たぶん、恋じゃない【20日目】<最終話>
8月の陽射しは、5年前と変わらず容赦なかった。
東京のアスファルトは熱を帯び、蝉の声が途切れることなく降り注ぐ。
スーツ姿の私は、ハンカチで額の汗を押さえ、カフェの冷房の心地よさを感じながら、大きく息をついた。
「……また、だめだったか。」
スマートフォンの画面には、一通のメール。
誠に残念ながら——
もう見慣れた言葉になってしまった。
就職活動を始めて半年。
何社受けても、お祈りメールばかりが増えていく。
大学4年生になった私は、未来へ向かって歩いているはずなのに、立ち止まってばかりいる気がした。
「由菜。」
後ろから聞き慣れた声がした。
振り返ると、スーツ姿の翔ちゃんが片手を上げて歩いてくる。
ネクタイは少し緩められていて、手にはアイスコーヒーが2つ。
「そんな顔してると思った。」
「そんな顔って?」
「世界終わりました、みたいな顔。」
「そこまでじゃないもん。」
思わず頬を膨らませると、翔ちゃんは肩を揺らして吹き出した。
「その顔できるなら、まだ大丈夫。」
私もつられて口元を緩める。
翔ちゃんは社会人3年目。
毎日忙しそうなのに、こうして近くまで来た日は、時間を見つけて会いに来てくれる。
けど、昔みたいな距離感ではなく、私も「翔ちゃん」と呼ぶことが少し照れくさくなった。
それでも、2人の信頼は、あの夏から変わらない。
恋人ではなく。
兄妹でもなく。
家族より少しだけ近い、大切な人。
「腹減ってる?」
「ぺこぺこ」
「じゃあ飯だな」
「おごり?」
「後輩の就活応援キャンペーン。」
あの5年前の夏の後、猛勉強して、翔ちゃんと同じ大学へ入学した。
もう、あの人がいないことはわかっていたけれど。
頼んだランチを待ちながら、アイスコーヒーで喉を潤す。
「で、何社目?」
「……15」
「そんな受けた?」
「全部落ちた。」
「まだ15だろ。」
「15もだよーー」
テーブルに突っ伏すと、翔ちゃんは困ったように眉を下げた。
「夢ってさ。叶うまで、案外時間かかるから」
その言葉にはっとする。
5年前の夏。
あの日、展望台で交わした約束が胸をよぎる。
『夢、叶えてください。』
私はあの人にそう言った。
だから、
弱音なんて吐いちゃいけないと思っていた。
「……そうだね。」
小さく頷くと、翔ちゃんはそれ以上何も言わなかった。
きっと、分かっている。
私が今も忘れられていない人のことを。
あの日以来、蒼さんとは何度か連絡を取っていた。
最初の1年は、写真を送ってくれたり、電話で撮影先の話を聞かせてくれたり。
でも、蒼さんが海外へ行くようになってからは、返事の間隔が少しずつ空いていった。
気づけば半年。
1年。
そして2年。
最後のメッセージは、もういつだったか思い出せない。
写真だけは、SNSや雑誌で見かけた。
海外の賞を受賞したという記事。
知らない国で撮った写真。
夢へ向かって進み続ける姿。
嬉しかった。
本当に嬉しかった。
なのに、胸のどこかが、少しだけ寂しかった。
「シェフの気まぐれパスタ」を翔ちゃんが口いっぱいにふくみながら、スマートフォンを取り出す。
「これ」
「なに?」
「今日届いた。」
画面には、1枚の案内状が映っていた。
白い紙に、小さく印刷された文字。
写真家 蒼 個展
思わず息が止まる。
「……個展?」
「東京でやるらしい。」
「初めて?」
「たぶんな。」
翔ちゃんは何気ない口調で続けた。
「行ってこい。」
「え。」
「お前が一番見たかった景色だろ。」
「でも……。」
迷いが口をつく。
私には案内は届いていないし、何年も連絡を取っていない。
覚えてくれているかも分からない。
会ったら、何を話せばいいのかわからない。
「由菜。」
翔ちゃんが静かに笑みを浮かべる。
「あいつのこと、応援するって決めたんだろ?」
その一言で、背中を押された気がした。
そうだ。
私はあの日、夢を応援すると決めた。
ここで逃げたら、きっと後悔する。
「……うん。
行ってくる。」
翔ちゃんは満足そうに頷いた。
「がんばれよ」
数日後。
山手線に揺られながら、何度も案内状を開いては閉じる。
胸の鼓動は、高校生の夏に戻ったみたいに落ち着かなかった。
真っ白の壁に囲まれたギャラリーの入口前に立つ。
木製の小さな看板。
そこには、シンプルな文字で書かれていた。
『AOI 写真展』
ドアノブに手をかける。
「……失礼します」
誰にも聞こえないくらい小さな声でつぶやき、私は静かに扉を開けた。
冷たい空気が頬を撫でる。
壁一面に並ぶ、世界中の”風景”。
私は1枚ずつ足を止めて、ゆっくりと歩き始めた。
そして、展示室の一番奥。
たくさんの人が立ち止まって見上げている、空気の違う写真が1枚、目に入る。
その瞬間。
私の時間は、ぴたりと止まった。
賞を受賞した作品でもない。
海外の雄大な景色でもない。
そこに広がっていたのは、一面のひまわり畑だった。
夏の青空。
どこまでも続く黄色い花。
風に揺れる白いワンピース。
振り返った少女が、少し照れたように笑っている。
その瞬間を切り取った1枚だった。
呼吸が止まる。
胸が苦しくなる。
見間違えるはずがない。
あの日。
スーパーの帰り道。
2人だけで立ち寄った、あのひまわり畑。
翔ちゃんにも、萌子にも、誰にも言わなかった。
2人だけの、小さな秘密。
写真の中の私は、まだ何も知らない顔で笑っていた。
恋なんて知らなかった。
5年後、この写真の前で涙を流すことになることも。
私は写真の横に置かれた、小さなプレートへ視線を落とした。
その文字を見た瞬間、胸の奥で何かがほどけた。
作品名 『たぶん、恋じゃない』
思わず笑ってしまう。
笑ったはずなのに、涙が止まらなかった。
「……ずるい。」
あの日見た映画の感想と同じ言葉をつぶやく。
5年前。
あの夏に名前をつけられなかった気持ち。
恋だと認めるのが怖くて。
離れたくなくて。
夢を邪魔したくなくて。
何度も自分に言い聞かせた。
たぶん、恋じゃない。
その言葉は、自分をごまかすための言い訳だった。
蒼さんも同じ気持ちだった。
それに、その言葉さえ作品にしてしまった。
「敵わないな」
写真の中の私は、ひまわりを背に笑っている。
そのときだった。
「気付いてくれた?」
懐かしい声がした。
ゆっくり振り返る。
そこには、少し日に焼けた蒼さんが立っていた。
白いシャツにジャケットを羽織ってきちんとして見せて、袖は無造作にまくっている。
5年という時間は、少しだけ大人の彼を連れてきた。
それでも、
目尻がやわらかく下がる笑い方だけは、あの夏のままだった。
「……蒼さん。」
名前を呼ぶだけで、胸がいっぱいになる。
「久しぶり。」
「……久しぶりです。」
それ以上、言葉が続かない。
会えなかった5年間が、一度に押し寄せてきた。
蒼さんは私の隣に立ち、一緒に写真を見上げた。
「最後まで迷ったんだ。」
「何をですか?」
「この写真を展示するかどうか。」
私は写真から目を離せない。
「どうして?」
「大事すぎたから。」
その一言に、また涙があふれた。
「世界中を回ったよ。」
蒼さんは静かに話し始める。
「砂漠も、氷河も、戦争の跡地も。
何枚も何十枚も撮った。」
ありがたいことに、賞ももらった。
海外で個展も開いた。」
少し照れくさそうに肩をすくめる。
「でも、
俺が撮りたい人は1人だけった。
一番好きな写真は、1枚も変わらなかった。」
私は隣を見あげる。
蒼さんは、写真ではなく私を見ていた。
「なんで……私だったんですか。」
ずっと聞きたかった。
5年間、何度も考えた。
どうして私だったのか。
蒼さんは少しだけ空を見上げるように目を細めた。
「写真って、
目に映るものだけじゃなくて。
その人も知らない一瞬を残せるんだ。」
そして、写真の中の私を見つめる。
「あの日の由菜ちゃんは。
俺が見た中で、一番きれいな景色だったんだ。」
胸が締めつけられる。
私はただ、ひまわりがきれいだと思って振り返っただけ。
そんな何気ない一瞬を。
この人は、5年間ずっと大切に持ち続けてくれていた。
「このタイトルは?」
私が写真を見つめたまま言う。
蒼さんが穏やかに目を細める。
「この作品は、
俺が、この恋に気付く前の写真だから。」
少し笑って続ける。
「だから、このタイトルじゃなきゃ意味がない。」
蒼さんは少しだけ目を閉じ、小さく息を吐く。
安心したような。
泣きそうなような。
そんな表情だった。
「・・・私も」
その一言だけで十分だった。
それ以上、何もいらなかった。
窓の外では、夏の陽射しが街路樹を照らしている。
5年前と同じ季節。
でも、私たちはもう、あの頃の私たちじゃない。
夢を追いかけた人。
夢を応援し続けた人。
遠回りをした5年間は、決して無駄じゃなかった。
約束しなかったから。
縛らなかったから。
それぞれが、自分の足で未来まで歩いてこられた。
蒼さんが、そっと右手を差し出す。
私は少しだけ照れながら、その手を握った。
5年前、触れられなかった距離。
ようやく重なった温もりは、驚くほど自然だった。
「おかえり。」
蒼さんが静かに言う。
私は微笑み返す。
「ただいま。」
その言葉が、今の私たちには何よりも似合っていた。
もう離れない。
これからはずっと、一緒にいる。
壁に飾られた1枚の写真。
夏空の下、ひまわり畑で振り返る少女。
作品名は、最後まで変わらない。
『たぶん、恋じゃない』
――あの夏の私は、まだ知らなかった。
それが人生でたった一度の、忘れられない恋の始まりだったことを。
<終>
