見出し画像

あの日見たオレンジ色



2024年12月。
秋なんて、あってなかったようなもので、季節はあっという間に冬になった。

「どうしたの?」
「調子悪い……」
「また?」

コロナ後遺症になって、はや1年。
この日も朝から調子が悪く、私はベッドで横になっていた。明日は、通信制高校のスクーリング──単位のために、オンラインではなく現地に行って受けなければならない授業があった。
最近の体調を考えると、集団授業に参加するのはかなり難易度が高い。1時間、座っていられるだろうか。倒れたらどうしよう。どうしても怖くなってしまう。ああ、行きたくない。でも留年したら、また来年もスクーリングに行かなきゃいけないし──



お腹が痛い。気持ち悪い。体が重い。それに加えて、スクーリングへの不安が募る。そわそわして、落ち着けなくて、ベッドにはいたものの私は1度も眠らなかった。正確には、眠れなかった。ただひたすら涙を流して、ぼーっとしていた。そんな現実から目を逸らしたくて、スマホを何時間もスクロールし続けたけれど、何も頭には入ってこなかった。


気づけばお昼の時間になっていた。キッチンからは食器の重なる音が聞こえる。

「桜ー、お昼ご飯食べるよー」

お母さんが私を呼んだ。返事はしなかった。しばらくして、お父さんが私の部屋を覗きに来て言った。「ご飯食べないの?」。返事はしなかった。



辛かった。何をするにも体調の心配が着いて回る。授業自体が嫌なわけじゃない。面倒臭いから行きたくないとか、そういうわけじゃない。高校卒業だってしたい。
でも、でも怖いの、



私は、コロナ後遺症になる前まで通っていた全日制高校で1度、倒れたことがあった。
今でもはっきりと覚えている。国語の授業中、あと5分で終了のチャイムがなる13時40分のことだった。いきなり酷い腹痛が襲ってきて、目の前が真っ暗になった。
──なにこれ。痛い。痛い、どうしよう。
ハッと目を覚ました時には、先生が私を支えていた。椅子から転げ落ちていた。周りのクラスメイトみんなが、私を見ている。何がどうなったのか、分からなかった。先生は、私の背中をとんとんと叩きながら優しい声で何度も「大丈夫ですよ」と言ってくれた。
チャイムが鳴る。もう5分経ったのか。
先生は「今日の授業はこれで終わりね!」と言って、私を保健室まで連れて行ってくれた。仲の良い友達も、心配して付き添ってくれた。「大丈夫?」と聞かれたけれど、今の自分が大丈夫なのか大丈夫じゃないのかもよく分からなくて、「多分」と曖昧な答えをした。保健室で横になりながら、クラスメイトが私を見ていたことを思い出す。恥ずかしかった。普段から目立つようなタイプではなかったから、余計に注目されたことが恥ずかしくて、消えてしまいたくなった。



──ここまで鮮明に覚えているから、駄目なんだろうなと思う。苦しかった瞬間を忘れられれば、ここまで集団授業を怖がることもなかったかもしれない。何度も何度も思い出して、記憶定着のお手伝いをしている自分が、馬鹿みたいだ。
そのせい、かは分からないけれど、やっぱり悪いことばかり考えてしまう。上手くいく未来がとても想像できない。お母さんにはずっと「気にしすぎだよ」と言われてきた。「そうだよな」と思うと同時に「じゃあどうすれば気にしなくて済むのだろう」とも思った。
私にはまだ、乗り越える方法が分からない。

『バッテリー残量が少なくなっています。バッテリー残量はあと20%です。』

スマホをスクロールしていた指が止まる。

「えっ、もう──」

今朝ベッドに入った時は、80パーセント以上あったはずなのに。驚いて画面の左上に表示された時刻を見ると、もう16時になっていた。言われてみれば、日は沈み始め、お腹はかすかに空いていた。泣き腫らした目を擦りながら、私はむくりと起き上がる。ゆっくりとリビングに行くと、焼きそばの盛られたお皿にラップがかかっていた。

「焼きそば、食べる」

刺繍をしているお母さんにぽつりと言って、焼きそばを食べた。美味しくて、ただそれだけで涙が出た。1本1本ちびちび食べながら、私は泣いた。



言うことを聞いてくれない自分の体が憎かった。
今日の調子が悪ければ悪いほど、明日がさらに不安になる。お風呂から出て、洗面所でも泣いていた私を、お母さんがそっと抱きしめてくれた。また心配させている、悲しませている──そう思うと、胸がぎゅっと苦しくなった。







翌日。お父さんは、私のスクーリングのためにわざわざ仕事を休んでくれた。私は、朝起きた瞬間に絶望して、既に泣きそうになった。この日が来てしまった。行きたくない。行けない。家で横になっていたい。けれど、そんな私に構わず、お父さんは言う。

「10時半くらいには出るから準備してね」
「──うん」

この瞬間、もう行くしかないんだと思った。
正直、つい数分前まで「行けない」と言ってしまおうか、なんて考えていた。一応、来月にはもう1度チャンスがあるので、今日行けなくても、すぐ留年になるわけではない。そうだよ、今日こんな状況で授業なんか出られない。話せばわかってもらえる、と。お母さんは昨日の時点で「やめようか?」と何回か聞いてくれたから、今、目の前にいるのがお母さんだったら、私は甘えていただろうなと思う。間違いなく「行けない」と言っていた。


車に乗りこみ、シートベルトを着ける。行くしかない。やるしかない。私は絶対大丈夫。もうここまで来たら、不安だのなんだの言うわけにはいかなかった。なんとか乗り切って家に帰る。覚悟はようやく決まった。すぐに酔ってしまう私は、少しでも酔わないようにと、飴を舐めながら目を瞑った。レモン味の飴。到着までに5つも食べてしまった。



私の出席する授業は、全部で2つある。
11時45分からの数学Cの授業と、16時からの数学ⅲの授業だ。運悪く、2つの授業の間にはかなりの時間が空いている。授業を1つ乗り越えたとて、それで終わりではないのだ。

「行けそう?」
「行くしかないから、頑張るよ」

お父さんは教室まで着いてきてくれた。ありがたかったけれど、周りは1人で来ている生徒ばかりだから、少し恥ずかしかった。

「じゃあまた1時間したら来るね」
「うん、ありがとう」
「がんば!」

笑顔で手を振るお父さんに、私は控えめに応える。よし、行こう。すーっと大きく息を吸って、吐く。いざとなった時にすぐ出られるようにと、私はなるべく後ろの席に座った。上着を脱いで、ペンを出す。授業開始まであと5分ほどあったので、気を紛らわせるために大好きな乃木坂46の冠番組『乃木坂工事中』を、小さな画面で見た。



先生が、ズカズカと私の横を通り教卓の前に立つ。私は急いでイヤホンを外して、スマホをしまった。ああ、始まる──

「はい、こんにちは。数学の授業を始めます。プリント回すから1人1枚取ってね」

前からプリントが送られてくる。私はガチガチに緊張していた。1時間。とりあえず1時間だけ、耐えればいい。ああ、既になんだか息苦しい。ただこれは、暖房が効きすぎていて、部屋が猛烈に暑かったからだ。私だけでなく、どうやら周りの生徒も同じようで、腕を捲ったり、着けていたマスクを外したりしていた。ペンを握り、プリントに「──桜」と名前を書く。少しでも「怖い」「辛い」なんて思えば、巨大なそれに飲み込まれてしまいそうなので、私は何も考えず、ただただプリントの問題をゆっくりと解いた。ゆっくり、ゆっくりと解いたはずだけれど、比較的簡単な問題だったせいか、空欄はすぐに埋まってしまった。その後は余白にお絵描きをした。大したものは描けないので、簡単な猫とうさぎを何匹も描いた。ひたすら、無心で。そうやって、気を紛らわせるしかなかった。ふと、猫が大好きな友達のことを思い出した。


あと10分──私は授業中、(良くないけれど)何度もスマホで時刻を確認していた。もうそろそろ終わる。いける。大丈夫だ。30秒おきにスマホをタップして開く。そんなに何度も見たところで時間は変わらないのに。

「じゃあ出席登録してくださいー」

きた!出席登録──プリントにあるQRコードを読み取り、生徒番号を入力して出席ボタンを押す、そうすればようやく単位ゲットだ。
私は、ほっと胸を撫で下ろした。良かった。とりあえず1つ終わった。1時間耐えきったという事実が、私の中でみるみる自信に変わっていく。

「大丈夫だった?」

お父さんは、授業が終わる少し前から教室の前で待機してくれていたようだった。お父さんの顔を見て、もう1度私はほっとする。

「大丈夫だった!」
「良かった〜」
「この後どうしよう」

次の授業までは、3時間以上もあった。どこかで3時間座り続けられる自信もないし、かと言って一度帰るのは──

「帰ってもいいよ」

お父さんは言う。

「とりあえず1つ出られただけで十分だから。もう無理ならこれで終わってもいいし、もし行けるならまた家から来ればいい」

そんなことを言ってもらえるなんて思ってもみなかった。驚きと安堵が隠せない。
1つ授業に出る、その壁は今の私にとって、とても高いものだった。けれどきっと、その高さは他の人には分からない。お父さんにも、分かってもらえないだろうと思っていた。スマホを開くと、お母さんからLINEが届いていた。

『ほんとによく頑張ったよ。あと1つは来月にする?』

自然と口元が綻んだ。お父さんも、お母さんも、ちゃんと分かってくれていた。







私達は、1度家に帰り、お昼ご飯を食べた。

「どうする?あと1時間ちょっとはあるけど」

お父さんはコンビニで買ったパンをもぐもぐしながら、私を見る。

「──行く」
「え、行けるの?」

うん。声には出さずに、強く頷く。
この勢いのまま、行くしかない。今日行かなかったら、また来月同じことの繰り返しだ。それまでの1ヶ月間、不安な気持ちで過ごすことになるかもしれない。そう考えると、迷ってなんかいられなかった。さっきできたから、大丈夫。私は何度も自分に言い聞かせた。お父さんは、私が「行く」なんて言わないと思っていたようで、少しびっくりしていたけれど、すぐに「じゃあ頑張ろう」と笑ってくれた。



「またこの辺で待ってるね」
「ありがとう、行ってくる!」
「行ってらっしゃい」

本日2度目の授業。1度目に比べ、私の心臓はドキドキしていなかった。もちろん不安はあったけれど、それよりも自信の方が上回っていた。
──「大丈夫」が勝っている。それを認識した時、私はなんて単純なんだ、とも思った。前日からあんなに不安定になって、あんなに涙を流したのに、1度上手く行けばすぐにこれだ。良い意味でも悪い意味でも、影響を受けやすい。

「はい、授業始めますよー」

──よし、あと1時間だ。私はぎゅっと、ペンを握った。





ゆらゆらと揺れる車の中から、私は外を眺める。
17時──丁度夕暮れの時間だった。オレンジ色に輝く太陽と雲が、私に「お疲れ様」と言ってくれているような気がして、すぐさまそれをカメラに収めた。

「お父さん」
「何?」
「ありがとう、一緒に来てくれて」
「全然いいよ」

2度目の授業は、スムーズに終わった。また、何も考えないようにゆっくりと問題を解き、ゆっくりとお絵描きをした。先生の「もう帰っていいですよ」を聞いた瞬間、嬉しくて嬉しくて、「ふふ」と口角が上がってしまった。誰かに見られていないといいけれど。



そして何より、今日1日で計4時間も運転してくれたお父さん──本当に、助けてもらってばかりだ。感謝してもしきれない。お父さんが、当たり前のように「10時半に出るからね」と言ってくれて良かったと、今になって思う。




私はとても弱いけれど、授業に出る前より少しだけ、ほんの少しだけ、強くなれた気がした。




いいなと思ったら応援しよう!

桜 最後まで読んでくださりありがとうございます。 頂いたチップは治療代等に大切に大切に使わせていただきます‬。