会社の飲み会を断った夜、自分に戻る読書
1.その誘いに、今日は乗らない
定時が近づくころ、社内の空気がわずかにざわつき始めた。スマホの通知音が、あちこちで小さく鳴る。誰かが「今日、軽く行きます?」と声を落として言い、別の誰かが「駅前でいいですかね」と返す。いつもの流れ。悪くはない。嫌いでもない。ただ、今日はその輪に入る気になれなかった。
理由は特別なものじゃない。体調が悪いわけでも、急ぎの用事があるわけでもない。ただ、心が少し疲れていた。昼間に交わした言葉や、会議での沈黙、エレベーターの中の気まずい空気。それらが薄く積もって、胸の内側に居座っている感じがした。
「今日は、すみません。用事があって」
そう言うと、誰も深追いはしない。大人の世界は、そういうところがありがたい。デスクを片付け、いつもより少し早足で会社を出た。
ビルの外に出ると、夜風が首元をなでた。ネクタイを緩め、コートの前を留める。街はいつも通りの顔をしている。仕事帰りの人、待ち合わせに急ぐ若者、コンビニの前で立ち止まる人。自分だけが、少しだけ流れから外れたような気分だった。
駅へ向かう道すがら、ふと考える。飲み会に行けば、たぶん楽しい時間もある。愚痴を言い合い、笑って、気がつけば終電を気にする。明日になれば、何事もなかったように仕事が始まる。
でも、今日は違う選択をした。そのことに、わずかな後ろめたさと、同じくらいの安堵が混じっている。

2.何も足さない夜の準備
帰宅すると、部屋は静かだった。電気をつけ、靴を脱ぐ。テレビはつけない。キッチンで湯を沸かし、簡単な肴を用意する。冷蔵庫から取り出した酒は、特別な銘柄じゃない。いつものやつだ。
グラスに注ぐ音が、やけに大きく響く。ソファに腰を下ろし、深く息を吐く。ネクタイを外し、腕時計をテーブルに置く。それだけで、少しずつ「会社の自分」が剥がれていく気がした。
酒を一口含み、背もたれに体を預ける。さて、何を読むか。立ち上がって本棚の前に立つ。背表紙を眺める時間は、いつも少し贅沢だ。今日は重たいものは避けたい。かといって、軽すぎるのも違う。
指先が、ある一冊で止まった。ずいぶん前に買って、途中まで読んで、しばらく放置していた本だ。特別な理由はない。ただ、今の自分に合いそうな気がした。
ページを開くと、紙の匂いがふわりと立つ。最初の数行を追いながら、酒をもう一口。文字が、ゆっくりと体の中に染み込んでくる。
会社で使う言葉とは違う、柔らかさがある。誰かに向けて発せられる言葉ではなく、自分の内側に向かってくる言葉。読み進めるうちに、肩の力が抜けていくのがわかる。
3.自分の輪郭が戻ってくる
読み進めるうちに、不思議な感覚が訪れる。仕事中は曖昧になっていた自分の輪郭が、少しずつはっきりしてくる。ああ、自分はこういうことを考える人間だったな、と。
酒が、その感覚を邪魔しない。むしろ、背中を押してくれる。酔うための酒ではなく、考えるための酒。
時計を見ると、思ったより時間が経っていた。外はすっかり静まり、車の音もまばらだ。ページをめくる音と、グラスを置く音だけが、この部屋のリズムになっている。
飲み会なら、そろそろ二軒目の話が出る頃だろう。ここには、そんな焦りはない。終わりを急がない時間。
数章読んだところで、いったん本を閉じる。目を閉じ、ソファに深く沈み込む。頭の中には、さっき読んだ文章の断片が浮かんでは消える。
無理にまとめなくていい。理解しきれなくてもいい。ただ、今夜の自分の中に、何かが残ればそれでいい。
再び本を開く。最後まで読もうとは思わない。続きは、また別の夜に取っておく。その余白が、明日を少しだけ楽にしてくれる気がする。
飲み会を断ったことを、もう後悔していない。むしろ、この時間を選んだ自分を、少しだけ認めてやりたい。
グラスは空になり、本はテーブルの上に伏せられている。部屋の灯りを少し落とし、立ち上がる。布団に入る前、ふと本に目をやる。
会社の飲み会を断った夜。誰にも見せない自分に戻るための、静かな読書だった。

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