【映画】名無し~山田の野性・スズキの理性・佐藤の知性
どうも巷では「爆弾」のヒットからの、佐藤二朗を使って二匹目のドジョウを狙った作品であるかのように言う人もいるらしいが、まずその意見は明確に否定されなければならない。
2020年頃にまず「名無し」の原案となる脚本を佐藤二朗が書き、数十社にプロモーションしたが採用されず、お蔵入り寸前。
2022年4月に「爆弾」刊行。
2024年10月に「名無し」が漫画連載開始。
2025年1月から「爆弾」撮影開始。
2025年4月に「爆弾」の映画化発表。
2025年後半に「爆弾」のプロモーションが本格化し、映画「名無し」の撮影開始。
2025年10月に「爆弾」公開、「名無し」映画化発表。
2026年5月に「名無し」公開。
整理すると「爆弾」のスズキタゴサクの影も形もない時点で「名無し」の山田太郎は生み出され、少なくとも爆弾の撮影以前に漫画として造形されているということはハッキリしている。
その上で、2本の映画の撮影が連続して行われているということになる。
スズキタゴサクは坊主頭、山田太郎はザン切りの短髪という設定なので、撮影上の都合も良かっただろうし、衝撃的なふたつのキャラクターが連続して劇場公開されることはプロモーション的な効果も大きいとは考えられる。
ただ、制作会社も配給会社もこの2作はまったく別なので、あえて制作時期を重ねたとは考えにくい。
結果として(おそらくは)偶然に、とんでもなく絶妙なタイミングでこの特異なキャラクターを映す2作品が制作・公開されたという事になるのだろう。
【映画】名無し
出演:佐藤二朗・MEGUMI・佐々木蔵之介・丸山隆平
監督:城定秀夫
原作・脚本:佐藤二朗
あらすじを書こうとすると、ファーストシーンから全ての物語を書き起こしたくなってしまうので(笑)、特に印象に残っている部分や気になる部分等をネタバレ込みで列挙するに留める。
おそらくは観る人によってストーリーやキャラクターの捉え方が全然違うだろうと思う。従って、公平性や思想などは全く無視した完全な私の独断的視点になる。
ちなみに、私は原作マンガを読んでいないので、映画のみの感想になる。
強烈なスプラッター映像
本作で映像的にショッキングなのは主人公「山田太郎」による無差別大量殺戮のシーンだろう。
一切の躊躇無く、誰彼構わず周囲に存在する人間を片っ端から刺殺・撲殺・射殺していくのだが、それがまさに血みどろのスプラッター映像になっている。
これは監督のコメントにもあるのだが、CGではなくポンプを使って実際に血飛沫を作り、しかしそれがあまりにも大げさになれば一気にリアリティが失われることから、画面構成も緻密に考慮しながら撮影された生々しい映像になっている。
これで映倫の指定がPG12である。
素晴らしい。映像の衝撃でもっと厳しくされてもおかしくないのだが、非常に巧くかわしている。
山田太郎の「異能」
山田太郎の右手は触れたものを消し、命あるものはそれを奪うという異能を持っている。
城定監督はその異能に原作にはない発動条件を与えたと語っている。
その条件というのが「太郎自身がその名前を知っている事」「鏡や水面などの反射物質にはその姿が映る」ということである。
「太郎が名前を知らぬ花は消えないが知った瞬間にその姿が消え、腐る」
具体的にはそういう描写になる。
この異能と条件付けにより、太郎が手にする刃物や金属バット、拳銃などの凶器は人の目に映らないというトリックが生まれる。
極限の心理描写
ではなぜ山田太郎がこのような凶行に及んだのか?
ここでこのキャラクターに対して「サイコパス」という言葉を使うのは適当ではない。
彼の精神が完全に崩壊した原因は「絶望」であり、その時点まではその異能によって人を傷つけないように、自ら社会と距離をとってひっそりと暮らしてきたのであって、元来は決して反社会的な人格の人間ではないのだ。
ここでこの作品は山田太郎を介して「真の絶望」を示している。
貧困、迫害、虐待、孤独等様々な要素は暗に提示されるが、結果としてその引き金となるのは他者との関係性が完全に絶たれた瞬間である。
詳細は省くが、太郎は発見された段階で後に「山田花子」と名付けられる少女と共に生き、養護施設でも大人になってからもずっと一緒に暮らしていたのだが、後に花子は妊娠し、少なくとも太郎はそれを喜び誕生を心待ちにしていた。
しかし出産が近くなったある日、花子は失踪し、10年後に再会した時彼女は太郎のような特殊な人間を産みだすことへの恐れから「子供は堕ろした」と宣言する。
そして太郎は花子を殺す。
もともと他者から距離を置き、できるだけ社会と関わらないように暮らし、花子との細々とした関係だけが人間関係の全てだった太郎は、子を失い、花子を殺したことで世界から完全に孤立し「真の絶望」から凶行に走るのだ。
太郎は幼少期から右手を封印して生きてきた。
「真の絶望」からその封印を解いた。
右手で握った凶器を介して人に触れた。
これは太郎の絶望が生み出した歪んだコミュニケーションだったのではないか?という見方もできるのかもしれない。
人間関係
山田花子以外に太郎と接触する人間が数人いる。
照夫
後に太郎と花子と名付けられる少年少女を発見した警察官でありその名付け親でもある。
ふたりを養護施設に入れ、自分の子であるアツシも含めて遊びに出かけたり、孤立しがちな太郎を励ましたりする善意の人。
ある日、孤独感から太郎が飛び降り自殺をしようとした時、それを救おうとして太郎の右手を握り、死亡する。
「お前は独りじゃない」「空はつながってる」と太郎に語りかけ、太郎はその言葉を信じて生きてきた。
ある意味で、太郎が感じた「真の絶望」は「お前は独りじゃない」という言葉を否定されたことによって生まれたのかも知れない。
また逆にラスト近くで太郎は「繋がってたのか」という言葉を発するが、これはみんな「空の下で繋がってる」ということに気付いたという意味にも取れる。
アツシ
照夫の息子。
幼少期に太郎、花子と交流があった。
照夫が死んだ時、太郎と共にいたところを目撃している。
国枝
太郎の事件を追うことになる刑事。
実は、成長したアツシである。
神の視点
これは佐藤二朗脚本作品に共通していることなのだが、視点が非常にドライで、人の感情を無理に動かそうという意思が感じられないし、画面に映るもの以外の部分に関して説明的になり過ぎることがない。
監督脚本をし強迫性障害を描いた「memo」や島の娼館を描いた「はるヲうるひと」と、感触がよく似ている。
ある意味でドキュメンタリーのように、登場人物の行動を淡々と描いて心理の吐露は最小限である。
これは彼らの動く狭い世界を天上から俯瞰しているような描写だと感じる。
神の存在
この映画のファーストシーン、大量殺戮の最初の犠牲者となる女性はなんらかの宗教に関係する人物で、神について語っている途中で刺し殺される。
山田太郎にはほとんどセリフがないのだが、その数少ないセリフの中に「神様、ヒマしてるなら俺と手をつなごうよ」と空に向かって語りかけるものがある。これは「俺の右手でお前を殺してやるぞ」という意味だろう。
また、ラストシーンは少年が空を睨みつけ、天に向かって唾を吐く場面である。
極限まで追い込まれた者が神を頼りしかし突き放されたことに対して、ファーストシーンで反旗を翻し、中盤で挑発し、ラストでは明確な敵意を示して終わる。
山田太郎への感情移入を許さない
こういった話の多くでは、凶行に至った経緯を悲劇的に描いて共感を求める描写がされる場合もあるが、本作にはそういう意思が全く見えない。
たとえ太郎がどんな苦しみの中で絶望しようとも、この男は完全な悪として描写することは揺るがない。
佐々木蔵之介が演じる国枝は、この事件の捜査にあたって「この男はクソだ」と言い、ラストで太郎と死闘を繰り広げた後も「お前はただのクソだ」と言い放つ。
これは太郎のバックボーン無しに見たとき、大多数の人が感じる事を代弁しているのだと考えられる。
上記「神の視点」と同様、その事件、その現実を仮に報道で知った場合、ほとんどの人が「こいつクソだな」と吐き捨てるだろう。
非常に乾いた視点だと思う。
山田太郎の最期
山田太郎は、かつて自分が入所していた養護施設で行われている祭りに紛れ込み、群衆を無差別に殺戮する。
その群衆の中に、自分の子供時代とそっくりの少年を見つける。
やがて国枝との死闘の後、右手を撃ち抜かれ担架に縛り付けられて護送される寸前、その少年が近づき、お互いの右手が触れ合うことにより太郎は絶命する。
特に説明はないが、実は花子は太郎の子を産み、施設に預けていたということだろう。そして、子に遺伝した右手の異能により、太郎は死んだという理解で良いと思っている。
さて、この子はどうなるのだろうか?
当然、鑑賞者は気になる。
そしてラストシーン。
この少年は天を睨みつけ、天に向かって唾を吐くのだ。
山田太郎とスズキタゴサク
前述の通り、山田太郎はスズキタゴサクのヒットによって生まれたキャラクターではない。そのはるか以前に佐藤二朗によって生み出されていたキャラクターである。
しかし、このふたりには共通点があり、それが意識的かどうかは別にして映像としても表現されている。
髪
「爆弾」のタイトルバックではスズキタゴサクの散髪風景がシルエットとして映される。
「名無し」の作中で、花子を殺した後、山田太郎は長髪を自らハサミでザン切りにし、血塗られた床に髪が散らばっている様子が映される。
これは共に、行動前の「覚悟」を表現している。
完全な断絶
スズキタゴサクは好意を寄せていた明日香から身代わりになってくれるよう頼まれた時「もういいや」と中日ドラゴンズのキャップを脱ぎ捨て、爆弾魔に変貌する。
山田太郎は、花子を殺し、全ての繋がりを失った時、無差別大量殺人犯に変貌する。
どちらも、自分以外の誰かとつながっているというギリギリの希望を絶たれた瞬間を描いている。
佐藤二朗の表情
これはもう佐藤二朗の演技のクセなのかも知れないし、意識してそうしてるのかもしれないので、私の勝手な想像に過ぎないのだが、スズキタゴサクが清宮を追い詰め「心のかたち」を明示する過程で、舌なめずりするような表情を見せる。
山田太郎が最後の凶行に及び、現場に駆けつけた国枝に対峙する瞬間、やはり同様の表情を見せる。
私は山田の舌なめずりを観て、すぐにスズキタゴサクを想い出した。
なんというか、宿敵をロックオンした時の表情なのだろうと思う。
名無し
山田太郎も山田花子も、照夫に発見された当時は名前さえ与えられていなかった。
スズキタゴサクは、おそらく自らの経歴とともに実の名を捨てたのだろう。
あと、もうひとり、やはり佐藤二朗主演の映画で「さがす」という作品があるのだが、この中に登場する殺人鬼も「名無し」と呼ばれていた。
名前も与えられなかった人、名前を捨てた人、「名無し」と呼ばれた人、全てが「名無し」である。
穿った見方をすれば、名無しとは「名もなき人」すなわち庶民、市井の人々、私でありあなたであり多くの隣人であるとも言えるだろう。
名前
この映画のエンディング曲はnovel coreの「名前」という曲である。
私自身はこの人を全然知らないが、他の楽曲を聴くとミクスチャー系の音楽家であるようで、激しめの曲が多い。
しかしこの曲では極めて抑制的に、映画のストーリーをなぞるように丁寧な楽曲を提供している。
映画「名無し」の映像とコラボしたMVが秀逸である。
名前/novel core
映画「名無し」
この作品にはどこにも救いがない。
最期まで深い絶望感に支配されている。
それでも映像的な衝撃以外に、なにかが引っかかって心に残っている。
残念ながら私の住む地域ではミニシアター1館、2週間の公開期間だったので1度しか観に行く機会が作れなかったのだが、実際に鑑賞してみると、本作も「爆弾」同様に、観るたび新しい発見があるだろうと思えるような実に興味深い作品だった。
どこかのサブスクで配信が始まったら何度か見返したい作品である。

