺したのか」
「感染者はすぐに拘束・隔離されるだろ。その前に、どうしても、もう一度だけおまえにメシ食わせてやりたくてさ。それに……」
「約束――してたもんな」
嶺太は頷き、テーブルの上に銃を置いた。
「おまえの手で終わらせてくれ」
「……」
「頼むよ。もうあまり時間がない。俺がなにもわからなくなって、脊髄反射でおまえを食っちまうまえにさ」
「……立って」
皓輝は嶺太を立たせると、銃を手に取った。脊髄を打ち抜けば終わる。いつもやっていることだった。
「目を閉じて」
嶺太は従う。安全装置を外す音に、彼の目蓋がわずかに震え、そして。
「……っ!」
もみ合いと、唸り声。そして、銃が投げ捨てられる。
「おま……、なんで――、キス、したのか……!? どうしてだよ、こんなことしたらおまえも」
「ウイルスの感染の機序は完全に解明されたわけじゃない。確実に感染するとは言えないよ」
「でも……っ」
「約束は守るさ、嶺太。けど、食事のあとにはデザートくらい食わせてくれよ」
「皓輝」
くしゃり、と嶺太の表情がゆがんだ。
低い嗚咽を漏らしながら、嶺太のたくましい肩がふるえるのを、皓輝は慈しむように見つめ、そっと抱き寄せる。
*
「……あ、パーティーの」
美術館の職員出入口で待ち構えていた男は、にやりと笑ってみせた。
「覚えててくれて感謝。俺、まだるっこしいの嫌いなんで直球で言うけど、あんたのことめちゃタイプなんで、デートしない?」
皓輝は目を瞠って――そして、噴き出す。
「驚いたな」
「いいでしょ? エスニックとかどうかな。最高のチリクラブを食わせるシンガポール料理の店があるんだけど」
「いいよ。いつもこんな誘い方を?」
「いい男とうまいもん食いに行くの、俺、大好き。……いい男を食うのもね」
「僕もきみに食われる?」
「食ってもいいなら。あんた、うまそうだもんな」
(了)
