陽菜の物語 第5部「陽菜、ひろがる編」 第34話
水路の調べ、土に根ざした「ひろがり」
新曲の制作に取り掛かっていた陽菜は、夕暮れ時、一人で山の畑のそばを流れる水路の脇に立っていた。
さらさらと、絶えることなく流れる水の音。それは遥か昔、先人たちがこの佐久の荒野を切り拓くために通した、命の鼓動そのものだ。
手元のノートには、けにいさんからの依頼状にある「郷土愛」という言葉が、何度も書き直された跡がある。
「……郷土愛って、誇ることじゃなくて、受け取ることなのかもしれない」
陽菜は、冷たい水面に指先を浸しながら、独り言を呟いた。
実習先の工場で、湊が「あそこの一部になりたかった」と言ったこと。美咲が真澄さんの工房で、この土地の土を捏ねて器を作っていること。それはすべて、この場所が積み重ねてきた悠久の時間に、自分たちの「いま」を接ぎ木しようとする行為だ。
(私がここで歌うのは、この場所が私を育ててくれたから。でも、それだけじゃない)
陽菜の脳裏に、かつてこの地に水を引いた人々の姿が浮かぶ。彼らもまた、まだ見ぬ未来の誰かのために、岩を削り、石を積んだはずだ。その幾世代も受け継がれてきた願いが、時を超えて今、山の畑のメンバーたちの「自律」を支える豊かな土壌になっている。
「郷土を愛するっていうことは、この場所に流れる祈りを引き継ぐことなんだ……」
ノートに、新しい言葉が躍った。
幾千の季節を越えた水音が歌うのは 遠い誰かへの約束
この土を愛することは 君の未来を信じること
佐久の風景は、ただの背景ではない。
自分たちの背中を支える巨大な記憶であり、そこから「外」へと漕ぎ出すための、最も強固なプラットフォームだ。この場所を深く愛しているからこそ、私たちはこの場所を飛び出し、世界と「つながって、ひろがる」ことができる。
「……けにいさん。私、書けそうです。この場所に吹く風の匂いを、全部詰め込んだ歌を」
陽菜の瞳には、夕日に照らされた浅間山の雄大なシルエットが映っていた。
「郷土」という確かな根を手に入れた陽菜のメロディは、もはや迷うことなく、広い空へとその枝葉を伸ばし始めていた。
