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18歳でフィリピンの里親になった私|50歳になった今も続いている、一つの縁の話

18歳で始めた、小さな支援

高校を卒業した18歳の春。

私はフィリピンの女の子の里親になった。

当時の私は、ごく普通の高校生だった。

海外留学経験もなければ、特別に裕福な家庭で育ったわけでもない。

それでも昔から、

「誰かの役に立つことがしたい」

という気持ちだけは強かった。

当時は、それがこの先の人生にどれほど大きな影響を与えるのか、想像もしていなかった。

きっかけはテレビ番組だった。

教育里親として、海外の子どもたちの成長を支えている人を紹介する番組だった。

学校へ通うことさえ難しい子どもたちがいること。

そして、日本にいながら、その子どもたちの教育を支える方法があることを初めて知った。

番組を見ながら私は単純に思った。

「私にも何かできることはないだろうか」

今振り返ると、18歳らしい真っすぐな考え方だったと思う。

高校卒業後の就職も決まり、少しだけ自由になるお金もあった。

実家から通勤する予定だったこともあり、毎月4,000円の支援なら続けられるかもしれないと思った。

18歳の私にとっては、決して安い金額ではなかった。

それでも続けてみようと思った。

こうして私は、フィリピンの女の子の里親になった。

紹介されたのは小学生の女の子だった。

父親は家を出ていた。

母親も仕事のため都会へ出て離れて暮らしていた。

彼女は親戚の家で育てられていた。

私は彼女に一度も会ったことがない。

交流の手段は手紙だけだった。

毎年送られてくる写真。

成長の記録。

学校の成績表。

現地語で書かれた手紙。

それを団体が英語と日本語に翻訳して送ってくれた。

私は辞書を片手に返事を書いた。

自分のこと。

日本のこと。

家族のこと。

今のようにスマートフォンもSNSもない時代だった。

だからこそ、一通の手紙には特別な重みがあった。

社会人になってからの毎日は、思っていた以上に大変だった。

仕事で失敗する日もあった。

人間関係に悩むこともあった。

疲れて帰宅し、自分のことで精一杯になる日もあった。

そんな時に届く彼女の写真や手紙に、不思議と励まされることがあった。

支援しているのは私のはずだった。

けれど実際には、支えられていたのも私だった。

社会人一年目の私にとって、彼女から届く手紙は、小さな希望のような存在だった。

何年も手紙のやり取りを続けた。

彼女は少しずつ成長していった。

中学生になると、現地語ではなく英語で手紙が届くようになった。

私も辞書を引きながら、必死に英文で返事を書いた。

会ったことはない。

それでも遠い国にいる妹のような存在になっていた。

やがて支援期間は終了した。

最後に届いた手紙には、感謝の言葉がたくさん書かれていた。

その中に、今でも忘れられない一文がある。

「あなたは私の人生の一部です」

30年以上経った今でも、その言葉だけは忘れることができない。

その時は、それが最後の手紙になると思っていた。

もう二度と連絡を取ることはないだろう。

そう思っていた。


15年後の再会

ところが約15年後。

思いがけない形で、私たちは再会することになった。

きっかけはFacebookだった。

何気なく彼女の名前を検索してみた。

画面の向こうに現れたのは、あの少女だった。

もちろん、もう少女ではない。

結婚し、母親になっていた。

私は嬉しかった。

もう二度と会うことはないと思っていた人が、今も同じ世界のどこかで生きている。

それだけで胸がいっぱいになった。

さっそくメッセージを送った。

返信が届いたのは数か月後だった。

そして再び、私たちの交流が始まった。

しばらくメッセージをやり取りしたあと、

「ビデオ通話をしてみよう」

という話になった。

しばらくして、私たちは初めて、お互いの声を聞くことになった。

けれど、彼女が住んでいるのはフィリピンの地方の地域だった。

インターネット環境はあまり良くなかった。

最初は近くのインターネットカフェから接続を試してくれたものの、通信は安定しなかった。

映像は映らない。

何とか音声だけがつながった。

「Hello…」

その一言が聞こえた瞬間、

「つながった」

そう思った。

15年以上前から知っている相手なのに、私は彼女の声を一度も聞いたことがなかった。

会ったこともない。

それなのに、長い間離れていた家族と再会したような、不思議な感覚だった。

回線はすぐに切れてしまった。

ほとんど会話もできなかった。

それでも十分だった。

彼女は確かにそこにいた。

遠い国で生きていた。

それだけで涙が出そうになった。

その後、彼女からメッセージが届いた。

叔母の家なら、ノートパソコンを借りてビデオ通話ができるという。

そして、ようやく15年越しのビデオ通話が実現した。


15年越しのビデオ通話

画面に映った彼女は、もう小さな女の子ではなかった。

結婚し、二人の子どもの母親になった一人の女性だった。

写真では見ていたはずなのに、こうして動いて話している姿を見ると、時間の流れを改めて実感した。

あの小学生だった女の子が母親になっている。

その当たり前の事実に、私はしばらく言葉を失った。

彼女は家族のことを話してくれた。

母親は出稼ぎ先で亡くなったこと。

父親は昔、家を出たままだということ。

それでも彼女は笑っていた。

子ども達の話をする時の表情は、とても穏やかだった。

そして話をしている途中、彼女が何かを取り出した。

古い封筒だった。

その中から数枚の写真を見せてくれた。

最初は何の写真か分からなかった。

次の瞬間、私は息を呑んだ。

それは私の写真だった。

成人式の前撮りで撮った振袖姿の写真だった。

昔、彼女から、

「あなたの写真を一枚でもいいから欲しい」

と言われて送ったことがあった。

その後も何枚か送った記憶がある。

けれど、それは15年以上前の話だった。

正直に言うと、私はそのことを忘れかけていた。

ところが彼女は違った。

その写真を、ずっと大切に保管していたのだ。

折れないように。

汚れないように。

大切に。

15年以上も。

私は言葉を失った。

私にとっては、昔送った数枚の写真だった。

けれど彼女にとっては、長い年月を経ても手元に残しておきたい大切なものだった。

気づけば涙が出ていた。

18歳の私が始めた小さな支援。

会ったこともない遠い国の女の子との手紙のやり取り。

それは私が思っていた以上に、彼女の人生の中に残っていた。

そして同時に、彼女もまた私の人生の中に残り続けていたのだと知った。

しかし私は、この時まだ知らなかった。

再会の感動のあとに、国際支援の難しさを突きつけられる出来事が待っていることを。

支援の難しさ

しばらくすると、彼女から相談が来るようになった。

最初は、小さな商売を始めるためのお金だった。

その後は、シンガポールへ出稼ぎに行くための準備資金だった。

どちらも、

「貸してほしい」

という内容だった。

私は悩んだ。

困っていることは分かる。

助けたい気持ちもある。

でも同時に、別の気持ちもあった。

私は彼女にとって何なのだろう。

元里親なのか。

友人なのか。

家族なのか。

支援者なのか。

18歳の頃の私は、支援というものをもっと単純に考えていた。

困っている人を助ける。

それだけだと思っていた。

けれど大人になった私は知っていた。

善意だけでは解決できないことがある。

助けることが、その人のためになるとは限らないこともある。

そして支援は、ときに依存と紙一重になる。

私は何日も考えた。

もし断ったらどうなるのだろう。

助けられるのに助けなかったと後悔しないだろうか。

でも、これから先もずっと支え続けることはできない。

私には私の生活がある。

家族がいる。

子ども達もいる。

彼女の人生の責任を負える立場ではない。

考え続けた末に、私はお金を送った。

ただし、それは貸したのではなかった。

返済は求めなかった。

その代わり、一つだけ伝えた。

「これを最後の金銭支援にする」

と。

冷たいと思われるかもしれない。

けれど私には、それ以上の関わり方が分からなかった。

彼女はその後、シンガポールへ働きに行った。

そして帰国後、小さな家を建てたことをメールで知らせてくれた。

私はその報告を聞いて安心した。

あの時の判断が正しかったのかどうかは分からない。

けれど少なくとも、彼女は自分の力で前に進もうとしていた。

それだけは確かだった。

それから私たちの関係は少し変わった。

昔のように頻繁に連絡を取ることはない。

誕生日。

クリスマス。

時々届くメール。

SNSのリアクション。

それくらいだ。

でも、その距離感が、今の私たちにはちょうど良いのかもしれない。

50歳になった今、思うこと

それから何年か経った。

そして今年。

私は不思議な気持ちになる出来事を経験した。

中学生になった娘が、修学旅行でフィリピンを訪れることになったのだ。

行き先を聞いた時、思わず彼女のことを思い出した。

もし本気で会おうと思えば、会えるかもしれない。

18歳の私には想像もできなかったことだ。

かつて手紙だけで繋がっていた相手がいる国へ、今度は私の娘が行く。

長い年月の流れを感じた。

会いたい気持ちはある。

声を聞いた時も。

顔を見た時も。

写真を見せてもらった時も。

私は何度も「いつか会いたい」と思った。

でも同時に、会った後の正解が分からない。

会えば何かが変わるのだろうか。

それとも今のままの方がいいのだろうか。

ただ、一つだけ確かなことがある。

18歳の私が始めた小さな支援は、結果的に私自身の人生を大きく変えた。

その後、私は海外へ行った。

ホームステイを経験した。

やがて自分自身がホストファミリーになるようになった。

気づけば地域で暮らす外国人の相談に乗ることも増えていた。

小学校で外国人保護者の通訳をしたり、幼稚園や保育園の入園相談に乗ったり。

アルバイト探しや履歴書作成を手伝い、時には面接に同行したこともあった。

難民として来日した家族の生活支援に関わったこともある。

学用品がないと聞けば、ママ友に声をかけて集めたこともあった。

今思えば、少しおせっかいだったのかもしれない。

でも、困っている人を見ると放っておけなかった。

18歳の時の私は、

「誰かの役に立ちたい」

と思っていただけだった。

その気持ちは、50歳になった今も変わっていない。

振り返れば、その原点には彼女がいた。

会ったこともないフィリピンの少女との出会いが、私の世界を広げてくれた。

私たちは家族ではない。

親戚でもない。

同じ国に住んでいるわけでもない。

それでも、お互いの人生のどこかに確かに存在していた。

里子の最後の手紙に書かれていた言葉がある。

「あなたは私の人生の一部です」

あの時は、その意味を十分には理解できていなかった。

でも今なら分かる。

彼女は、私の人生の一部でもあったのだ。

会う日が来るのかどうかも分からない。

答えは今でも出ていない。

それでも、この縁を後悔したことは一度もない。

18歳だった私が始めた小さな一歩は、50歳になった今も静かに続いている。

そして私はこれからも、あの日の18歳の私が選んだ一歩を、大切に歩いていきたいと思う。


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