確認する優しさは、本当に優しいのか
こんにちは、義村大雅です。
「今日、何食べたい?」という、ごく普通の会話から、最近考えるようになったことがあります。夫婦や恋人の間ではよく、「何食べたい?」「何でもいいよ」「何でもいいが一番困る」というやり取りがあります。
でも、冷静に考えると少し不思議です。「何食べたい?」と聞かれて、特に食べたいものが思い浮かばなければ、「何でもいい」と答えるのはかなり自然です。文法的にも、会話としても、それほどおかしくありません。
それなのに、「その答えでは困る」と怒られる。このすれ違いを見ていると、問題は答えた側ではなく、最初の質問の仕方にあったのではないかと思います。
本当に聞きたかったことは何だったのか
本当は、「今日の夕食が思い浮かばないから、一つ案を出してほしい」と聞きたかったのかもしれません。あるいは、「今日は買い物に行かず、家にあるもので作りたい。その条件で食べたいものはある?」という意味だったのかもしれません。
もし、そこまで言われていれば、「じゃあカレーはどう?」「鍋なら家にあるもので作れそう」と答えやすくなります。つまり、「何食べたい?」という質問には、本来伝えるべき目的や条件がかなり省略されています。
質問した人の頭の中には、献立が決まらない、一緒に考えてほしい、何か一案ほしい、という背景があります。しかし、それを言葉にせず、相手が自然に補ってくれることを期待している。
言葉にしなかった目的まで、相手に考えてもらおうとしている。 この小さな省略が、恋人や夫婦の間で意外と大きなすれ違いを生んでいるのではないでしょうか。
疑問形は、相手に考える仕事を渡す
もちろん、質問すること自体が悪いわけではありません。相手の意見を聞くことも、確認することも、人間関係では必要です。
ただ、「どうしたい?」「どう思う?」「これでいい?」と、目的や条件を示さずにふわっと聞くと、相手は答えを考える前に、質問の意味を考えなければなりません。
何を求められているのか。どこまで自由に答えていいのか。相手は本当はどうしたいのか。言葉どおりに返して大丈夫なのか。質問の裏側にある意図まで推測する作業が始まります。
質問した側は、相手を尊重しているつもりかもしれません。自分で決めつけず、相手に選んでもらっている。だから、優しく聞いている感覚があります。
しかし、聞かれた側からすると、質問者が整理しなかった情報まで、自分で整理させられています。ふわっと聞く人が省略した思考を、答える人が引き受けているとも言えます。
特に仕事から帰って疲れているとき、何を食べるか、どこへ行くか、どう過ごすかを立て続けに聞かれると、それだけで会話をする気が薄れてしまうことがあります。
「何でもいい」という返事は、無関心だから出るとは限りません。本当に希望がない場合もあれば、もう判断する余力が残っていない場合もあります。
恋愛は、言葉の意味を推理する関係になりやすい
恋愛関係では、疑問形の裏に別の意味が隠れていることがあります。「これでいい?」と聞かれて、「いいと思う」と答えたら、実は相手は嫌だと思っていて、それを察してほしかったということもあります。
反対に、「これでいい?」と聞いたら、「逆に、いいと思う?」と返されることもあります。そうなると、単純な確認だったはずの会話が、急に難しくなります。
本当に意見を聞かれているのか、反対してほしいのか、不安だから背中を押してほしいのか、嫌だという意思を遠回しに伝えているのか。答える側は、言葉ではなく、その裏側を推理し始めます。
親しい関係ほど、「これくらい分かってほしい」という期待が強くなります。表情、声のトーン、過去の会話、以前の喧嘩まで思い返しながら、相手の本音を読み取ろうとします。
もちろん、恋人同士だからこそ分かるニュアンスもあります。ただ、それを毎回求められると、会話はかなり疲れるものになります。
恋愛で必要なのは、空気を読む力より、お互いに空気を読ませすぎないことなのかもしれません。
自分の希望をはっきり言うと、わがままに見えるかもしれない。相手を否定したように受け取られるかもしれない。だから、疑問形にして柔らかく伝えようとする気持ちは分かります。
しかし、自分の中では答えが決まっているのに、相手に自由に決めさせるような形だけを取ると、相手は隠された正解を当てなければなりません。それは優しさというより、かなり難しい推理ゲームです。
子どもに疑問形を投げすぎていないか
この話は、子育てにもつながると思っています。最近は、子どもの意思を尊重することが大切だと言われ、「何が食べたい?」「何を着たい?」「どうしたい?」と聞く場面が増えています。
子どもに選ばせる経験は必要です。ただ、何でも疑問形で投げれば、主体性が育つわけではありません。特に小さな子どもにとって、白紙から考えることは大人以上に難しい場合があります。
例えば、「何が食べたい?」と聞かれて、子どもが「アイス」と答えたら、「それはご飯じゃないからダメ」と言う。子どもからすれば、質問に正直に答えただけです。
「何を着たい?」と聞かれたから好きな服を選んだのに、「今日は寒いからそれはダメ」と却下される。これでは、自由に選ばせてもらったのではなく、親の期待する答えを当てさせられています。
それなら最初から、「今日はご飯と麺ならどちらがいい?」「寒いから上着は着よう。赤と青ならどちらにする?」と、親が決める範囲と子どもが選ぶ範囲を分けた方が分かりやすい。
これは、子どもの自由を奪うことではありません。むしろ、考えるための条件を大人が整理して渡すことです。
「どうしたい?」が重すぎることもある
子どもに自立してほしいと思うほど、親は「あなたはどうしたいの?」と聞きたくなります。自分で考え、自分で決められる人になってほしい。その願い自体は自然です。
ただ、迷っている子どもに結論まで求めると、判断を委ねるというより、責任を返しているだけになることもあります。
例えば、習い事を続けるかどうか。子どもの中には、上手くなりたい気持ちもあれば、練習が嫌な気持ちもあります。友達には会いたいけれど、先生は苦手かもしれません。親をがっかりさせたくない気持ちもあります。
その状態で「結局、どうしたいの?」と聞かれても、簡単には答えられません。大人でも整理できないような感情を、子ども一人で言葉にして、結論まで出すのは難しいことです。
そんなとき、親が「最近、行く前に嫌そうにしているから、少し疲れているのかなと思っている」「僕は一度休んでもいいと思う」と、自分の見方を示してもいい。
親の意見を伝えることは、子どもの意思を奪うこととは限りません。何も示さず、すべてを本人に決めさせる方が、かえって重い場合もあります。
子どもに必要なのは、何でも自由に決めることではなく、決めるための足場なのかもしれません。
共通言語が少ない時代のすれ違い
以前は、恋人や家族の間で「これくらい言わなくても分かる」という感覚が、今より通用していたのかもしれません。同じテレビを見て、似た情報に触れ、近い価値観の中で生活していれば、曖昧な言葉も補いやすかったのでしょう。
しかし今は、同じ家で暮らしていても、見ている情報も、価値観も、恋愛観も違います。同じ言葉を使っていても、そこから受け取る意味は人によって大きく変わります。
「何でもいい」が本当に何でもいい人もいれば、察してほしいという意味で使う人もいます。「これでいい?」が単なる確認の人もいれば、反対してほしい人もいます。
空気を読めない人が増えたというより、読むべき空気の種類が増えすぎたのだと思います。
だからこそ、以前なら成立していたふわっとした疑問形が、今はミスマッチを起こしやすくなっています。相手が自分と同じ前提を持っているとは限らないのに、同じ意味を読み取ってくれることを期待してしまうからです。
疑問形の前に、自分の考えを置く
僕が言いたいのは、疑問形を一切使うなということではありません。相手の意見を聞くことも、確認することも必要です。
ただ、会話の最初から、相手に意図を推測させるような疑問形を投げるのはやめた方がいいのではないかと思います。
「何食べたい?」とだけ聞くのではなく、「今日の献立が思いつかないから、一つ案を出してほしい」と伝える。「どうしたい?」と聞く前に、「僕はこう考えている」と言う。
「これでいい?」と聞くなら、何を確認したいのか、どこが不安なのかを少し説明する。疑問形の前に、断定文を一つ置くだけで、相手の負担はかなり減ります。
断定することは、相手を支配することではありません。自分の考えや状況を先に差し出し、相手が答えやすい状態を作ることでもあります。
優しい人とは、何でも相手に聞く人ではなく、相手が答えやすいところまで自分の考えを整理してから聞ける人なのかもしれません。
確認することは、本当に優しさなのでしょうか。
それとも僕たちは、確認という形を使いながら、自分が言葉にしなかった部分まで、相手に考えさせているのでしょうか。
