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ソノコ、……。


〈あらすじ〉
 広大な森の中腹に位置する私立白樺女子学園。その演劇部で異彩を放つ美少女・園子。彼女を主役とする演劇公演を生徒達は待ち焦がれていた。だがある夜事件が起こる。シナリオの手直しをしていた園子は帰宅するのが遅くなり、暮れかかる駅のホームの端で急行列車が通り過ぎるのを待っていた。その時、何者かに背中を押され線路に落ち、園子は死亡する。事故か自殺か判らない。やがて一年後、三年後にも同様の事件が起こる。だが、その度に何者かに足首を掴まれ難を逃れる。ミス研の翔子はその謎を解明するべく奔走する。そして七年後、園子の生まれ変わりとも思える沙耶香の登場により、九年後事件は大団円を迎える。そこには意外な真実があった。

ソノコ、……。


 夏の終わり、小高い丘の中腹にある小さな駅舎。近くにお嬢様学校と言われる学園があり、朝晩のホームはそこの女子生徒達で溢れかえる。しかし今は夏休み中であり人影もまばらだ。そして時刻は午後の八時を回り、辺りは森々とした闇に包まれていた。ホームの先にポツンと佇む小さな灯火の中を小さな虫たちが円を描いている。空には満月よりも少し欠けた青白い月。
 まもなく急行列車がこの駅を通過して行く、それを見送ってから園子が乗るべき各駅停車が到着する。園子は演劇部の副部長として秋の文化祭公演のため午後から部活登校をしていた。シナリオのいくつかを書き直していたため、帰宅時間が随分と遅くなってしまった。
 園子は演劇部の中だけに関わらず、学園内でも目立つ存在である。その美貌と成績は常に学年トップを譲らぬ秀才、そしてその佇まい、多くの下級生達は羨望の眼差しを持って園子に憧れ、その全てを追いかけていた。才色兼備という言葉があるなら、それは園子のために作られたものであろう。
 しかしその分周囲のクラスメイトからは妬みの対象となり、元来他人と心を打ち解けることが苦手な園子はクラスの中でも、また演劇部においても孤立した存在となっていた。孤高の天才美少女、それが園子に与えられた世間の風評である。
 この日も演劇部の部活において、大幅なシナリオの改訂を部員達は園子に要求した。シナリオの作成は一学年の頃から園子が担当し、概ね好評を得ていた。当然この秋の文化祭で演ずる作品も園子の書いたものである。クレームをつけたのは園子と同じ三年生の部員達、彼女達はいずれも助演という立場で数カ所舞台に立つ。登場シーンとそれに纏わる台詞について異議を唱えたのであった。
主演はもちろん園子である。そうでない限り周囲の者達を納得させられないという裏事情もあり、そこは他の部員達も認めざるを得ない所であった。園子を部長でなく副部長に添えたのも一種の策略である。だが、園子はそれらに対して何の不満も示さず、その役割を全うし、一人でシナリオの改訂を遅くまで取り掛かっていた。

 丘の中腹にある駅舎は最早すっぽりと闇に包まれていた。金曜日、園子が佇むホームには夏の生温かい空気がねっとりと絡みついていた。園子は幾分熱に浮かされたように身体を前後にゆらゆら振らつかせていた。額や喉元はじっとりと汗ばんでいる。振り向くとホームの外の木々が鬱蒼と繁り漆黒の闇を広げ今にも園子に襲いかからんとする様相を見せていた。   
 その時、園子はホームの隅にある植樹の影に何者かが潜んでこちらを見詰めている視線を感じた。ハッとしてそちらに目をやるものの直ぐにその何物かは身を隠し何事も無いように再び沈黙する。
 園子が視線を線路に戻すと、またカサカサと不審な物音を背後に感じた。何か言いようの無い身の危険を察知して園子はその場で緊張し身構えようとするが、身体はまるで金縛りにあったように動きが取れずにいた。一歩動けば、その刹那、一気に襲い掛かろうとする獣のような息遣いが充満している。
 暑い、とにかく暑い。額から流れる汗が顎から首元へ滴り落ちる。にも関わらず背筋をゾクっと凍らせる悪寒に身を震わせた。
 素早く視線を左右に走らせる。ホームに人影が無いこと、待合室のボーッと光る朧げな灯りが園子を絶望の淵に突き落とした。
 どこかで小さな高い音と唸るような轟音が聴こえて来た。視線を送ると二つの小さな光が近付いて来るのが見えた。急行列車だ。この駅を通過する。停車はしない。
 小さな光はやがてくっきりとしたおおきな電光となって車体そのものの大きさを映し出す。悲鳴のような線路の軋み音、響き渡る轟音、狂気のような色彩が眩暈を引き起こす。園子の身体は大きく前後に揺れた。
 その時、何者かが園子の背中をドンと強く押した。
 その勢いで園子は一瞬宙を舞い、線路の上に身体ごと落下する。
 目の前に迫る大きな鉄の車輪、眩しいくらいの光線が全身を包んだ。悲鳴をあげる暇もない。
 運転士は慌てて急ブレーキをかけた。飛び散る火花がまるで夏の夜空を彩る花火のように映る。鼓膜を破壊する強烈な金属音。
 言葉では言い尽くせぬ衝撃が園子の身体を貫いた。そして、世界はそこで終わりを告げた。

 数分の後、列車は急停止し、何人かの人々の叫び声が辺りに響いた。走り回る幾人かの足音。泣き叫ぶ女、ガラスの割れる音、電話のベル、遠くで鳴る花火、近付いて来る救急車のサイレン。
 慌てふためき、集まり大騒ぎする人々。
 救急車が到着し、担架が運び込まれる。救急隊員達が数名、線路に横たわる血塗れの園子の亡骸を取り囲む。
 ふり乱された髪の毛、剥き出しになった白い太腿、瞳が開いたままの美しい横顔。
 そんな光景をホームの端から園子はそれをじっと見ていた。
 運び出されるかつて自分だった物体。騒然とする学園前の駅舎。人々の顔、顔、顔。
 それらを園子は黙って見ていた。 
 誰一人彼女には気がつかない。

 ずっとそこにいると言うのに。

一年後、ユウコとレイコ

「ここってさ……」
恐る恐るゆっくりと辺りを見回しながら、ユウコは言う。
「何? やだ、何かあるの?」
怖がり屋のレイコは小さく身震いしながらユウコの左腕を掴むと身を屈めた。
「去年あの事故があった場所だよね」
「えっ、あの事故?」
二人は学園からの帰り道、丘の中腹にある駅舎のホームにいる。もうすっかり日は沈んでいた。
「ほら、演劇部の副部長してた子が走って来た列車に飛び込んで自殺したところよ」
「えっ、そうなの? 怖い」
レイコは恐々辺りを見回してみる。何の変哲もないホームが続く。生垣のような背の低い樹木が金網のフェンスに沿って植えられている。
「一応、自殺ってことで方が付いちゃってるけどさ……」
「どういうこと?」
「演劇部の先輩に訊いた話だと、その日、彼女は秋の文化祭でする劇のシナリオを手直ししていたんだって」
「そう、それで?」
「部長宛てに置いてあったシナリオにはメモが挟んであってね。とりあえずみんなの希望に沿えられるよう手直ししてみたから、また意見があったら言ってね。なんて言葉が記されていたんだって」
「へぇ、シナリオとメモが残されていたのね」
「だから彼女は秋の文化祭への取組みにかなり前向きに頑張っていたのよ。先輩もまさか自殺するなんて考えられないって言ってた」
「そうなのかなぁ」
「それから、死んだ彼女の背中に獣のような手の形をした青痣が出来てたらしいのよ。シャツの背中にも同じような痕跡があって、警察でも一旦は誰かに背中を押されたのじゃないかと相当な聞き込みをしたらいしの」
「そんな、だったら自殺じゃなくて誰かに殺されたってこと?」
「そういう可能性もあるんじゃないかって」
レイコは首を左右に振ってあまりその話に関わりたくない様子でいた。
しかしユウコは構わず一心に内なる疑問を口にする。
「それだけじゃないの。あれ以来、変な噂を耳にしたことはない?」
「えっ噂?どんな?」
「部活で夜遅くなってホームに立っていると、背後で足音がする、とか」
「誰もいないのに?」
「そうよ。それからこんな話も聞いたわ。あそこの待合室からホームを見てたら、ポツンと一人で佇む少女の姿が見えたらしくて、でも次の瞬間には誰も居なかったんだって」
「誰かの悪戯じゃないの?」
「それは分からないけど、でも一体誰が何の為に?」
「誰かが怖がるのを見て楽しむ人だっているわ」
「そうかも知れないわね。でも、もし殺された人の無念さがこの辺りに漂っているなら……」
「いや、もうやめて!」
レイコはユウコの腕にしがみついて顔を埋めた。
ユウコはレイコの頭をそっと撫でた。
「そうね、ごめん、怖がらせちゃって、今のは忘れて、全部ただの噂話だから」
二人は暫く黙ってホームの隅で身を寄せ合った。
夏の終わり、生温かい風が纏わりついて、ユウコの汗ばんだ頬から滴が一筋、首筋に流れて落ちた。
その時、レイコがビクッと身体を震わせた。
「どうしたの?」
「今……」
「今、何?」
「後ろで何か音がした」
レイコはユウコの腕に顔を埋めたままギュッと目を閉じている。
え? ユウコはゆっくり背後を振り返ってみる。
生垣が暗い。その上に広がる外の森が鬱蒼と漆黒の闇を広げている。
「誰も、居ないよ」
ユウコの声も若干震え気味だ。
レイコが何か言おうと口を開きかけた瞬間、別の方向からゴーっという低い音が響いて来た。
「な、何?」
「急行列車よ。大丈夫」
小さな光がかなりの速度でホームに近付い来る。二人は危険が無いように生垣の近くへと後退りした。
その時、ふいに二人は何者かに足首をギュッと掴まれる感触を味わった。声にならない悲鳴をあげる。
ユウコもレイコも金縛りに遭ったように動けなくなってしまっていた。
ホームに急行列車が物凄い轟音を響かせて近付いて来た。そのままこの駅舎には停らずに通り過ぎる筈。
そして、まさに列車が通り過ぎようとするその刹那、ユウコとレイコは何者かに背中をドンと押された。
悲鳴をあげて前方に倒れ込む二人。
しかし足首を別の誰かに強く握られているため、ホームから落下する事なく、その場に二人は揃って倒れた。
その数センチ手前を列車が勢いよく通り過ぎた。
二人の絶叫をかき消すように警笛がけたたましく響いた。
ホームに倒れたままの二人はうつ伏したまま、立ち上がれないでいる。
騒ぎを聞きつけ、駅員が一人二人、駆け寄って来た。
「大丈夫ですか?」
駅員に支えられてユウコとレイコは起き上がった。
膝に擦り傷が出来て少し血が流れていたが、幸いに無事だった。
「とりあえず待合室へ行きましょう。傷の手当てをしなくては」
二人は駅員に連れられ待合室に戻った。
そして事の顛末を話したが、誰も皆、不思議な顔をした。
「まあ、もうすぐ列車が来るから、それに乗って帰りなさい」
駅員はそう言って二人は頷いた。
ユウコはそっと待合室の窓からホームを見た。
そこに一人の少女が佇んでいるのを見た気がしたが、直ぐ次の瞬間には居なくなっていた。



三年後、ショウコ......


 星井翔子ほしいしょうこはお嬢様学校と呼ばれるその学園に進学すると、どのクラブにも所属せず『ミステリー研究会』なるものを立ち上げた。
 幼い頃より謎めいたことがあると極端に興味を示し、それを解明することに執念を燃やすのだ。この学園に進学したのもここにまつわる七不思議と呼ばれる怪奇現象について調査をしたくて仕方がなかったからだ。
 現在のところ部員は代表の翔子の他にもう一人、ミステリー小説おたくの早戸千里はやとちりがいるだけだ。
 翔子はもっと会員を増やすべく勧誘活動をしたのだが、仮にもお嬢様学校の呼ばれる学園である、ミステリー研究会などという怪しげな名前の会に興味を持つ稀有な生徒はなかなか現れなかった。
 千里にしてみても、ミステリー小説が好きというだけで、実際に学園に蔓延る七不思議の解明に乗り出そうとまでは思っていなかった。彼女は本来臆病で引っ込み思案な性格なのだ。
「小説を読んだり感想を話し合うだけかと思ったのよ」千里はいつも翔子にこの様な愚痴をこぼす。
「あのね。会の名前に小説とも文学とも書いてないでしょ。謎めいた事柄を実際に研究して解明するの。入会案内にもそう書いてあったでしょ、ホントにあなたって早とちりね」
翔子はあきれていつもそう言うのだったが、謎を解明するためにはどうしても助手が必要に思われたから、千里の存在は有り難かった。

 さて、七不思議についてであるが、どこの学校にも言い伝えのある様なもの、例えば、校舎の外れにあるトイレの一番奥の個室には何かがいるとか、夜になると音楽室のピアノが勝手に鳴り出すなどといったものは単なる都市伝説で、一応調査をしてみたが、全て妄想の産物であり、何の不思議も怪奇現象も存在しなかった。それと七不思議とは言うものの実際に聞き出してみると三つ四つしか無く、それでも七不思議と一括りにしたがる日本人の慣わしには笑うしかない。
 それでも翔子がこの学園を選んだのには理由がある。

 それは三年前に起こった謎の自殺事件について調査し真実を解明するためである。その事件は学園最寄りの駅のホームから当時演劇部の副部長をしていた園子という生徒が走って来る急行列車に飛び込んだというもの。園子は普段から口数が少なく友達も多い方ではなかったのでその原因については謎に包まれている。それに秋の文化祭用の劇のシナリオを作成してその公演のために力を注いでいたというから尚更、突然の自殺には合点が行かない。しかもその園子という人は相当な美形の持ち主だったからその死についてはあらぬ噂がその後飛び交っている。
 演劇部の誰かが嫉妬して突き落としたとか、顧問の教師との恋愛のもつれだとか、ゴシップ好きな女子生徒達の間で格好の話題に取り上げられたが、いずれも何の根拠も無い勝手な憶測ばかりである。
 そして有力な手掛かりとなった出来事。園子の自殺事件から一年後、二人の生徒がホームの同じ場所同じ時間帯に転倒し怪我を負っている。その内の一人、ユウコを翔子は知っていたので、入学前に話を聞きに行ったのだ。それによると急行列車が近付いて来た時、何者かに足首を掴まれ、その後背中を強く押されて前につんのめる形で倒れたとのこと。もし、足首を掴まれていなかったら、おそらく園子と同じ様に急行列車にはねられていたかも知れないと言う。
 それを聞いた翔子は俄然この事件に興味を持った。翔子の推理したところでは足首を掴んだ者と背中を押した者は別者であろう。背中を押した者こそ園子事件の犯人に違いない。

 さて、それをどうやって調査するか?
 折りしも今は夏の終わり、時季としてはピッタリと符合する。翔子は一学期の間に駅員や学校関係者、当時の演劇部員達に聴き込み調査をしていた。
 それにより、次の事柄が判明した。
1 園子事件が起きたのは金曜日の夜
2 ユウコ達が怪奇現象に遭い、怪我をしたのも金曜日
3 その後2年の間に数回、ホームで転倒した生徒がいる、例外もあるが金曜日に数回同じ事例がある。(大事には至らず)
4 足首を掴まれる前に金縛りに遭う。その後に背中を強く押される(ユウコ情報)
 翔子はホームで転倒したという生徒達にも直接会い話を伺った。それによると金縛りには遭っていない、足首を掴まれ驚いて転んでしまった。背中を押された形跡はなし。怖くなって直ぐ逃げた。足首を掴んだ何者かの姿は見ていない。以上、それだけであった。そしていずれも夏の終わり、部活で帰りが夜半になってからの出来事である。

 いろいろ考えあぐねた結果、翔子は自分自身で体験してみるしか方法はないと結論付けた。今日は事件が発生した時と同じ、夏の終わり金曜日である。今夜それを決行する決意をした。
 その日夕方、学園の部室に千里を呼び出し、翔子は念入りに打ち合わせをした。
 明らかに千里はビビっていた。
「ねえ、やめようよ。私、怖い」
 千里は何度も翔子にそう促した。けれど翔子が怯む事は無い。ますます、興味津々でわくわくしていた。
「大丈夫、金縛りを解く方法は体得したわ。それに千里は待合室から動画撮影していてくれれば良いだけだから」
「金縛りを解く方法って?」
「これよ」
 翔子は首からぶら下げた中央に翡翠を嵌め込んだクロスのペンダントを取り出して見せた。
「え? それでホントに大丈夫なの?」
「金縛りなんてものは気のせいよ。何かそれを解くと信じれるものを身に付けて持っていればOKなのよ」
「ふ〜ん、そんなものかなぁ」
 千里は半信半疑であった。

 そんな風にして二人は暮れなずむ駅舎に足を運んだ。夏休み中とあって他に学園生徒の人影はない。実験するのに持ってこいの状況だ。
 駅舎全体が夏の生暖かい空気に澱み、曇りがちの空はいよいよ暗さが増し、周囲の森は漆黒の闇に包まれ始めた。
 暫くの間、二人は待合室で周囲の様子を伺い、その時が来るのを待った。刻々と闇が辺りを支配して行く。
 ふと窓の外に目を送った翔子が囁き声で「見て」と素早く言った。
えっ、振り向いた千里の目に、ホームの隅に佇む一人の少女の姿があった。
「だ、誰?」
「園子さんよ」
「まさか!」
 そう言えば、何だか全体像が白っぽくぼやけて見えた。
「あ、消えた」
 千里が再び窓の外を目にした時、もうその女子生徒の姿は消えていた。
「そろそろ私行くから、千里はここからしっかりスマホで私を動画撮影しててね」
「あ、翔子、お願いだから、ホントに気をつけて……」と千里が言うより先に翔子はホームに足を踏み出していた。

 ホームの端の方、園子の事件やユウコとレイコがケガを負ったその付近、低い生垣のある場所に翔子は立った。
 しかし翔子は線路に背中を向け、生垣やその奥の森の方向を前にして佇んだ。制服のシャツの胸ポケットから録画中の赤いランプの点ったスマホのレンズが顔を覗かせている。
 少し風が吹いて来た。生暖かい気持ちの悪い不気味な風だった。邪悪な匂いがする。まもなく急行列車がこの駅を通過して行く。
 翔子はハッとした。金縛りだ。身体が動かない。必死になって指先、手首、肘から先に力を集中して動かそうと試みる。自然に身体が前後に揺れる。
 指先を脇腹から鳩尾の部分に少しずつ辿る様に移動させる。全身に力を込め、それだけで汗がどっと吹き出す。それでいて背筋にゾクっと冷たい氷を押し付けられたみたいに悪寒が走る。
 物凄い轟音と共に急行列車が走って来た。
 次の瞬間、足首を何者かが掴む感触を翔子は感じた。気を失いそうだ。しかし、身体が前後に揺れていたお陰で指先にクロスのペンダントが触れた。首尾よく翔子はそれを掴んで握り締める事に成功した。
 ヒュッと音がして前方から黒い得体の知れない大きな物体が翔子目掛けて飛んで来た。流石の翔子も悲鳴を挙げて、咄嗟に身を屈めた。クロスのお陰で金縛りから脱したのだ。大きな黒い物体は翔子の頭の先の髪の毛を掠めてどこかへ飛び去った。あまりの恐怖に全身がゾワっと総毛立つ。
 その場にしゃがみ込んだ翔子の背後を轟音と金属音を響かせ急行列車が走り過ぎた。
「無事だ」
 翔子はホッと一息つき、自分の足元に目をやる。白く細い手が翔子の足首をしっかり掴んでいた。その腕を辿ってその存在を目にした。
 生垣の隙間から腕を前に突き出し倒れ込む様な姿勢でその子はいた。全体が白くぼんやりとし、少し長い黒髪、鼻筋の通った白い顔立ちが透けて見える。超絶な美少女だ。
「あ、あなた、……園子さんですね」
 翔子の声は掠れて震えていた。
 園子、いや、以前園子だったと思われるその幽体は、翔子にチラリと目をやると口の端をほんの少し持ち上げ、微笑んだかと見せた瞬間、ビデオテープの映像の様にさらさらと音も無く消えて行った。

 翔子は長い間、その場に尻もちを付いた状態で呆然と座り込んでいた。
「翔子! 無事なの?」バタバタと足音をさせて千里が駆け寄って来た。
 それを見てようやく翔子は笑顔を見せた。
「ビビったぁ〜」

 明るく安全な場所に移動し、二人は互いのスマホ映像を見せ合って確認した。
 千里が撮影した動画にはホームに左を向いて佇む翔子が映っていた。急行が近付いて来るに連れて身体が前後に揺れて腕が不自然な動きをする。足元には何も見えない。急行列車の近付く音がする。だが、次の瞬間、画像は大きく揺れて全く何も見えなくなって、そして消えた。
「ちょっと、何よこれ、肝心のところが消えてるじゃない」
「ごめん、翔子の様子が変になったから、私、気が動転しちゃって撮影とごろじゃなかったの」
「全く、仕方ないわね」
 まあ、こんな事に付き合わせた翔子にも責任はある。あまり責められはしない。
 次は翔子のスマホ画像である。こちらは殆ど暗闇ばかりを映し出す。僅か下方に生垣があるのが確認出来る。人影は見えない。急行が近付いて来る音がして、勢いよくしゃがみ込んだので、映像が大きく揺れる。いやしかし、その瞬間、微かに暗闇の中に捉えた画像がある。ホームの端に小さく灯る電灯の灯りか急行のライトに照らされたのであろう。画像を戻してコマ送りして行く。
「ここっ!」
 翔子が声をあげて、画像を静止させる。
 二人でスマホ画面を覗き込む。
 翔子が指で画像を拡大する。その黒く邪悪な物体が露わになる。
「ヒッ」千里は思わず口元を押さえたが、喉の奥から叫び声が漏れた。
 翔子は長い間、その画像を見つめて、身体の芯から湧き上がる快感に胸打ち震わせて、こう呟いた。
「あなたが犯人だったのね」


五年後、カコ......


 山の中腹にある校舎、そこから森の小径を通った高台にその館はある。私立白樺女子学園の理事長・源財芳子げんざいよしこの邸宅である。
 絵里えりはその邸宅に向けて歩を進めた。訪ねるのは理事長ではなくその孫娘の華子かこ。絵里とは学園在学中からの親友である。
 二人とも演劇部に籍を置き、輝かしいとまでは言えないものの楽しくも有意義な日々を共に過ごした。ある一点を除いては。
 扉を叩くと華子の母未来みくが出迎えてくれた。華子の部屋へと案内して貰う。
「久しぶりね」
 華子は以前と変わらない笑顔で絵里を部屋に招き入れた。
「どう? 学園の司書の仕事は、慣れた?」
「そうね、ようやく何とか、という感じ。それより理事長先生……、華子のお婆様には随分とお世話になったわ」
「絵里の実力よ。採用の選考に関して祖母は何も口出ししてないって言ってたわ」
「いえ、この就職難の時代に、本当に助かったの」
「教職の免許も持っているんでしょ」
「ええ、まあ国語科なら、出来ると思うわ」
「絵里なら大丈夫よ。しっかりしてるから」
「そんなことない。今でも丘先生なんて呼ばれると、背中がくすぐったくなるわ」
 絵里はふふっと口元に笑みを湛え、部屋の内部を鑑賞した。
「ちっとも変わってないわね。この部屋」
「ほとんど留守にしてるから」
 華子は現在、都内の大学院に通っている。今は夏休みで帰省中だ。
「いつまでこっちにいるの?」
「来週には戻るのよ」
「え、そんなに早く?」
「だってもう夏休みも終わりじゃない」
「そう言えばそうね。全く月日が流れるのは早いわ」
 絵里は学園に在学していた頃、何度かこの邸宅を訪ねている。華子が演劇部の部長で絵里は記録係兼マネージャーみたいな立場だったから何かと打ち合わせと称して二人で話す機会があった。
「あのバルコニー……」
 絵里は華子の部屋に隣接したバルコニーに視線を移した。
「うん? どうかして?」
「いえ、昔、よくあそこで森を眺めたよね。懐かしいわ」
「そうだったわね。ちょっと出てみる?」
 今日は空も曇り空で夏の日差しは軽減されている。それにこの辺りは高原で夏でも涼しい風が吹く。
 二人は揃ってバルコニーに出てみた。白い石垣で囲われたその場所は開放的で学園の裏側一体に広がる森を一望し、遠くの山の稜線が遥かに見渡せた。
 絵里は久しぶりに眺めるその風景に目を細めてその空気に触れた。
「あ、あれ」
「なぁに?」
「あそこの木々の隙間から、駅のホームが見えるわ」
「そうね、端の方だけど」
 あれは……、昔、あの忌まわしい……。
 絵里がほんの少し回想に耽っていると、
「あら、あの子達、何をしてるのかしら?」と、華子が森の小径を指差した。
 見ると学園の生徒が二人、体操服姿で小径をウロウロしている。
「ああ、あの子達、さっきここへ来る途中で会ったわ。部活動なんだって」
「え? あんな所で、何してるんだろ?」
「森の中は危険だから早く戻りなさいと言ったのに、まだあんな所にいたのね」
 絵里はため息をついて腰に手を当てた。
「部活動て、何のクラブ?」
「えっと、確か、ミス研とか言ってた」
「何? ミス研て」
「多分、ミステリー研究部のことじゃないかな」
「え、そんなクラブ有ったっけ?」
「私達の在学中には無かったわよね」
 絵里は、つい先程、その二人組と小径で出会った時のことを思い出す。

 突然、林の中から出て来た二人組に絵里は大層驚いた。体操服姿で学園の生徒だと分かる。臙脂色だから三年生だ。
 何してるの? 絵里の問い掛けに目の大きな利発そうな子が臆せずに応えた。部活動です、と。
 首から大きなカメラをぶら下げている。もう一人の子は髪をツインテールにして眼鏡をかけて少し内気そうな素振りをしていた。こちらも双眼鏡を首からぶら下げ、手には何かメモするノートを握っている。
 絵里が何と言おうか戸惑っていると、利発そうな方の子が、大丈夫です、もう戻りますから、と言って、じゃ、と去って行こうとする。
 体操服の胸にはそれぞれの苗字が手書きされた布が貼り付けられている。チラッとそれを見ると『星井』という名が見て取れた。もう一人は、何だったかな、『早』という文字が見えた気がする。
 去り際に、何のクラブ? という絵里の問い掛けに、星井という名の生徒が目を輝かせて答えた。「ミス研です」
 ミスケン? その言葉が、ミス研、ミステリー研究部に落ち着くまで、絵里には数秒の時間を要した。
 一体、ミス研が森の中で何を調べているのだろうか?
 まさか! と絵里は一瞬、ある事柄に思い当たる。しかし、それこそ、まさかのまさかだ。長年絵里が不審に思っていること、それを誰が知るというのか……。

 そろそろと西の空の方の雲が朱色に染まり始めた。徐々に森の色が深く濃くなる。
「ねえ、華子、実は以前から貴女に尋ねてみたいと思っていたことがあるの」
 絵里の質問に華子はちょっと微笑んで小さく首を傾げた。
「何かしら?」
「わたし、実は、何度か見かけたの」
「見かけた? 何を?」
「このバルコニーで、貴女が大きな鳥を肩に乗せているところ」
「鳥?」
「ええ、多分、この森に住んでる野生の鳥だわ。種類までは分からないけど」
 華子は暫く黙していたが、観念したようにやがて口を開いた。
「ラファエルというのよ」
「ラファエル?」
 華子は少し微笑んで、「わたしが勝手に名付けてそう呼んでるだけ。小さい頃からのわたしの友達」
「友達?」
「ええ、時々このベランダに来ては、羽を休めていたの。丁度今あなたが立ってる石垣の上辺り」
 えっ、絵里は驚いて後退りし石垣に目をやる。もちろん今はただの白い石があるだけだ。
「それを手懐けたの?」
「手懐けたは酷い言い方だわ。友達だって言ったでしょ」
「そう、それは今でも?」
「そうね、あなたが来る少し前にもそこに居たのよ」
 絵里は再び驚いて石を見る。何の形跡も無い。
「あれは、もしかして、この森の主?」
「さあ、それはどうか分からないけど、もうかなりの老梟ね」
「梟だったの?」
「正確にはシマフクロウて言うらしいけど、そんなことなんだっていいわ。わたしにはラファエルで充分、それが聞きたかったこと?」
「いえ、実は、あの頃の、あなたと園子の間のことだけど……」
 絵里は思い切って初めて正面からそう切り出した。それはこの学園に戻ってから日に日に思いが募っていたことだ。
「園子?」
 華子は泰然としたまま、まるで初めて聞く名前のようにその名を口にした。
「表向きには、演劇部の部長と副部長という関係だし、実際に仲も良かったのだろうけど、何か、それだけでは無かったのじゃないかしら?」
「それだけでは無い? どういうこと?」
「う〜ん、上手く口では言い表せないけど、いつも主演は園子で、そしてそれは学園中の誰もがそう望んでいたし……」
「……だから?」
 絵里は少し落ち着こうと深呼吸をした。
「この際だから、はっきり言うわ。貴女、園子に嫉妬していたのじゃない?」
「嫉妬? まさかそんな」
「知ってるわ。貴女がそんなこと、決して口に出さないことも、でも貴女はこの学園の理事長の孫だし、校長の娘。本来なら演劇の主役は貴女が務めるべきものよ」
「そんなことは関係ない」
「関係無くはない筈よ。演劇部の女子達はみんな貴女の味方だった。だからこそ、園子さえ居なければ、なんて口には出さないけど、みんな思ってた。実際、部内で園子が孤立してたこと、知ってたでしょ」
「それで園子が自殺したとでも言いたいの?」
「そうじゃないわ。あれは……」
「あれは、何?」
「……事故よ」
「事故? そうなのかな」

 華子は黙ったまま遠く山の稜線に目を向けた。それはまるで五年前の過去を思い出して眺めている様にも見えた。
「ここから見える駅のホーム、あそこからあの日、園子は走って来た列車に飛び込んだのよね」
 華子は何かしら悲しいものを見るみたいに厳しい眼差しでそちらを見詰めた。唇はギュッときつく結ばれている。
「ねえ、聞いて、わたしの勝手な憶測だけど」
 華子は静かに絵里に視線を戻す。
「まさか、まさかだけど、華子、貴女、ここからラファエルに命じて……」
 華子は若干、不意を突かれた様にたじろいだ素振りを見せたが、
「ラファエルに命じて、何をしたと言うの?」
「そ、園子の背中を……」
 それ以上は言葉にならなかった。

 少し涼しい風が強く吹いて来た。
「ああ、そろそろ暗くなる。わたし戻らなきゃいけない。今話したことは忘れて、全部わたしの勝手な妄想だから」
 華子と絵里は黙ったまま、部屋を出て玄関へと続く階段を降りた。
「それじゃ、また、今度いつ会えるか分からないけど、元気でね」
 絵里はそう言うのがやっとだった。
「もし……」華子が口を開いた。
 絵里は黙って振り向いて華子を見た。底の知れない大きな瞳が絵里を捉えている。
「もし、ラファエルが園子を突き落としたとして、それがわたしの命じたことだったなんて、誰が証明出来る?」
 ひっと喉の奥で何かが鳴るのを絵里は感じた。
 夏の終わりを告げる冷たい風が吹いた気がした。

「冗談よ」華子は笑った。
「そんなこと、ある訳ないじゃない」
 華子はそう言ったけれども、何だか気不味い妙な空白が生まれた。
「ひとつだけ聞かせて、あの日の夜、駅のホームに立っている園子を華子はバルコニーから見てたの?」
 一瞬の間があった。しかし、素っ気ない風に華子は一言口にした。
「見てないわ」
 二人は互いの瞳の奥を覗き合った。
「華子、これだけは信じて、わたし貴女を糾弾しようと思ってここへ来た訳じゃないのよ。ただ、ただ、あの日何があったのか、本当のことを知りたくて、それだけなの、でないとわたし、園子に申し訳なくて……」
 暫く黙していた華子はきっと目元を強くして絵里を見た。
「分かってる。わたしだって園子のことを思うと、胸が苦しくなる。でも、あの頃のわたしはどうしようもなくて……、園子が、憎かった。それがまさか、あんなことになるなんて……」
 華子はゆっくりと呟いて、初めて絵里の前で顔を歪めた。
 絵里は俯いて顔を背けた華子の背中に手を置いた。
 思ったより華奢な肩先に震えを感じて絵里はハッとした。
 結局、互いにそれ以上の言葉を発することが出来ないまま、小さく手を降って、二人は別れた。

 邸宅を出て暗くなりつつある鬱蒼とした森を見上げた。
 全ては謎のままだ。
 しかし、これ以上、何を訊けばいいのか?
 絵里は再び、あの忌まわしき過去の出来事を、胸の奥深くに封印することを選んだ。
 けれど、園子の美しく、それでいてどこか淋しげな横顔を思い出すたび、心のどこかが痛くなる。多分、これからもずっと……。
 けれど今更、何を思ってもどうしようもないことだと諦めて、ふとため息を漏らした。もう園子は戻らない。
 その時、傍でガサガサと音がして走り去る足音を聞いた。
 林の影にチラッと臙脂色の体操服の背中が見えた気がした。
 まさか、ミステリー研究部のあの子達、まだ近くにいたのだろうか?
 もしや先程の華子との会話をどこかで聞かれていたのかしら。
 妙な胸騒ぎがした。
 あの子達、三年生の星井さんともう一人、早、早、そうだ思い出した。早戸さん。
 要注意な二人だわ、と絵里は思った。
 でも、二人とも感じの良い生徒だった。ミステリー研究部だなんて、一体誰が顧問をしてるのだろう。
 今度誰かにそっと尋ねてみようかな。
 小径を歩きながら絵里はそんなことをふと考えていた。



七年後、ソノコふたたび……

 丘の中腹にある小さな駅、そこから坂道を登って行くと白い校舎がある。あたりを広大な森に囲まれた城壁の中に三つの棟があり、一番高い棟の西端に鐘楼がある。校舎の南側に沿ってそれぞれテニスコートやグラウンド、体育館などが併設されている。『私立白樺女子学園』その高等部に丘 絵里おか えりは勤務している。
 縁あって母校に就職出来て三年目を迎えた。現在は新米の国語教師だ。それまでは図書館で司書の仕事をしていた。
 在学中は演劇部に所属していたが、現在は文芸部の顧問をしている。部員は十名にも満たないが、少数ながらも精鋭なる生徒達が所属している。
 部活動の一環として毎年春と秋に季刊誌を発行している。春は『春光』、秋は『秋麗』というタイトルの小冊子だ。小説、詩、俳句、随筆など部員達による創作物が誌面に並ぶ。昨年は絵里の書いた随筆なども『秋麗』に掲載された。
 今年はまもなく『春光』の発行があるので、今はその作品選考と誌面の編集作業を同時進行させていて、何かと忙しい。

 絵里がその生徒を見掛けたのは、新年度が始まって数週間経った午後のことだった。
 体育館から渡り廊下を通り第二校舎の階段を上ろうとしたところ、上から降りて来た何人かの新一年生達とすれ違った。絵里とすれ違う瞬間、生徒達はそれぞれ挨拶をして軽く会釈する。まだ真新しい制服の紺色が映えて初々しい生徒達、その黒髪からはまだ少女の幼さが香り立つ。毎年味わうこの瞬間が絵里は好きだった。彼女達から漂う女子校独特のかぐわしい香り、桜の季節も相まって、新鮮な空気感に胸がときめいてしまう。
 そんな中、やや遅れてすれ違った一人の生徒がいた。挨拶をして会釈する、その刹那、絵里は身体を硬直させて我が目を疑ってしまった。

 園子……?

 一瞬にして記憶が甦る。俯いた時に髪を耳にかける仕草、か細い腕、白い指先、柔らかな前髪、その下から臨く涼しげな瞳、鼻筋、唇の形、身体つき、その生徒は園子そのものに見えた。
 階段の途中で身を凍らせて振り返る絵里、集団に遅れまいと幾分駆け足で渡り廊下へと遠去かる後ろ姿、まさに生き写しとしか思えない。あまりの衝撃に声も出せない。こんなことって、あるのだろうか……。

 早速、絵里は学園内で管理する生徒の身元情報をPCで調査した。最近は個人情報保護の問題があるので、教師であってもその閲覧手続きはややこしい。毎年変わるエンコードや教師の個人ナンバーを入力しないとその画面は見れない。いつ誰が何を閲覧したのか全て記録されるので取り扱いには要注意なのだ。
 さて、暫くして画面に現れた新一年生のページを順番に探って行く。名前が分からないから一人一人ゆっくり吟味して行く。PCの画面に次々と生徒の顔写真やプロフィールが映し出される。ラスト近くでようやくその顔に行き当たった。
 鈴木沙耶香すずきさやかそれが彼女の名前だった。
 鈴木……、そうそれは、園子と同じ姓。
 まさか、もしかしたら親族なのかと、家族構成欄や住所なども確認したが、繋がりは判別出来なかった。
 鈴木という苗字は一般的で世の中にはたくさんの鈴木姓の人がいる。それら全員が親戚であるはずがない。偶然の空似かと絵里は思うしかなかったけれど、気になる存在だ。
 しかも、驚くべきことに彼女は演劇部に所属していた。

 放課後、絵里は理事長室をノックした。室内には病気療養中の祖母に代わり、二年前から理事長職に就いている源財華子げんざい かこがいる。絵里とは高校時代の同級生であり、当時所属していた演劇部の部員と部長の関係だ。
「あら、珍しいわね、まあどうぞ、ゆっくりして」
 大きなデスクから立ち上がって華子は向かい合うソファに手招きした。壁には大きめの絵画が掛かっている。
「文芸部の方はどう? そう言えばそろそろ春の文集が発行される季節よね」
「そう、多分、今月末くらいに」
「去年の秋に出た号であなたの随筆も読ませてもらったわよ。さすがに優れた文才の持ち主だと感心させられたわよ」
「まさか、お世辞なんて言わないでよ」
「本当のことよ。在学中からあなたのシナリオはとても評判が良かったじゃない」
「それは、みんな慰めを言ってくれただけよ」
「そうかしら?」
 絵里も演劇部員の頃、いくつかのシナリオを執筆した。しかし、採用はされなかった。それよりも素晴らしいシナリオを書ける人がいたからだ。
「ところで、華子、あ、ごめんね、理事長先生って呼ばなきゃいけないわね」
「何言ってるの、二人きりの時は華子で良いわよ。あたしも丘先生じゃなくエリって呼ぶから、で、何のご用?」
「あなた知ってる? 一年生にいる鈴木沙耶香って子」
 瞬間、華子の表情が引き締まったのを絵里は見逃さなかった。
「ああ、あの子……」
「まるで園子そのものじゃない」
「驚いた?」
「驚くなんてものじゃないわ、凍り付いたわよ」
「そうね」
 あたしもよ、と華子は呟いた。
「演劇部ですってね」
「そうらしいわ」
「歴史は巡るって言うけど、またあんな子がこの学園で演劇やるなんて、ちょっと、なんか、言葉にならないわ」
 結局、華子も鈴木沙耶香のことについて、それ以上の詳しいことは知っていなかった。もちろん園子との繋がりも。

 文芸部の部室に顔を出してみると、部長の芥川りさと副部長の直木薫子の二人の女生徒が絵里の前に進み出た。
「先生、これ」と言って数枚の原稿を差し出す。
「なあに、これがどうしたの?」
「これ、ミステリー研究会の子が置いてったんですけど、今度の文集に載せて欲しいって言って」
「あら、そうなの、どんな内容かしら」
 絵里はその原稿を手に持ってみた。表紙に題名と著者名が記されている。
『シマフクロウの生態について』ミステリー研究会 星井真実 
 と、書かれている。
「ほしい……、しんじつ?」
「まさか先生、ほしいまみさんですよ」
 二人の生徒は笑った。
「ああ、そうよね、でも、ミス研の星井さんて、以前にも聞いたことがあるわ」
「二年前に真実さんのお姉さんが立ち上げたサークルです。正式には部では無いのですけど、星井さん達は部活って呼んでます」
「へえ、そうなの。で、何? シマフクロウの生態を研究してるの? この子達」
「さあ、よく解りませんけど、一応私も読んでみました。そこの森に住んでるシマフクロウが時々人を襲う習性があるとか、なんとか」
「そう、で、これを『春光』に載せて欲しいってわけ?」
「そうなんです」
「まだページ数に空きはあるの?」
「ええまあ、それは大丈夫ですけど」
「そうなの、じゃ、一応私が預かって内容を確認するわ。載せるかどうかはそれから決めましょう」
「はい、お願いします」
 そんなやり取りがあった。

 その夜、絵里は少しどきどきしながら星井真実が書いた『シマフクロウの生態について』を読んでみた。と言うのは、二年前、源財華子の部屋で見たシマフクロウ、それは華子が幼い時から森に住んでいて、その老いた大鳥は華子に懐いていた。確か、名前は、キリスト教に出て来る天使のような名だった、具体的には思い出せない。絵里はその時、華子がそのシマフクロウを使い、走って来る急行に園子を突き飛ばしたのではないかと、言及したのだった。
 結局、その件に関しては、なんの証拠もないもので、仮にそうだとしてもシマフクロウがやったことに刑事責任は取れない。園子は自殺したものとして処理され、それは今でも変わりはない。要らぬ詮索をして華子を苦しめたかとそれ以後絵里は気に病んでいた。
 それはともかく原稿を読む。綺麗な文字で読みやすい文章で綴られている。最初は一般的なシマフクロウの生態、それを読むといかにシマフクロウが家族思いの愛情溢れる生き物であるかということが分かる。それから日本に置ける分布、それは主に北海道、樹木の多い森や山、湖や河川の近くに生息する。当、白樺女子学園はまさにそんな中に設立されている。だが今や絶滅危惧種の指定も受け、隣接する森の中にどれだけのシマフクロウが生息しているかは現時点で不明である。
 数は不明ではあるが、いくつかの目撃証言はある。ミステリー研究会ではそのうちの何羽かが森を飛翔する姿をカメラで捉えている。原稿にはその画像が添付されていた。
 さて、この論文の主旨とされる所は、そのシマフクロウが人間にどれほどの危害を加えるものなのかということの調査についてであった。基本的にはアイヌ文化ではフクロウ達は村の守り神とされ、実際には人に危害を与えるどころか近寄ることも少ないという。それは猛禽類全般に言えることで、巣を荒らすなどの行為をしない限り彼らが人を襲うことはまずあり得ない。
 だが、何かを故意に躾けられた鳥はどうであろう。
 そこでミステリー研究会ではこの五年間に渡って鳥類か何かの襲撃、または接近を感じた学園生徒を捜し出し、状況などをインタビューしては、その件数や時季と状況を調査していた。
 それによると件数は凡そ十二件、平均すると年間に二回から三回という件数である。そして時季は夏の終わりから秋口にかけて、時刻は夕方から暗くなる頃、場所は学園の周囲で不特定とされる。そのうち、実際に怪我(これは殆どが驚いて転倒したものだが)をした生徒は半数の六名であり、残りの六名については襲われそうになったものの接触することは無く飛び去って行ったと言う。
 それらは野生の猛禽類には考え難い行動である。餌付け等を利用した何かの行為が為されていない限りはあり得ないのではないかと述べている。
 そして絵里が尤も注目したのが、七年前に起こった生徒Sの自殺案件に、この猛禽類の行動が関連していたのではないかという推察だ。その可能性もあくまで否定出来ない一つの検討材料としてミステリー研究会として意見を投げ掛けている。
 さて論文では結論を出していない。この調査結果を出すことにより、注意を促し、さらなる証言者を広く募ってはいるが、安易に森に入ることの危険性を訴え、特に絶滅危惧種に対しての意識を高める取り組みの実施を呼びかけている。

 読み終えて絵里はパタリとその原稿を膝元へ置いた。良い内容だったと思う。個人的には掲載したいと思う。しかし、シマフクロウを故意に躾けて生徒を襲わせている(あくまで仮定の話だが)ことを匂わせたり、それが園子(文中では生徒S)の死亡原因にまで関連があるのではないかとの考察、これらの記載については、一般生徒に与える影響も少なからずあるのではないかと思われ、一応学園の許可を得た上で判断した方が良さそうだ。

 でもその前に一度星井真実に会って話を聞いてみたいなと考えた。
 次の日、早速、ミステリー研究会の部室に赴き星井を訪ねてみた。ドアをノックすると、はーいと元気な声がして、小柄な少女が姿を見せた。
「あなたが星井真実さんね。文芸部の顧問をしてる丘です」絵里は名乗った。星井は幾分緊張した表情でピョコンと頭を下げた。
 ショートの髪型で目がくりっとしている。男の子みたいで可愛らしい。
 星井は「どうぞ」と言って室内のテーブルイスに絵里を案内した。室内にはもう一人、メガネ姿でツインテールの生徒がいた。確か以前にもそんな子がいたような気がする。デジャブかしら。その子は隣の机で一生懸命に何か書き物をしている。
 絵里の前に座りかけた星井はすぐにまた飛び跳ねて、「あ、今すぐお茶を」とあたふたした。落ち着きのない子だ。
「いいのよ、そんなことは、それより、この原稿、読ませて貰ったわよ」
「は、はい……」星井は叱られた仔犬のような顔をして再びイスにチョコンと腰掛けた。
「感心したわ。文章も上手だし、論点もしっかりしてる」
「ありがとうございます」
「いろんな資料が添付されてたけど、これはみんなあなたが調査して集めたの?」
「あ、いえ、わたしと、部員があと二名いますし、当初の資料や写真は姉が集めたものです」
「お姉さんがこのミス研を立ち上げたのよね。一度見かけたことがあるわ。今どうしてるの?」
「は、姉はH大学で、今はS市に住んでいます」
「そう、優秀なのね」
「いや、それは、どうかな?」
 絵里は真実の言い方が可笑しくてちょっと笑った。
「それでね、これを『春光』に載せたいって話、詳しく教えて、何故そう思ったの?」
 明らかに真実は狼狽した。返答はいえ、そのとか、言葉を探してしどろもどろだったが、絵里は気長に待った。
「つ、つまり、研究の成果、いえ成果と言えるほどのものじゃないのですけど、どこかで発表の機会を求めてたんです」
 と、今度は一気に早口でそう捲し立てた。それが本音だと思う。
「そう、でもシマフクロウを誰かが故意に人を襲うように手懐けたとか、七年前の列車事故に言及するのは、少し問題有りね。どうしてそう思ったの?」
「あ、あ、それは、姉の推理でして、あ、でもわたしも同意見でありまして、ミステリー研究会としては、ひとつの推論、それを提示したかったので……」
 星井真実は小柄な身体をますます小さくした。
「この件に関しては一旦保留で、改めて後日返事させて頂くわ、それで良いかしら?」
「あ、もちろんです。よろしくお願いします」
 机に額が密着するほど頭を下げる星井を見て、ふふふと絵里は心の中で笑った。面白い子だ。
「あ、それから、もうひとつ伺ってもいい?」
「はい、なんなりと」
「一番最後にシマフクロウを目撃したのはいつ?」
「あ、それは、わたしではなくて、マキです」
 そう言って、先程から隣の机で一生懸命書き物をしているメガネでツインテールの生徒を指差した。
「マキさん?」
「はい、3Bの伊達です」彼女は椅子をガタガタとさせて背筋をピンと垂直にした。3Bというのは3年B組のことだ。
「見たのはあなた一人?」
「はい、たまたま一人でした。体育館の裏の小径あたりで」
「それは、いつ頃かしら?」
「去年の秋です。多分、9月の終わり頃」
「飛んでいるところを見たの? 写真は?」
「写真は撮れませんでした。一瞬でしたから」
「そう、森の中を飛んでいたの?」
「いえ、あの、あそこから理事長先生のご自宅のバルコニーが見えるんです。そこから森の方へ飛んで行きました」
「あのバルコニーから……」
 そこなら絵里も行ったことがある。華子の部屋に隣接しているバルコニー。
「バルコニーには誰かいたのかしら?」
「多分、理事長先生だと思うのですが、後ろ姿をチラッとだけ……」
 それ以上、特に聞き出せることは無かった。
「そう、分かったわ、ありがとう」
 そう言って絵里はミステリー研究会の部室を後にした。

 その日の放課後、絵里はもう一度理事長室にて、華子と向かい合っていた。
 華子は長い時間をかけてミステリー研究会星井真実の『シマフクロウの生態について』の論文を熟読した。
「エリはどう思う?」
「わたしは別に構わないとは思ってるんだけど、学園側としてはどうかしら、何か問題になりそう?」
「エリが良いと思うんなら私は構わないわ。論文としてもよく出来てると思うし」
「そう、ならいいわ。じゃ掲載するって方向で作業を進めるわよ」
「ねえ、エリ」
「え、なあに?」
「確か、あなたも以前、そんなこと言ってたわよね」
「え? 何だったかしら?」
「私がラファエルに命じて園子の背中を押させたとか、そんなこと」
 そうだ、ラファエル! 華子に懐いているシマフクロウの名前。
「気にしてるの?」
「気にはしてないわ。あなたの方こそどうなの? まだそんなこと思ってるの?」
「思ってなんかないわ。可能性として考えられないことではないけど、何の根拠も無い話だし」
 二年前、あのバルコニーで華子と話をした。それまでにも華子が大きな鳥を肩に乗せているところを見かけたりした。あの場所から駅のホームが見えて、思わずそんなことを口にしてしまった。
 走って来た急行に飛び込み自殺したことになってる園子の本当の死因が知りたくて、突然思いついた突拍子もない、そんな疑問をぶつけてみたのだった。
 あの時、華子はなんて答えたのだっけ? そうだ、もしそうだとして誰がそれを証明出来るかと問い掛け、その後、冗談よと笑ってそんなことある訳ないじゃないと否定した。
 それ以来、絵里はその問題を考えることを放棄した。
 それがまたミステリー研究会の星井真実が書いた論文によって掘り返されようとしているのだ。
 華子はこの論文を『春光』に掲載することをあっさりと許可したけれど、本心はどうであろう?
 流石に七年も経てば、園子の事故の件を知っている生徒は少なくなった。だからそう思うと単なる絵里の取り越し苦労かも知れないが、妙に心が落ち付かない。
 それに去年、華子の部屋のバルコニーから飛び立つラファエルらしき大鳥の姿をミス研部員の伊達が見ているのだ。
「最近はどうなの? ラファエルは元気にしてる?」
「いいえ、最近はもうすっかり姿を見せないわ」
「最後に見たのはいつ?」
「さあ、いつだったかしら? 一年くらい前だと思うけど、思い出せないわ」
「そうなの」
 華子は少し怪訝な顔をした。
「それがどうかしたの?」
「ああ、別に、何も、ちょっと聞いてみただけよ」
 華子はふ〜んと言う風に何度か頷いて、チラリと絵里に視線を送った。
 会談はそれで終了した。絵里は原稿を持って職員室に戻りかけた。

 廊下の角を曲がったところで、急に走って来た生徒とぶつかってしまった。
 キャッと短い悲鳴をあげて、絵里は後ろの壁にぶつかり手をついた。
 走って来た生徒は勢い込んでその場に倒れ込んだ。長めの髪の毛が肩にばらけて広がった。スカートの裾が乱れて白いソックスの上のふくらはぎと太腿が顕になった。
「だ、大丈夫?」
 絵里が声を掛けると生徒はどこかを強打したのか、少し呻いて上半身を起こして顔を見せた。
 園子! 
 絵里の心臓がピクリと五センチほど飛び上がった。
 いや、違う、生徒は鈴木沙耶香だ。
 間近で見れば見るほど、沙耶香は園子に瓜二つだった。
 それは本当に、生き写しみたいに。

「すみません。あっ」謝った沙耶香は右肩を押さえて顔を顰めた。
「肩を打ったのね、何を急いでいたの?」
「いえ、部活の練習に行こうとしてて……」
「そう、とりあえず、一緒に保健室に行って診てもらいましょう。部活の方は後でわたしからちゃんと説明するわ。これでも演劇部のOBなのよ」
 沙耶香は頷いて立ち上がった。背の高さも園子くらいだ。
 保健室で診て貰ったところ、単なる打撲らしい。骨折などしていなくて安心した。
「でも今日は静かにして落ち着いたら帰った方がいいわ」
「はい、ご迷惑かけてすみません」
「もう謝らなくていいから」絵里はすっかりしょげている沙耶香の手の甲の上に自分の手のひらを重ねた。
 絵里の方も壁に背中をぶつけたので一応診て貰ったが、こちらは何ともなかった。丈夫に出来てるのねと笑った。
 鈴木沙耶香は二つある簡易ベッドの壁際の方に横たわった。絵里は向かいのベッドに腰掛けた。
「ねえ、鈴木さん、いい機会だから、ちょっとお話ししたいのだけど、いい?」
「あ、はい、もちろんです」
「あ、その前にわたし、誰だか分かる?」
「お、丘先生ですよね」
「そうよ、知っててくれたんだ。良かった。それでね、突然変なこと訊くようだけど、鈴木園子という名前に心当たりない?」
「え? いえ、ありません」
 沙耶香は唐突な質問に目を丸くして返答した。
「そう、私と同級生だったのだけど、親戚とかそんなんじゃないわよね」
「ええ、違います」
「そう、実は七年前、ここの学園に在籍中だった時、亡くなったのよ。あなたと同じ演劇部でね」
 びっくりした様子。
「どうして、亡くなったのですか?」
「ちょっと、事故があってね」
「そうですか……」
「で、なんでこんな話をしてるかって言うと、あなたがよく似てるのよ。園子に」
「えっ? 私が?」
「似ているなんてものじゃなくて、そっくり生き写しみたいで、わたし初めてあなたを見かけた時、園子がいるんじゃないかとびっくりしてしまったのよ」
「え、そんな……」
「ああごめんね、いきなり変な話しちゃって、でも園子はあなたと同じでちょっと人目を引く程の美少女だったの」
「いえ、わたしはそんな美少女だなんて……、あ、でもそれでなのかな?」
「なあに、何か思い当たることでも?」
「いえ、そうじゃないのですけど、実はミステリー研究会の方がわたしに何か取材させて欲しいって、今度の日曜に家に来てくださる予定になっているんです」
「えっ、ミステリー研究会? 星井さん達ね」
「そうです。三年の星井さんともう一人メガネの……」
 あの二人か、もう何か嗅ぎつけたのね、やっぱり油断ならない生徒達だわ。
「彼女たち、その取材の件、何か言ってた?」
「いえ、ただ、学校ではなくてお家に伺いたいって言うものですから」
「お家の方へね」つまり、身元調査かな?
「さあ、それは……」
「そう、分かったわ。ありがと。じゃ、今わたしが話したことは気にしないでね。もうとっくの昔の話だから。さ、そろそろ私は行くから、今日は安静にして早い内に帰った方がいいわよ」
 そう言って絵里は立ち上がった。
「いろいろすみませんでした。ありがとうございました」
 沙耶香はベッドの上で上半身を起こして頭を下げた。
「いいから、いいから、じゃ、またね」
 絵里は保健室を後にした。

 それから一週間ほど後のこと、絵里は用あって体育館に出向いたついでに、裏の小径に出てみた。
 ほんとだ、こんなところに小径があるなんて知らなかった。この辺りはほとんど人も通らない。ひっそりとした場所だ。小径はなだらかな坂になっており、そのまま森の奥まで続いて行くように思えた。
 少し先まで歩いて見ると木々の隙間から空が見えた。そして、源財家の館がかすかに臨く、華子の部屋にあるバルコニーの辺り。
 そうか、ミス研のメガネのツインテールの女の子、名前は何と言ったっけ、去年の秋、ここから森に飛んで行く大鳥(たぶんラファエル)と華子の姿を目撃したという。それはこの場所からだったのに違いない。もうこの先は大きな樹木に囲まれていて、そのまま森の奥へと入ってしまう。
 しかし、華子はもう一年以上もラファエルの姿を見ていないと言った。あれはラファエルではない別の鳥だったということもある。でもそうじゃないとすると、隠しているのか、もしくは記憶違いなのか、定かではない。
 そんなことに考えを巡らしていると、そのバルコニーにほんの一瞬、人影が見えて、すぐ消えた。
 あれ? 華子だったのかな? 確認出来なかった。今は昼休み、華子の場合は常に理事長室に詰めている訳ではないから、自宅に戻っていたとしても、何ら不思議ではない。
 反射的にあたりの空を見回してみたが、シマフクロウらしき大鳥の姿はどこにも見えなかった。
 小首を傾げながら体育館の方へと戻る。大きな鉄製のドアを開けようとしたら、向こう側から外に出ようとした生徒と鉢合わせした。
「あら、あなた達」
「あ、丘先生、こんにちは」
 ミス研の星井真実とツインテールメガネ、名前は……、そうだ、伊達マキ!
「何してるの? また調べもの?」
「いえ、そうじゃないんです。こうやって学園内のあちこちを回って歩くのが、私たち部活の一環で……」
「そうなの、ご苦労様ね。あ、ところで、あなた達、一年生の鈴木沙耶香さん、知ってるわね?」
「え、ええ、まあ……」
 二人は急にもじもじし出す。
「鈴木さんから聞いたんだけど、何か取材に行ったとか」
「あ、はあ、はあ、そうでした。お聞きになりましたのですね。はい、行きました」星井が答える。
「それは、何故?」
「は? 何故と言いますと?」
「どうして鈴木さんを選んで取材に行ったの?」
 あきらかに星井はドギマギし出した。マキは下を向いてる。
「いや、特に意味はなく、って言うか、あの子凄い美少女で、演劇部員で、なんか凄く才能あるって聞いてて、それで、ちょっと話を聞いてみたいな、ていう、それだけなんです」
「そう、ほんとにそれだけ?」
「え、そ、そうです」
 絵里はふ〜んと呟きながら二人の周りをジロジロと見て回った。そこで質問を変えてみた。
「ねえ、星井さん、あなたの書いた論文、『春光』に掲載することに決定したわ」
「は、そうなんですか。ありがとうございます」
 二人揃って深々とお辞儀をする。
 なんだか、アーティスティックスイミングの選手みたいだ。微笑みたくなる。
「それでね、ひとつ訊いてみたいのだけれど、論文の中に七年前に事故死した生徒Sさんてあるでしょ」
「……はい」
「星井さん、あなた、Sさんを知ってるの?」
 二人は明らかに不意を突かれてその場に硬直したように見えた。引きつった顔の表情も見事にシンクロしている。
 この後、絵里の尋問により、星井真実の話したことの要点を絞ると、Sさんつまり園子の写真を姉の翔子が持っていて、それを見たという。当時園子が三年の時、星井翔子はまだ中等部だったのだが、園子は学園内では下級生達から憧れの的とも言われる程の有名人だったから、写真を持ってるくらいのことは充分に有り得る。そして、真実は当時の列車事故の件も姉から聞いたと言う。
 鈴木沙耶香が園子に瓜二つであることは園子の写真を見れば一目瞭然だ。しかも同じ演劇部。そこに不思議な共通点を見出せる。ミステリー研究会が放っておくことはまずない。
 絵里はミス研の二人が鈴木沙耶香と園子の間に何かしらの接点は無いものか、それを捜りに行ったと推測している。だから、その結果が知りたかった。
「それで、何か、分かったことは、あるの?」
 絵里の問いに、二人は落胆の素ぶりを見せ、
「全く繋がりはありません。鈴木園子さんと鈴木沙耶香さんは他人の空似でした。演劇部に入ったのも単なる偶然のようです」と、やはり飼い主に叱られた仔犬のような顔をして答えた。
 だからと言って、この子達が油断ならないことは絵里もだんだんと分かって来ている。何か隠し事をしていても不思議ではない。
 けれど、ひと先ず今はこれくらいにしておいてやろう。そう思ってミス研の二人とはそこで別れた。

 その日の放課後、絵里は三たび理事長室に出向いた。運良く華子は在室していた。
 ほんの少し、世間話を交わした後、不意に絵里は本題を切り出した。
「ラファエルのことだけど、この前、私があなたに尋ねたこと覚えてる?」
 華子はほんの少し思いを巡らすふりをして、
「最後に見たのはいつだったかって話?」
「そう、それ、華子は一年以上も見ていないと言ったけど、去年の秋頃に、見たのじゃない? もしかしたら、ラファエルじゃなくて、別の鳥だったかも知れないけど」
「去年の秋? どうして?」
「ミス研の子がね、体育館の裏の小径から見かけたらしいの、バルコニーに立つあなたと、飛んで行く大鳥を」
「体育館の裏の小径、そんなところから見えるの? 知らなかった」
「そう、それはわたしも今日の昼間、確認したわ。あなた、その時、自宅にいたのじゃない?、チラッと人影が見えたのよ」
 華子は何か深く考え込むような姿勢でいた。その指先はほんの少し震えているようにも見えた。
「そうね、お昼休みは一度、自宅に戻ったから、あの時ね。それにミス研の子が見たというのが、去年の秋のことだというのね」
「ええ、そういうこと」
「じゃ、わたしの記憶違いだったわ、そうだったのかもしれない。でも、それが何か重要なことなの?」
「いいえ、そうじゃないの、最近、不思議なことが続いてたから、何か気になってて、あの一年の鈴木沙耶香って子があまりにも園子に似てたから」
「やっぱり絵里はまだ、ラファエルが園子の背中を押したと思ってるのね」
 華子のド直球な指摘に、絵里は背中が冷やっとするのを隠せなかった。
「まさか! そんなこと、この前も言ったでしょ、そんなこと思ってないわ、思ってない、だけど……」
「だけど、何?」
「分からない」
 そう何も分からない。分かったところで、それがどうなることでもない。けれど、気になってしまう。本当はどうだったのだろう。園子は自らの意思で自殺しようと列車に飛び込んだのか、あるいは何かに押されて……、あの星井真実が書いた『シマフクロウの生態について』という論文を読んでから、絵里の胸の中に一旦は深く鎮めたはずの疑問が、再び、沸々と湧き上がって来たのだ。

 その時、理事長室のドアをコンコンとノックをして年配の男性がおずおずと入室して来た。学園の用務員をしている初老の男性職員で昔から絵里も華子とも顔馴染みだ。
「あ、お話中のところ、すみませんでした。理事長代理様宛に郵便物が届いておりましたので、お持ちしました」
「ああそう、ありがとう」
 華子はそれを受け取ってチラッと表書を見てデスクの上に置いた。
 用務員は、その場で一言二言、前理事長の様子を華子に伺って、その返事に安心したように部屋を出て行った。
 一時は寝込んでいた華子の祖母も最近は室内や館の周りを散歩したり、体調は徐々に回復して来ているという。絵里もその話を聞いて良かったと心からそう思った。
 さて、何の話をしてたんだっけ?
 用務員さんのゆっくりで穏やかな物言いを聞いてたら、頭の中がポカンと真っ白になったみたいだ。
 ふと、時計を見ると、もうこんな時間だ。
「ごめん、長居しちゃって、そろそろわたし行くわね。『春光』の編集がもう大詰めに近付いて来たから何かと文芸部も忙しいのよ」
「有能な部員さん達がいるじゃない」
「芥川さんと直木さんね。ほんとにあの子達には助かってる。だけど顧問として、ちゃんと傍にいて見守ってやらなけりゃね」
 華子は嬉しそうに微笑んで見せた。
「エリは昔からそういったタイプだったわね。いつも傍にいて私を支えてくれてた」
「そんなこと」
「『春光』の発行、楽しみにしてるわ」
 華子はそう言って絵里を送り出した。

 絵里は理事長室から文芸部部室に続く長い廊下や階段、渡り廊下などを歩きながら、独り回想に耽った。
 華子はわたしを信頼してくれている。わたしだって、華子を、でも、なんだか、今日の華子の様子はいつもとは少し違う感じがした。気のせいだろうか?
 冷たく無機質に光る学園の長い廊下を歩きながら、絵里は何か小さな違和感のようなものを感じ始めた。

 何だろう? いろいろなことが頭を駆け巡る。最近絵里の周りで起こった様々なこと、耳にした言葉の数々、深く考え込むような姿勢でいた華子の姿。震える指先、用務員さんの言葉、ミス研伊達マキが証言した去年の秋に見かけた理事長先生らしき姿という言葉。

 何だろう? 何かが引っかかる。何か、わたし、とんでもない大きな間違いをしていたのではないだろうか?

 用務員さんの言葉、そうだ、確か郵便物を持って来て……、理事長代理様宛……、そう言った。
 華子が理事長代理になったのは二年前、だから今の一年生や二年生にとっては華子が理事長先生だ。
 でも三年生はどうだろう。そもそも理事長が生徒の前に出て話をするのは入学式と卒業式の二回だけ。

 すると三年生にとっては理事長先生というのは自宅療養している華子の祖母、源財芳子のことだったとしたら……。
 ミステリー研究会三年生の部員・伊達マキにとっての理事長先生とは?
 去年の秋、バルコニーに見た理事長先生と思われる人とは、もしかしたら……。

 今日の昼間、体育館の裏の小径からチラリと見えたバルコニーの人影は、本当に華子だったのか?
 そして、華子が子供の頃から親しくしているシマフクロウが同じように祖母である芳子にも懐いていたとしたら……。

 シマフクロウは人を襲わない。けれど故意に人の手によって調教されていたとしたら……。ミス研星井の論文の言葉がよみがえる。

 めまいがして頭がくらくらする。
 学園の廊下や階段、教室、窓、天井などが渦となって迫って来る。そして、その中心から猛禽類の鋭い瞳が、今にも獲物を捉えようと襲いかかって来る。
 絵里は声にならない悲鳴をあげてその場に蹲って両手で顔を押さえた。

 ねえ、園子、教えて、あなたは何故、死んだの?
 ああ、わたしにはわからない。



九年後、サヤカ……へと、つづく


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