月曜日

 番号をもらったとき、最悪だファック、とハルは思った。49。これはハルの母方の祖母が忌み嫌っていた番号で、日本人の彼女は、「死」と「苦しみ」につながる言葉だと言っていた。ハルは特段迷信深いわけでもないが、この数字を祖母が教えてくれたときのことはなぜだかよく覚えていて、酒帯びで事故を起こしたときも「49番通りストリート」だったから、ああやっぱりとその子どものころの出来事を再び思い出す羽目になった。どうせなら34がよかった。アストロズの永久欠番。ライアン・エキスプレス。
「34だ!」
 隣の男が口笛を吹いた。ぎょっとして見ると、目があった。ブラジルか、メキシコか、そっちの方の風貌と言葉遣いで、いやあすまないねなどということを早口でまくしたて、番号の札を見せてきた。「アストロズの伝説の番号なんだよ。今日はツイてる」
 男はそれだけ言って、先程から話をしていた反対側の女性に向き直った。おしゃべりな男で、女性はやや迷惑そうな顔をしていたが、遮るほどでもないという感じで相槌をうっている。ハルは少しだけ安心した。彼は口下手で、この「月曜の会」に来るときも、自己紹介のセリフをわざわざタイピングして印刷してきたぐらいだったからだ。共通の話題がありそうな人間が近くにいることは、少なくとも会話に困りそうにはないということだ。それに、この「34」の男は、口から先に生まれてきたような風情だから、沈黙に困るということはあるまい。
生徒のみなさんオールステューデンツ
 かすれたマイクの声が入った。「月曜の会」のメンバーは一斉に声の方を向く。皆、パイプ椅子に座り、ぐるりと円を描いていて、マイクの声は、ハルのちょうど対面の位置にいた。ハルの母親より少し若いぐらいだろうが、マイクを通さずとも声にも動きにも張りがあるのがわかる。「生徒?」と、「34」の男は呟き、「おいおいここは学校かよ。ちょうどいいね、オレは中退してっから」
「もちろん冗談です」
 耳ざとくマイクの女性は言った。「けれども、この『月曜の会』で多くの卒業生を出していることも事実です。その証拠に、この会は定員が決まっているのですが、今日は新顔が多いでしょう。順調に出席し、悩みを相談し、みなで協力をしていけば、アルコール依存から卒業することができます。その意味で私は教え導く教師であり、あなたたちは迷える子羊というわけです」
 「34」は、わざとらしく大きな拍手をした。他の出席者もつられて笑顔になり、拍手をする。ハルも拍手をしながら、子羊ね、と舌打ちした。ハルの母親も教師であり、そして、その母親とはもう何年も会っていなかった。
 その「女教師」は、自分の本名でも、あだ名でも、胸元の番号でも、好きに使って構わない、と言った。自分のいちばん安心できる方法で自己紹介をしてください。可能なら、アルコールに頼るきっかけになった出来事や、自分の抱負など、そういうことを聞かせてもらえると嬉しいです。ここは学校であり、そして私たちは同じ目的をもっているという点では家族ですから。
 自己紹介が始まった。彼女の隣から時計回り。「マライア」と名乗ったやせすぎの女性は、夫との離婚のことを語りだした。暴力的で、犯罪歴のある彼女の夫との暮らしは血生臭く、聞いているこちらの気持ちまで暗くさせた。ハルはなるべくそれを聞かないようにして、順番を数えた。7番目。今朝自分でタイピングした自己紹介の原稿はすべて頭の中に入っている。父は優秀な技師だったが、ハルが生まれる前に、事故に巻き込まれて早くに死んだ。酔っぱらいのタンクローリー。僕は初めからお酒に呪われている。2番目の男性は「2」と数字で名乗り、あまり話したくない、酒は早くためたい、とだけ語った。ハルは自分の自己紹介を頭の中で繰り返す。母は厳格で、テレビはおろか、ラジオすら聞くことのできない少年時代だった。とにかく与えられた本を隅から隅まで覚えるまで読んだ。3番目。沈黙が五秒続いてそれきり。この町に出てきたのはとにかく母親から離れたかったからだ。初めは順調だった。恋人もできた。でも、彼女とうまくいかなくなってから、酒を買うようになった。4番目の女性は子供の頃の性暴力の話を始めた。ハルは恋人との幸せな日々を思い起こした。映画の好きな娘だった。初めてキスをしたのは、ドライブイン・シアターで、『バックトゥザフューチャー』のパート1。5番目。両親の自殺がきっかけ。お酒が飲めないときは風邪薬のシロップを飲んでいる。ハルは一度試したけど、それは自分には合わなかったことを思い出した。そういえば風邪を引いて熱を出したとき、母親のつくるチキン・スープがとても好きだった。自分で何度かつくろうとしたけど、どうしても同じ味にはならなかった。
「オレは生まれたときから酒に呪われてるんだ」
 6番目。「34」がしゃべり始めた。ハルは顔を上げた。「オレの親父は、オレの生まれる前に、トラックに轢かれて死んだ。そいつは重度のアル中だった。だからだ。だからオレの人生は、その始まりから酒に呪われている」
 え、と思わず声が漏れた。左隣の老人が、怪訝そうにハルを見た。ハルは口を半分開けて、「34」を見ている。
「オレの母ちゃんは教師で、まあ、厳しかった。綴りを間違えようもんなら、こうよ」男はぴしっと手の甲を自分で叩いた。いい音が響いた。「ものさしでね。ものさしが近くになけりゃ、フライパンで。そのうち、台所に立つだけで右手を隠すようになっちまったよ」
 それから「34」の男は家を飛び出し、仕事を転々としながらも、自由な生活を楽しんだという話を続けた。彼は恋人の話をし、彼女の太ももの内側についているほくろの数までしゃべった。ハルもその数を知っていた。
「こう見えても初心な男でさ、キスひとつでめっちゃ緊張したよ。ドライブイン・シアターでさ」
 ええっと、なんの映画だったかな、と男は言った。ほら、タイム・トラベルするやつ、と言うので、ハルは「バックトゥザフューチャー」と呟いた。「34」の男はびっくりしたように「そうそう!」と叫び、「よくわかったなあ」とハルの頭を小突いた。
 男はそれからハルのよく知っている話の続きをし、「49番通り」の事故で締めくくった。ハルの番になった。ハルは黙ったまま、隣の男を見ていた。34。ハルは自分の頬を思い切り両手で叩いた。男はまだそこにいた。でも、それが幻でないという証拠はなかった。幻であるという証拠もなかった。
「ええっと」
 ハルは言った。「君に質問なんだけど。ナンバー34さん」
 ん、と怪訝そうな顔を「34」の男はしたが「構わないぜ」とにっこり答えた。
「もしかして、桜の木が好きかい?」
「おお、なんで知ってるんだ」
 「34」の男は大げさに驚いた顔をしてみせた。「うちのばあちゃんが日本びいきでさ。春には必ずここで写真を撮るんだって言って、よく無理やりおめかしして写真を撮ったもんさ」
「嫌だった?」
「まさか」男は笑った。「オレはおばあちゃんっ子だったからな。すすんで毎年撮影したよ」
 ハルはそれを聞くと、にやりと笑い、「嘘だ」と言った。それからもう一度大きな声で「嘘だ!」と叫んだ。周りが驚いた顔をする中、彼はけたけた笑い声を上げながら、部屋を出ていった。どうやらあいつは幻じゃない。ただのニセモノだ。ハルはそう思いながら通りを歩いた。なぜって、祖母を自分は嫌いだったから。母も祖母を憎んでいたから。二人で殺して、桜の木の下に埋めたのだから。
 この町のことはよく知っている。この夜遅い時間でも、横丁のそこでは酒を売っているだろう。まだ月曜日だ。一週間は、始まったばかりだ。ハルはわくわくとした気持ちを、押さえきれなかった。