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その言葉は、八百屋の大根まで下ろせるか〜噛み砕く人と、振り回す人〜

「ビジネス」という言葉は、大きい。

経営、戦略、価値創造、ソリューション。大きい言葉の周りには、大きい言葉が集まってくる。だが、大きい言葉ほど、中身が空でも成立してしまう。膨らんだ風船を、いくつも並べているうちに、何か立派なことを話した気になる。

だから、下ろしてみる。

八百屋の店先。大根を一本買いに来た、夕飯前のお母さん。大根を出す人がいて、それを求める人がいる。お金が一方向に流れ、品物が反対向きに流れる。その真ん中に、値段と、ほんの少しの世間話がある。ビジネスとは、突き詰めれば、これだ。金の流れと、品物の流れ。そして、その流れの中の、自分の立ち位置。

低くしたのではない。突き止めたら、そのサイズだった。

矮小化と、本質を掴むことは、見た目が似ていて、中身が正反対だ。前者は、大事なものを削って小さく見せる。後者は、余計なものを剥がして、本当の大きさを露わにする。八百屋の大根は、後者だ。

そして、この「下ろす」という動作には、正反対の双子がいる。片方は人を招き、片方は人を欺く。同じ「簡単にする」が、なぜ、招待にも、罠にもなるのか。今日はその話をする。


チュートリアルは、スキップできる

八百屋の大根は、チュートリアルだ。

ゲームの最初にある、操作を覚えるための、意図的に易しくした一区画。誰も、チュートリアルがそのゲームの本質だとは思わない。易しいのは、その先の本編へ連れていくためだと、遊ぶ側も作る側も分かっている。

大きい言葉を小さく噛み砕いて、敷居を下げる。まだ何も分かっていない人を、土俵に乗せる。噛み砕きとは、招待状だ。「難しそうに見えるけど、入り口はこの程度の話ですよ」と、身構えた人の肩の力を抜かせる。

ただし、良いチュートリアルには、条件がある。噛み砕いた形が、本編と地続きであること。チュートリアルで覚えた操作が、本編でそのまま通用する。八百屋の大根で掴んだ「金と品物の流れ」が、一億円の契約でも、多国籍の商流でも、ちゃんと通用する。地続きだから、招待になる。

そしてもうひとつ。チュートリアルは、スキップできる。

これが、案外忘れられている。最初からビジネスの言葉で会話できる人、きちんと勉強してきた人に、もう一度「ビジネスとはね、八百屋の大根でね」と説き始めるのは、無礼ですらある。操作を体で知っているプレイヤーに、Aボタンの押し方を最初から説明するようなものだ。

だから、噛み砕きの誠実さは、「要らない人は飛ばしていい」という但し書きまで含んでいる。飛ばせないチュートリアル、スキップさせずに全員に受けさせる噛み砕きは、それだけで、少し不誠実の匂いがする。招待とは、断れるから招待なのだ。断れない招待は、命令の別名になる。


その先に、本編がある

噛み砕きの先には、本編がある。

削らず、複雑なまま向き合う場所。例外があり、留保があり、簡単には下ろせない手触りがある。ここを通らないと、何も掴めない。チュートリアルだけを繰り返して、本編に入らないプレイヤーは、いつまでも操作を覚えているだけで、ゲームを遊んでいない。

「下ろせるか」は、たしかに理解の試金石だ。本質を掴んでいれば、たいてい八百屋の店先まで下ろせる。下ろせないなら、まだ掴んでいない。

だが、順番を間違えてはいけない。下ろせるようになるのは、本編を歩いた後だ。複雑なものと、複雑なまま格闘した経験があって初めて、その中から骨を見つけ、余計なものを剥がして、店先まで下ろせるようになる。労苦が先で、単純さは後から来る。この順番は、動かせない。


「大体、合っている」は、エンドコンテンツ

そして、その本編を走り抜けた先に、もうひとつの単純さがある。

ニコニコ動画に、「大体合ってる」というタグがある。厳密には正確でない、けれど本質は外していない。そういう動画に付く、笑いを含んだタグだ。

これは、エンドコンテンツだ。全システムを理解し、やり込んだ者だけがたどり着く、高難度の遊び場。ルールを知り尽くした者が、そのルールで遊ぶ。「大体合ってる」の妙は、的の位置を分かった上で、あえて外すところにある。的を狙って外せるのは、的がどこにあるかを知っている者だけだ。ずれが笑いになるのは、話し手も、受け手も、本当の的を見ているから。的を知らない二人のあいだでは、ずらしても、ただの間違いにしかならない。

これは、達人の木刀だ。素人が振り回す木刀と、達人が携える木刀は、同じ木の棒なのに、まるで違う。「大体合ってる」の緩さも、同じだ。何も分かっていない人の「大体でいいや」と、全部分かった人の「大体でいい」は、正反対のものだ。前者は、何も背負っていない軽さ。後者は、全部背負った上で、それを軽々と扱う軽さ。

だから、これを入り口に置いてはいけない。エンドコンテンツを、チュートリアルの位置で配ってはいけない。走り抜けた先にあるからこそ、あの緩さには奥行きがある。順番を守らないと、緩さはただの雑になる。


罠は、進行度を偽る

ここまでで、単純さには三つの居場所があると分かる。入り口の噛み砕き。本編の格闘。出口の緩さ。同じ「簡単」でも、進行度のどこに置かれているかで、意味がまるで変わる。

そして、罠の正体も、ここで見える。

丸め込みとは、エンドコンテンツの軽さを、チュートリアルの位置で配ることだ。やり込んでいない人に「これでクリアだよ」と、嘘の達成感を渡す。本編を飛ばさせる。渡された側は、遊んだ気になって、実は何も遊んでいない。分かった気になって、実は何も分かっていない。

丸め込みの罪は、単純にしたことそのものではない。伝えるには、必ず何かを削る。削ること自体は罪ではない。罪は、進行度を偽ったことにある。出口の緩さを、入り口の顔で出す。走り抜けた者だけが手にできるはずの「大体でいい」を、走り出してもいない人に握らせて、走らなくていいと思い込ませる。

分かりやすさは、いつも何かを削って作られている。問題は、削ったことを明かしているかどうかだ。削ったと知らせてくれる分かりやすさは、贈り物。削ったことを隠して、身軽な形だけを「これが全部です」と渡す分かりやすさは、罠だ。相手は、削られた部分があることすら知らないまま、頷く。反論するための材料を、あらかじめ抜き取られている。


振り回す、という逆向きの双子

ここまでは、大きいものを小さく下ろす話だった。だが、双子のもう一方は、逆を向いている。

小さいことを、大きく膨らませる。当たり前のことを、わざわざ難しく見せる。敷居を、下げるのではなく、上げる。

ここで一つ、誤解を先に潰しておきたい。難しい言葉が悪いのではない。ペルソナも、オンボーディングも、それを日々の道具として静かに使っている人の手の中では、ただの共通語だ。もう馴染んでいて、いちいち言い換えるほうが、かえって伝わらない。そういう言葉は、下ろす必要すらない。すでに、その人のものになっているからだ。

問題は、言葉の種類ではない。言葉と、使い手の距離だ。

敵の正体は、これだ。新しく仕入れたばかりの言葉を、振り回すこと。

仕入れたての言葉には、振り回したくなる引力がある。昨日覚えた概念を、今日の会議で三回ねじ込みたくなる、あの衝動。まだ自分の血肉になっていないのに——いや、なっていないからこそ、使いたくてしょうがない。中身を理解して使っているのではない。その言葉を使える自分に、酔っている。

同じ「ペルソナ」でも、馴染んだ人の手の中では静かな道具になり、仕入れたての人の手の中では、光る装飾品になる。前者は、置く。後者は、振る。カタカナかどうかは、関係ない。難しい四字熟語でも、哲学者の名前でも、覚えたての専門用語でも、まったく同じことが起きる。

なぜ、振り回すのか。

まだ、自分のものになっていないからだ。労苦を通り抜けて手に入れた言葉は、振り回す必要がない。静かに、置ける。振り回したくなるのは、それが借り物で、落ち着かないからだ。使うことで「自分はこれを持っている」と確認したくて、何度も、振る。

——これは、進行度の詐称の、もう一つの顔だ。本編を歩く前に、エンドコンテンツの言葉だけを手に入れた状態。しかも今度は、他人を丸め込むのではない。仕入れたての言葉で、自分自身に「もう分かっている」という、嘘の達成感を渡している。


気持ちよさが、検証を封じる

厄介なのは、振り回している本人に、悪意がほとんどないことだ。

「難しい言葉で人を煙に巻いてやろう」などと、企んではいない。ただ、新しい言葉が手に入って、嬉しい。使いたい。使うと、賢くなった気がする。気持ちがいい。それだけだ。悪意なき高揚。だからこそ、止まらないし、自分では気づけない。

そして、この高揚は、ある空気とセットで働く。

振り回された言葉の前では、「それ、どういう意味ですか」と、聞きにくい。聞けば、こんな基本も知らないのか、と思われそうで怖い。だから、しっくり来ていなくても、頷く。分かったフリをする。

振り回しは、この「フリの頷き」を燃料にして回っている。誰も確かめない。確かめられない空気がある。だから、まだ誰のものにもなっていない言葉が、立派な何かとして、部屋の中を漂い続ける。もし一人でも「それ、大根まで下ろすと何ですか」と聞けば、借り物の言葉は、手元に落ちる。だが、その一言を言わせない空気こそが、振り回しを守っている。


振り回したくなる、あの気持ちよさ

さて。振り回している誰かを笑うのは、気持ちがいい。

あの人はまた覚えたての言葉を、と名指して、中身が伴っていないと暴いて、溜飲を下げる。だが、気持ちがいいということは、危ないということだ。ここで終わってしまうと、ただの嘲笑になる。

だから、最後に、刃を自分に返しておく。

新しく仕入れた言葉を振り回したくなる、あの気持ちよさを、あなたは知らないと言えるか。何かを覚えた翌日、それをどこかで使いたくて、うずうずした経験が、一度もないと言えるか。ある。誰にでもある。それは、学びの喜びと、地続きの感情だからだ。新しい言葉を手にした高揚そのものは、悪いものではない。悪くなるのは、その高揚を、理解と取り違えたときだけだ。

そして、もう一歩、踏み込む。

この記事を読みながら、「振り回している誰か」の顔を思い浮かべて、少し胸がすいた——その心の動きすら、危うい。「言葉を振り回す人への批判」という、新しく仕入れたばかりの視点を、さっそくどこかで振り回したくなっていないか。明日、誰かのカタカナを聞いて、「あ、これ、あの記事のやつだ」と、したり顔をしたくなっていないか。

他人の振り回しは、よく見える。だが、自分の振り回しは、見えない。

——あなたが今日、口にした言葉は、八百屋の大根まで下ろせるものだったか。それとも、まだ手に馴染んでいないのに、振ってみたかっただけだったか。

桜影アーカイブ


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