月灯りのミウ 11/16
(第11話)ユタカの話
こちらに戻った俺は、それまでの生活通りに暮らすしかなかった。
何しろこちらでは金を稼がなければ生活していけない。何とも不自由な仕組みだ。
とりたて、パン屋の仕事は朝が早くて大変だった。
こんなことを後、半年以上も続けていかなくてはならないなんて、突然天国から地獄へと突き落とされた気分になる。
現実社会は俺の性に合わない、そう思いながら、数日を過ごした。
でもパン屋の主人を始め、家族や従業員の人たちはとても親切で良い人ばかりだった。
彼らは皆、俺の経歴を知っている。バーを倒産させた男としてだけど。それでもそんなことを笑い話にしてくれるのは返って気持ちが楽になった。
仕事はキツい。だが人間関係は楽しい。そんな環境だった。
特に最初の1週間が長く感じた。とにかく無心に働き続けた。死を覚悟した俺が、死んだ気で働きまくった。そして1か月、カレンダーを見てたのは初めの数日だけで、やがて日にちや曜日の感覚が無くなった。
それから3か月と徐々に慣れて行った。人間の身体なんて面白いものだ。どんな環境でも少しずつ慣れて行く。
ミウに言われて半年だけ頑張ろうと思って戻って来たのだ。そこまでは何とか我慢してこちらで暮らして行こうと思う。
そんな日々の暮らしも、少し余裕が出て来た頃、そろそろ季節も春になろうとしていた。
週末に以前自分が経営していたバーの辺りに行ってみた。
知っての通り、今は別のバーになっている。土日は仕事が休みなので少々夜更かしも出来る。
店の外観はそんなに変わってなかったが新しい店名とJAZZの文字が俺の目に痛々しく映る。
俺はその店のドアを開けた。
店内は俺がやってた頃とはガラリと変わっていた。
静かにJAZZが流れて、落ち着いた雰囲気で、カウンターではカクテルやいろんなドリンクが呑める。
俺はカウンターには座らず、隅のテーブル席に壁の方を向いてビールを呑んだ。
客はそこそこ入っていて、みんなそれぞれ話に花を咲かせている。店内を隈なく物色していると、カウンターの端の壁にダーツのボードがまだそのまま飾ってあるのが目に入った。あれは俺のだ。今は違うけど。そう思うと懐かしく愛しくなった。
暫くすると誰かがそのダーツで遊び始めた。
まだ若い青年だ。サラリーマンかなんかだろう。
ジャケットにチノパン姿だ。ダーツはあまり上手くなかった。
俺は腕だめしをしたくなった。
その青年の元へ向かって行った。
「良かったら俺にも一度させてくれないか」
そう言うと青年は、笑顔で、
「あ、良いですよ。どうぞ」とダーツの矢を俺に手渡してくれた。
「一本でいいよ」と俺は言い、狙いを定めた。
サッと放たれた矢はボードの真ん中に一発で命中した。
「すごい!」青年は目を丸くして俺を讃えた。
「やってみろよ」俺は青年を促した。
「え、僕ですか? いや遊びでやってるだけなんでダメっすよ」
とそう言いながらもラインの前に立った。
俺は青年の投擲に神経を集中させた。
青年の放った矢は少し軌道を逸れたように見えたが、ボードの直前で急角度で曲がりほぼ真ん中に刺さった。
「あ、やった!」青年は素直に喜びを表した。
カウンターに座っていた別の男が、それを見て、
「お、やるじゃんマコト」と声を掛けた。
俺は青年の肩を叩いて店を出た。
春になり、働き始めた頃よりは随分仕事が楽に思えるようになった。パン生地の練り方や焼き方なども教わり、俺は少しずつパン職人としての腕も上がっていった。我ながらこんな才能もあったのかと不思議だった。
俺がこれまでやって来た仕事、雑誌の編集の仕事、そして、アメリカンロックのカフェバーの経営、それらに比べるとパン屋の仕事は仕事というより労働だった。
半年前の俺なら見向きもしない労働だ。パンなど焼いて、それを100円や200円で細々と売って、少ない給料を貰う、
そこに何の価値を見出していただろう。
経営さえ上手く行けば、カフェバーの仕事が一番俺に合っていると思うのだが……。
雑誌の編集はクソだったし、人間も悪い奴ばかりだった。
ミウの願いさえなかったら、今でも俺はあちら側の世界でのんびり暮らしていただろう。今でもあちら側に戻りたい気持ちは、正直に言うとその誘惑に負けそうなくらいにある。
でもそれに打ち勝って、何とか半年持ち堪えた。
この先、どうするのか、俺は最近、そのことをよく考える、ミウと会ったあと、またあちら側の世界に戻るのか、どうするか。
しかし、俺の中にパン作りの楽しさが芽生えているのを感じて、そんな自分自身に驚き、戸惑っていた。
答えはなかなか出なかった。
そして、とうとうその日がやって来た。あちら側の世界で話をした日、おそらくそろそろミウはこちらの世界で目覚める頃だ。
土曜日、仕事が休みで良かった。俺はミウの住むマンションの前で朝の8時を迎えるとインターホンを鳴らした。
直ぐにミウが出た。
インターホン越しにミウが飛び上がり絶叫する声を聴いた。
続く
