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夕方、毎日同じ場所に現れる虹を1歳2ヶ月の娘と観察しつづけてみた

「ただいまー!帰ったよー!」

誰もいない家に響くように帰宅を知らせる。スーパーで買ってきた夕飯の食材を抱えながら靴を脱ぎ、顔を上げると、目の前の白い壁に丸い虹が映っていた。

「ん?」

振り向いた先にあるのは玄関のドアののぞき穴。

カバーが何かの拍子にズレたようで、外から差し込む光がレンズを通り白い壁に虹色の光を作っていた。

この瞬間、私の探究心が「ぐあんっ」と反応した。

いまはフリーランスの準備を整えている専業主婦だけれど、私には10年半、保育士として子どもたちを見つめてきた経験がある。


そのまなざしは今、1歳2ヶ月の娘の子育てにフル活用されている。 さらに、子どものまなざしそのものを大切に扱う「レッジョ・エミリア・アプローチ」の学びを深めている最中の私にとって、この自然現象は最高の探究材料だ!と興奮した。

今回現れた虹は条件さえ揃えば、何も用意しなくても夕方になれば目の前に現れるはずだ。探究の材料はこれで十分。

そう思った私は、この日から、虹色の光と娘がどう関わっていくのか、毎日、毎日、観察をつづけることにした。



虹の光と「ややややや!」


抱っこ紐で抱かれた娘といっしょに虹色の光に近づいてみた。

「ややややや!」

手の届く距離まで近づくとそれまでじっとしていた娘がそう言いながら手を振り、虹から体を遠ざけようと抱っこ紐の中で暴れだした。

「ややややや!」

来る日も来る日もそうやって手を振り、体をうねらせ、一定の距離からは近づきたくなさそうだった。

こんなにきれいな虹なのになぜ“ややややや”するんだろう?

当時はそう思った。だけど、振り返ってみると、大人の私にとっての虹はうつくしいものだけど、娘にとっての虹はそうじゃなかったのだと気づいた。

いつもの空間に、突如として現れた“それ”「いつもそこにはないなにか」だったのかもしれない。それが虹であろうとなかろうと、娘にとってはまだ「なにか」の段階だったのだと。



それから、玄関の扉を開ける度、私は虹色の光を見つけては「おっ!?またある!」と不思議がり「これはなんだろうねえ?」と虹に触れ続けた。

「ややややや!」

「やややなんだねえ。離れようねえ」

娘はまだ虹に抵抗があるようなので、無理に関わりを持たすことはしなかった。娘を抱っこから下ろしたあとは、私は虹を捕まえてみようとした。郵便受けに入っていた封筒が白ければ、虹色の光を白い封筒に映して壁から移動させてみたり、時には私の腕に移して虹色の光と共に移動させてみたり。

そうやって来る日も来る日も虹で私が遊んでいた。娘はそんな私をじっと見ていた。

娘のほうが先に見つけるようになった


「おっ!?」

玄関を開けると私よりも先に、娘が虹色の光を見つけていた。そして、虹に近づくと、恐る恐る小さな指を伸ばして光を触るようにもなった。

洗面所のドアを開けると壁からドアに虹が移動した。抱っこしてと私にせがみ、自ら触りにいこうとする娘。

私よりも娘の方が虹と関わりたそうだった。


玄関先に現れる虹、だんだんと見慣れてきた私は、うっかりスルーしてしまいそうだった。

だけど、ぐぐっと虹への興味をにぎりつづけた。(
ここで大人のわたしが虹に興味を持たなくなったら、虹に興味をもちはじめた娘を置いてけぼりにしてしまうと思った)

この頃、虹は突然現れるものではなく、いつもそこにあるものに変わっていった。そして、娘も虹と少しずつ関係を紡ぐようになっていった。少しずつ時間をかけながら、娘の中でも「保育園から帰ったら虹はいつもそこにあるもの」そういう存在に変化したのだ。

「ややややや」

もしかしたら、そう言っていた頃から虹と娘の間にはなにかが生まれはじめていたのかもしれない。

娘の頭の中を覗いてみないとわからないけど、きっとたくさんの問いが生まれていたのだろう。そういうことを考え続けることこそが、探究の芽を伸ばしていくことにつながるのだと思う。

ある日、虹が消えた


娘は口癖のようになっていた「おっ!?」を発したあと、真っ白な壁を指さしてあれ?という表情をしながら私の方を見た。

いつものように玄関をあけるとそこには虹の光がなかった。

「ないねえ」

「ねぇ〜」

私の声かけに娘もそう返した。そしていつも光のある場所を指さしては「ねぇ〜」と何度も言っていた。

この日の天気はくもり。のぞき穴から差し込む光がなかったのだ。

いつもあるものが、ない。

いつもないものが、ある。

「ない」ということに気づいた娘の頭の中は???でいっぱいな様子で、同じ場所で虹を探していた。

もし、大人のわたしが虹への興味をなくしていたら

「あ〜ほんまじゃ、虹ないね〜、よし、手洗おうか」

そうやってすぐに“いまやること”に誘導していたかもしれない。この「ない」という発見が新たな探究につながる入口になるというのに。このとき、虹への興味をにぎりつづけておいてよかったと心から思った。


見える、消える


虹の光が現れている時間、その場にとどまって電気をつけたり消したりしてみた。「ない」ことに気づいた娘はどう反応するだろう。

電気をつけるとさっきまでそこにあった光は薄くなりほとんど見えなくなった。そしてまた消す。すると光が現れる。

つける、消す、つける、消す。

ない、ある、ない、ある。

娘は飽きることなく見続けた。小さな指に力を込めて「ぴっ」と言いながらスイッチを押そうともしていた。

そして、押したあと、必ず虹があった場所に目線をうつしていた。

娘の頭の中で何が起きていたのかは分からない。でも自分で視線をうつしながら、確かに何かを見つめていた。

この時の娘は、虹を見ていたのではなく、変化を見ていたのかもしれない。

子どもをみつめるとき、その笑顔や驚き、夢中になっている表情などと一緒に必ず目線の先も見るようにしている。さらに、目線の動きにも注目してみると、そこには私には気づかない世界が広がっていることがある。

そういう世界をこっそり見つけたとき、私の世界も広がり、ちいさな子どもと同じような喜びがあふれてくるのだ。



夕方、玄関を開けるといつも同じ場所に虹がある。

だけど、虹を見る娘の姿は日に日に変わっていく。私はこの先もそれを追いつづける。

「おっ!?」

「ねぇ」 「虹、あるねぇ」


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れもんさき|子どものまなざし探究家|千葉 ここまで読んでくださり、ありがとうございます🍋 もし「これからも読みたいな」と思っていただけたら、お気持ちを託していただけるとうれしいです。いただいた応援は、学びや探求を深め、子どものまなざしを記録し届ける活動に大切に使わせていただきます。

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