ダンシング・ウィズ・スプリングフィールド
「はじめて会ったとき、うれしそうな顔をしていたよね」
寒いベッドのうえでマシロがそう言って笑った。思い出したくないことは、人生のなかでいくらでも生成される。生きている限り、神様は思い出したくないことをいくらだって生成してしまう。まるでAIみたいに残酷に、無慈悲に、正確に、そして大量に。人間より優れているものは、人間の都合などという不合理なものを考慮することはない。
「そんなことも、あったかもね」
そう言って顔を背けるわたしは、マシロの笑顔を正面から見る資格などないと考えている。
「私に出会って、とてもうれしかったんだよね。くひひ」
その気色悪い笑い方が、わたしの心の中にいる、意固地なわたしというパーソナリティを冷凍されたハンマーでぶん殴る。皮膚がくっついて剥がれる痛みが、わたしの思い出を塗り替えてくれればいいのに。
「そんなことも、あったのかもね」
そう言ってわたしは、彼女のあたたかい膚にしがみついて、白金色の髪をなでた。
思い出したくないことがいくつもある。あった。これからもきっとある。でもその思い出は想像のなかにあるものではなく、現実にあった物事だった。だから消せない。わたしの中から消えたとしても、この世界から消せはしない。
選考があった。
わたしは、選ばれた。
でも、
サイコロで決めた方がマシだった。わたしを選ぶくらいなら、置物の方がマシだったな。口には出せない。だから、くだらないにもほどがある。ほどを知るのが成熟だとだれかが書いていた。わたしもそうだと思う。未熟なるものはほどを知らないから、自分がどれほど愚かなことをしていても気づくことができないのだ。あるいは愚かであることに酔ってしまい、それが誤りであることに気づいていながら、我に正義ありと強弁する。わたしはプリントアウトされて手渡された結果発表のページを引き裂いてから、ぐしゃぐしゃに丸めて自分のポケットにしまった。カラーコピーなんて滅びればいい。こいつは家で捨てよう。こんなもの、自然環境に放り投げるわけにはいかないから。
何事も始まりが肝心だと言う。虚言だ。詐術の類だ。
マシロとは、なんてことのない道の途中で出会った。
その帰り道は寒かった。強い風が吹きつけて沼の端に植えられた桜の樹の枯葉を引きはがしていた。冬に咲く品種だと聞いていたが、寒い夏と暑い秋に翻弄された挙句に狂い咲きしてしまい、雪の予感さえする空の下で枯れ果ててしまった。ポケットに突っ込んだてのひらを握り込むとまだ例の紙ごみどもがあって不愉快だった。わたしは左手で自分の髪の毛の房をいじる。編まれた髪の交差する点のひとつひとつを撫でていく。沼と呼ぶにふさわしい汚濁した水面にはカルガモやマガモ、オオバンなどがすいすいと泳いでいた。元気なやつらだ。うらやましい。ため息をひとつ吐き捨ててから、雲ッてしまった眼鏡を外す。ぼやけた世界を歩いていく。その先に急な曲がり角があって、なんの音もしないのでわたしは黙って、ぼんやりと、そのまま歩を進めてしまった。
だから真横からぶつかってしまった。
目の前にいた誰かがよろけてしげみの中に倒れ込んでいく。眼鏡なき世界で、わたしにとってすべての人間はモザイクのかけられた存在だ。そんな中にあって、なぜかマシロの姿はやけにはっきりとした像を結んで思い出される。そのあたりにいる有象無象とは違うのだ、と神がわたしに伝えているかのように。いいや、違うな。わたしのなかの神が、いまの時点から過去を改変し、マシロの始まりの姿をわたしに教えてくれている。
ダッフルコートに身を包んだ、まるでペンギンみたいな重装の女の子。高そうな双眼鏡を大事そうに握りしめ、プラチナ色のお団子頭がやけに印象的だ。顔立ちはとても同年代と思えないような幼さで、小学生ではさすがに押し通せないが、中二ですだったらなんとなくいける気がする。その瞳の色は曇り空をまるごと映しているかのように灰色だった。
「だいじょうぶ?」
先に口を開いたのは、茂みのなかで笑うマシロだった。
「それ、そっちが言うセリフには思えないけどな。大丈夫、アンタ?」
「だいじょうぶだよ。私はとっても強いので」
えへんと胸を張っている彼女だけれど、そのあと手足をじたばたさせて、それ以上は自力でどうともならなかった。だからわたしは手を差し伸べた。「だいじょうぶだって言ったのに。わたしはひとりで自立しているので」
「その言い回しには突っ込まないでおくよ。ごめんね、ぶつかって」
「いえいえ、ここでは人にぶつからないようにするのが正しいので。ぶつかってしまってごめんなさいは、私なのです」
声の出し方にどこかたどたどしいところがあるなという印象があったけれど、それと同時になんとなく癇に障る言い方をする子でもあった。わたしはこのとき、すでに直感的に気づいていたのだと思う。マシロは自立していた。彼女の中にはきっと、わたしとは違って独りで立つための足が備わっていたのだ。
サイコロで決めた方がマシだ。それがわたしの高校でおこなわれた文芸コンテストの結果だった。わたしは大賞を受賞したらしく、その結果、うちから出版している作品集の表題作が載ることになった。高校文芸集のナントカ号とかいうところに大々的に載せて、規模のデカい私的文芸販売集会で売りさばこうと画策しているらしい。反吐が出る。そして、そんな未来に繋がる可能性をまるで考えていなかった自分自身にも同じ感想を抱いている。吐き気がした。その吐き気をおさえきれずに口から零しそうになってトイレに駆け込んだ時、バケツを被ったマシロと再会した。
「さーむーいーよー」
流しで胃液に触発された唾液を絞り出しているとき、籠った反響音が聞こえてわたしは肩を跳ねさせてしまった。そして目の前にバケツのお化けが立っていたので悲鳴をあげそうになった。口の中が万全の状態だったらまわりのやつらに噂を立てられるくらい立派な悲鳴をあげた自信がある。
「さーむーいーのー」
その怪人バケツウーマンはそう続けてから、ゆっくりとバケツを取った。
「あれ、また会ったね。こんにちは」
マシロはぺこりとお辞儀した。わたしは答えられなかった。
「こんにちは。いつかぶつかったひと」
わたしはその時まだ、マシロの中でイツカ・ブツカッタヒトさんだった。
「こんにちは、イツカ・ブツカッタヒト二世」
マシロも、そうだった。
「あ、そうか。私ね、マシロ。マシロ・スプリングフィールド。お母さんは春原って名乗ってる。でも私は自立しているので、ちゃんとスプリングフィールドなのです」
「そのどっちがどっちなのかまったく判断できない自己紹介はなんなんだよ」
推敲した方がいいな、と思いながらわたしは口元をハンカチでぬぐった。
「わたしも名乗っとくよ。藍子って言う」
「ファミリーネームは?」
「名乗りたくない。知りたければ自分で調べて」
チャイムが鳴った。わたしたちはあまりにも大人だったので、目配せしてからそれぞれの教室に戻った。
マシロ・スプリングフィールドは氷上で踊る。彼女の趣味はバードウォッチング。そして彼女の特技はアイススケートだった。いや、アイスダンスと言うのか? 高速回転や超高度へのジャンプはさほどでもなかったけれど、氷のうえでバレエでもしているかのような華麗さがあった。もうすこしほかに表現のしようってのがないのかよ、と思いながらわたしは彼女の姿をスマホのカメラで捉えていた。現代において、スマホのカメラの性能は欠陥だらけの眼球よりもずっとずっと優れているのだ。
鉄が氷を削るシュッという音が耳に刻み込まれる。白い欠片が舞い上がる。その音と共に空をくるくると回るマシロの姿。彼女の着ている衣装は黒かった。それにズボンをはいていた。悪いけど、男のように見えた。それがひどくうらやましかった。わたしは自分の髪の毛の強めに編まれた交差点、その繊維をひとつずつ指先で感じようとしている。見えない。だから触れている。そうしているうちに彼女の視線が、こちらへと向いた。シュゥッ。音がする。鼓膜が震える。リンクの外側のギリギリに立っているわたしの前をマシロが過ぎ去っていく。その一瞬、彼女がこちらに向けてウィンクしたように見えた。
撮影を終えたわたしは、プリントアウトした自分の原稿に赤いマジックで表現を変えたい部分に印をつけていた。死ね。心の中で叫んでいた。死んでしまえ、こんなもの。それは自分自身に対する偽りのない想いだった。ほんとうは死んでしまいたいのにそれをする勇気がないので、仕方なく自分の分身(笑)である作品を血まみれにする。もし全面改稿を達成率百パーセントで成し遂げたら、その作品は果たして最初に生み出されたその作品そのものと言えるのだろうか。テセウスの船の問いは、高校生という身分に身も心も甘んじているわたしにとってはひどく魅力的だった。全面改稿達成率百パーセントにしてやったら、わたしはわたしの作品を完全に殺して作品集の構想をぶちこわしたりできるんだろうか。なにも考えずに書いてしまった結果、舞い上がるような思いを味わってしまった自分自身を殺せるんだろうか。
「藍子ちゃんはすべらないの?」
高校では三日に一度バケツお化けになるマシロが、今日も放課後のバケツお化けになって聞いてきた。わたしは改稿率百パーセントの第二原稿を突き返されて「きみの才能の輝きを見たいんだ」とかほざくクソみたいな男子になにも言い返せずに帰ってきてしまっていた。
「すべるなんてまっぴらだね」
「そうか。藍子ちゃんってお話を書くひとだもんね」
それが世界の常識なんだって見事に納得して、バケツお化けは腕組みをした。
「それじゃあ、未来永劫すべれないね」
なんだか腹が立った。
「そんなこともない。だれもがみな、ひとに見られないところでたくさんすべって生きてるんだよ」
「そっかあ。じゃあ、藍子ちゃんもすべりまくってるんだね」
ひどく腹が立った。
「そんなにすべってるわけないだろうが。ナメとんのかわたしを。これでもわたしは——」
そのあとに思い出したのは、思い出したくないことの筆頭だった。
死にたいな、って思う。
死にたいな、と口に出したい。
でもできなかった。
マシロが前にいたので。
「これでもわたしはね、天才と呼ばれたこともある女だ。すべるのは得意じゃない」
「天才なんだか、だめなんだか、わからないね」
マシロはそんなことを言って、バケツの中でからからと笑った。
それはひどく寒い冬の一日だった。世間は年末を祝うために輸入した習慣で大騒ぎをしている。クリスマスが今年もやってくる。「楽しかった思い出を消し去るように……」クリスマスは今年で終了です。「それもまたわたしの見ているただの夢だな」このあたりで音楽と言葉はまったく重ならなくなっていた。沼のそばにある遊歩道をとぼとぼと歩く。とぼとぼだってよ。わたしは独りだった。結局、わたしの書いたやつは初稿が採用された。「きみの才能のきらめきを世に問いたい」頭の芯まで阿呆でできている男子がそう言ったので、わたしは「好きにしな」と返した。彼は「そうだね。わたしは好きにする。きみもそうしろ」とどこかで聞いたようなセリフを吐いた。明日、凍った豆腐で自分の頭を殴るといい。もしかしたら死ねるかもしれないので。重武装をしたマシロと出会ったのは、そんなくだらないにもほどがあることをぐるぐると考えている未熟な道の途中だった。
すい、っと人影がわたしを避ける。
ぐい、っと細い腕が、もこもことした身体が、わたしのことを抱きしめる。胸がなにかに当たって痛い。双眼鏡だった。
「待ってたよ、藍子ちゃん」
なんて、マシロが言って、わたしはいつもの笑顔を期待したのだけれど、そんな一方的な想いが実ることなんてなかった。バケツお化けだってそんな顔はしねえよって感じで、目じりが下がったマシロがそこにいた。
「なんだよ、スプリングフィールドだからわたしを狙撃するつもりだったか?」
「?」
「なんでもないです」
「待ってたの、藍子ちゃんのこと。鳥ってね、いつも決まったところを通るの」
「鳥頭で悪かったな」
「そういう意味じゃなかったんだけどな。でもそれでもいいかも。私は鳥を捕まえるのが好きなので」
で、捕まった。マシロは重武装していた。ダッフルコート、マフラー、背中にリュック。十日分の着替え。ありったけのおこづかい。マイナンバーカード。保険証としても使えます。期限が切れるまで。
踊る阿呆に見る阿呆。わたしの部屋の中心でマシロは語った。私は自立しているオトナなので、すべてを許して生きているのです、そして自分の見たいものだけ見て生きるって決めたのです、そして自分の都合のいい部分だけ相手に見られて生きるって決めたんです。わたしはうなずいて、まったく、うらやましいよな、ああ、マシロは自立したオトナだよって返した、わたしも本当は自立したオトナってやつになりたいんだ、でも独りで暮らすくらいじゃそんなことはできないし、ネットでちやほやされるくらいじゃ我慢できなくってさ、それで——。わかるよ、私も、だって私は自立しているオトナなので、自分のことはなんでも自分でしなければならないのです、欲しいものは自分の手で手に入れるのです、でも承認欲求ってものは決して独りでは手にできないってわかるのです、オトナなので。一枚ずつ外装を剥がしているその姿に、わたしはいけない欲望を抱いた、踊るマシロは男の子だった、うらやましかった、踊る阿呆に見る阿呆、わたしは、でも、それだったら、うらやましくたって女の子になりたかった、痛くなってしまうおなかをさすりながら、わたしは彼女を誘った、オトナになりたい。いいよ、オトナになろうよ、してあげる、さあ一緒に踊ろうよ、
