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自分の『面白い』をうたがうな

時々、自分の内側にある『面白い』と思う感覚を、疑ってしまうときがあります。

面白くない、と聞いていた映画を見たけれど、面白かったとき。

面白い、と聞いていたドラマを見たけれど、面白くなかったとき。

大勢の面白いと感じている部分と、自分が面白いと感じている部分に乖離があると感じたとき。

自分の感覚をうたがって否定しはじめると、そのうち、なにもかもがつまらなくなって、『面白い』という感覚自体を見失ってしまうことも……( ˘•ω•˘ )


『面白い』は自分の創作のオリジン

わたしは、自分が感じたすべての感覚を、疑うことがないように、よくよく普段から注意しています。

創作初心者だから(*´ω`*)

たとえそれが、人とは違う感覚であっても、受け入れます。

人が面白いと言った感想を聞いて、そういう見方もあるなと、自分の『面白い』という感覚をアップデートさせていく。そういう柔軟さは、楽しいので持ちつつも、自分が最初に抱いた感覚も大切にしています。

人と異なるわたしの部分は、大切なわたしの個性だからです。

それは、創作をするうえでも大切な、わたしの『面白い』の原点です。


自分の内側にいるアーティストは繊細

わたしの場合、ながらく創作から離れて生活していたため、自分の内側にいるアートを楽しむ自分、創作を楽しみたい自分は、かなり引っ込み思案でした。

美大で、自分の『面白い』という感覚や発想力を、成績として評価される、ということも、わたしの中の創作好きの自分を、引っ込み思案に向かわせた要素でもあるかもしれません。

内側にいるアーティストは、わたしの感覚だと、大人らしい人ではありません。子供っぽくて、自由で、支離滅裂なところさえあり、奔放で、好奇心旺盛、ですが、おどろくべき創造性を発揮してくれることがあります。

子供っぽいからこそ、強く否定されたりすると、傷ついて、何も見せてくれなくなります。

他者からも、自分からも、この子供っぽいアーティストを守ってあげる必要があります。


『面白い』は人それぞれ

小説スクールに通っているとき、ひとつの作品に対して、どのような感想を抱くのか、複数の人間の意見を聞く機会がありました。

とても面白いなと思ったのは、だれひとり同じようには感じていないということです。

誰かにとって面白い作品は、他の誰かにとってあまり興味を持てなかったり、逆に誰かにとってつまらない作品が、他の誰かの心に刺さるものを持っていたり。

『面白い』はひとそれぞれに異なる感覚。

色々なことを経験して、色々な人間を見てきた今だからこそ、わたしは今、他者からの言葉によって、自分の感覚がゆらぐということはほとんどありません。

でも、若い頃は、人からの評価や、どう見られるか、誰かに対して正しい状態に自分があるか、すごく気にしていました。

今なら、若かりし頃の自分にこう言ってあげたいです。

自分の作品や『面白い』という感覚に対して、もし否定的な意見を聞いても気にする必要はない。
意見は、その人のものの見かたや、考え方。
それ以上でも、以下でもないもの。
どれが正しいというわけではない。

自分の成長につながるものは受け取って、そうでないものは置いておけばいい。

でも一番おそろしいのは、自分の感覚を疑う自分自身です。

無意識のうちに、自分の『面白い』という感覚を傷つけないよう、『面白い』はひとそれぞれ、ということを自分自身にも言い聞かせています。


唯一無二のわたしの『面白い』

面白いという感覚は、人それぞれ、生活環境、その人の歴史、人間関係、経験、人生で触れてきた様々な物事によって形作られた、唯一無二のものだと思います。

芸術作品に触れるとき、技術的に感嘆することもありますが、誰かの唯一無二オリジナルの『面白い』に触れて感嘆することも、多くあります。

自分と違う感性によってあらわれた創作物は、楽しい。

だから、わたしは、自分の感覚を、誰よりも自分自身で疑うことのないように、気を付けています。

育てはしても、傷つけたりはしないように。


あとは、自分が『面白い』と思うものを、いかに面白く表現できるかですが、それは技術の必要な部分だと思うので、日々、貪欲にお勉強していきたい恭史郎です(`・ω・´)キリッ


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