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喫茶あかりや 梓さんの灯

あらすじ

今より少し昔、どこか遠い港町にある、ランプやランタンの明かりが彩る夜しか開かない喫茶店。
そこで目覚めた主人公は、主人公の「想送燈」をつくるよう依頼を受けたと店主の老紳士から伝えられる。誰しも心に秘めた思い、それを天に返すという想送燈。「語っていただけないでしょうか。お客様の思いを形作ってきた記憶、物語を。」そう老紳士に促されるが、主人公は記憶を失っていた。
自分の道を自分自身で定めるまで、喫茶あかりやで働くことになった主人公。
雨の日にやってきた女学生の梓さんは想送燈を依頼しに来たようだが…

はじまり

『こっちだ。』
 昔から変わらない溌剌とした声が俺を引っ張っていく。少し待ってくれ。一体どこに連れていくつもりだ。
『今のお前に、必要な場所だ。』
 まっすぐな姿勢で、こちらを振り返りもせず、ずんずん進んでいく。お前のそういう言葉が足らないところはよくないと思うぞ。少しは協調性を身に着けろ。
『ははっ、今更だな。』
 笑い飛ばしたその言葉に、足が止まる。どうしてそんな言い方をする。いつものお前ならどこがだめなのか言ってみろと突っかかってくるだろう。
 友は何も答えない。代わりにようやく振り返ったその表情も、ぼやけてしまってよくわからない。
『ここだ。』
 目の前の友の輪郭が滲んでいく。心臓がドクンと嫌な音を立てる。何かが迫ってくる。体中が恐怖にからめとられそうになる。違う。違う。俺は。
『ほら、行け。』
 いつの間にか、俺の後ろに立っていた友が、背中を押した。お前はいつも強引すぎる。そうやって、あの時も。
 どぷんっ。
 水に飛び込んだように音が消えて、体が浮かぶ。いや、落ちているのか。わからない。暗闇の中もがいて、友を振り返る。さっきまで奴がいたはずの場所は消え失せ、俺はそのまま意識を失った。

 ぼやけた視界にいくつもの光が見えた。星、だろうか。いや、星はそんなに近くには来てくれないだろう。
 重い瞼をもう2度、3度瞬くと、次第に視界がはっきりする。そうして、息をのんだ。眼前には、光と色が満ちていた。それは、天井からいくつも吊り下げられたランプやランタンの明かりだった。その光はあたりを柔らかく象っている。ゆらゆらと炎が揺れるたびに、それを覆うガラスがチカチカと反射して、まるで、何かを語りだしそうな気がした。その光景は、あまりにも暖かく、優しくて、どうしてか胸が苦しくなった。
 まだだるさの残る体をゆっくりと起こす。もっと近くで、その光を見たいと思った。
「お目覚めになりましたか?」
 低く、柔らかな声に呼びかけられる。顔をそちらに向けると、初老の紳士がランプに囲まれたカウンターの中で微笑んでいた。銀髪をぴしりと後ろに撫でつけて、口ひげはきれいに整えられている。白い詰襟のシャツに黒いベストを着てグラスを磨いていた。
 ここは、どこだろうか。寝起きのせいなのか、頭がぼんやりとして思い出せない。ひどく深酒をした日のように、全てに靄がかかっている。
「ここは、喫茶あかりやでございます。」
 俺の心を読み取ったように、紳士は言う。
「お節介かとは思ったのですが、大変お疲れのご様子でしたので、しばらくこちらでおやすみになってはどうかと私がお声がけしたのです。あぁ、大分顔色は良くなられたようですね。これを、どうぞ。」
 紳士はカウンターから出てくると、洒落た硝子のティーカップをコトリとテーブルに置いた。
「特製の香草茶でございます。気持ちが落ち着きますよ。」
「あ…」
 口から出たのは酷く掠れた声で、意味のある言葉を紡ぐ前に口を閉じる。何を言うべきか、わからなかった。
「お代はご心配なく。お節介ついでのサービスですので。」
 紳士は茶目っ気たっぷりにウィンクをして、カウンターへ戻っていった。
 蓄音機から流れる曲と、カウンターの奥で、お湯でも湧いているのか、シューシューという蒸気の音だけが聞こえる。恐る恐るカップに手を伸ばす。なぜだか手が震えるので、落としてしまわないように両手で包み込むと、じんわりとぬくもりが指に伝わる。そこで、自分の手が酷く冷えていたことに気が付いた。カップを口に寄せて、一口すすると、ほんのりした甘さとさわやかさが広がる。こくんと飲み込むと、今度は内側からゆっくり、ゆっくり、温かさが伝わっていった。
 緩慢な動作で、時間をかけてお茶を飲み干すと、紳士が自然と声をかけてくる。
「いかがでしたか?」
 俺は、紳士から目を逸らして、カップを見つめながら
「…美味かった。」
 と言った。その声はやはり掠れていたが、先ほどよりはまともな音が出た。
「それはよかった。」
 紳士は満足げに笑うと、こちらへどうぞ、と俺をカウンターの席へ促した。どうしようか少し迷って、立ち上がる。ふと自分の足元を見ると、今にも穴の空きそうなブーツが目に入った。見ると、外套や袴の裾も汚れている。こんな格好で、こんな場所に入って良かったのだろうか。
「大丈夫ですよ。さぁ、こちらへ。」
 紳士はまた、俺の心を読んだように言う。言われるがまま、カウンターの背の高い丸椅子に腰をおろす。紳士はにこりと微笑んで、一つの小さな空のランタンを目の前に置いた。波うった硝子や、模様の入った硝子など、色のついていない硝子が組み合わされた、質素ながらに美しいデザインのランタンだった。
「…これは?」
 紳士は後ろの棚に並んだ薬瓶をいくつか手に取って選びながら答える。
「『想送燈』というものをご存じですか?」
 想送燈…そんな言葉に聞き覚えはない。俺が首を横に振ると、紳士はそうですか、と少し残念そうに笑う。
「私共が幼い頃は、よくある習わしだったのです。少し、年寄りの昔話に付き合っていただいても?」
 俺が頷くと、今度は嬉しそうに笑い、紳士は語りだした。

 昔々、それこそ、当世流行りの蒸気機関もなかった遠い昔、貴族が広大な館で和歌を交わしあうような時代のことです。人々は、人の心の奥底に秘められた思い、行き場をなくした思いが、澱みとなって鬼になると考えておりました。妬みや憎しみのような負の感情だけでなく、時には愛おしさや優しさも。清らかな水が流れを失うと腐ってしまうように、そこから鬼が生まれると考えたのです。
 当時、疫病や飢饉が起こり、そこかしこに鬼が出て、人々を喰らっていたそうです。そこで、当時の陰陽師が考え出したと言われているのが想送燈です。秘めたる思いを炎にのせて浄化させ、天へ送る。言い換えれば思いの葬式、でしょうか。
 古から始まったその儀式は年を経て形を変えながらも各地で受け継がれていきました。そうですね。要するによくある民間習俗の1つです。昨今は科学というものが発展し、ガス灯で街から夜が消え、人々は鬼を恐れなくなりました。それにしたがって、想送燈の儀式も姿を消していきました。それでも。今なお、鬼は人知れず生まれ、人を蝕むのです。
 怪談の類だと?そうですね、お客様の世代の方はこういう話をすると、私は怪しい呪いで荒稼ぎしようとする詐欺師のように映るかもしれません。そこまでは思っていない?それはお客様がお優しいからですね。ありがとうございます。
 怪しい話のようになってしまいましたが、元々の想送燈は、大きな災いを被った人々が、喪失の悲しみや、やるかたない思いをどうにかしたい、区切りをつけたいと願った結果できた儀式ではないかと私は思っています。思いを受け止め、前に進むための、一つのきっかけとして。想送燈の明かりは、これから生きていこうとする人の背中を押すものだと、私は思うのです。そう考えると、いかに科学が進んだ現在であっても、想送燈をこのままなくしてしまうのはもったいないなと思っていました。
 私の家は代々蝋燭屋を営んでおりまして、想送燈の明かりとしての蝋燭も作っておりました。ところが、蒸気機関が広まるにつれ、蝋燭の代わりに液体燃料のランプが使われるようになり、蝋燭の需要は急速に減りました。想送燈の蝋燭も科学が進むにつれ迷信だという風説が広まり、だんだんと売れなくなっていきました。まさに風前の灯といったところで、この店を始めたんです。
 この店は喫茶店であり、想送燈屋でもあります。お客様の思いを伺い、それに寄り添う明かりを作るのが、私の仕事なのです。え?売っているのはランプのようだが、蝋燭でなくて良いのかと?想送燈の本質は火による浄化ですから、当世風にランプやランタンにしたのですよ。大事なことは変えず、時代に合わせて変化していくのが、皆さまに受け入れていただける秘訣ではと思っております。

 紳士は話し終えると、歳をとると昔話が長くなっていけません、と照れながらまたお代わりの香草茶を出してくれた。こほんと1つ咳払いをして、紳士は話を続ける。
「実は私、ある方からお客様へ想送燈を作ってもらえないかとご依頼を受けているのです。」
「俺に…?」
 ついさっきまで存在すら知らなかった想送燈を俺に送ってくれるような人に、誰か心当たりはあっただろうか。紳士曰く、俺は今日、ここへ手紙を届けに来ていたらしい。その手紙の中に、俺へ想送燈を作ってほしいと書かれていたと。記憶を探ろうとするが、どうにも上手くいかない。
「本来は、想送燈の性質上、こういったご依頼は受けていないのですが、何分、大切な方からのご依頼ですので」
 寂しそうに、紳士は笑う。
「急に言われても難しいとは思うのですが、お客様のお時間が許すようであれば、語っていただけないでしょうか。お客様の思いを形作ってきた記憶、物語を」
 まっすぐに見つめられたその瞳から目をそらすように俯く。確かに、急にそう言われてもすぐには出てこない。でも何か、話したいことがあったような気もする。何か、俺が、俺自身ではどうにもできなかった、何か。
 何か。
 あれ。
「俺は…俺には…何も、ない。」
「お客様?」
 いくら記憶を掘り起こそうとしても、空を切るばかりで感触がない。何も思い出せない。
「何も…思い出せない…」
 頭が痛い。内側から何かが吹き出そうとしているのを、ぎゅうぎゅうと押さえつけるように痛む。
 俺はどこから来た。どうしてここにいる。俺は。
「俺は…誰なんだ…?」
 目の前が真っ暗になった。
 誰かから呼ばれている気がする。答えなければと思うのに頭が痛くて何も考えられない。
 どうして。
 どうして。
 次第に意識が薄れて、後は暗闇が包んだ。

 駅から蒸気機関車がもうもうと白い煙を出して出発していく。どこへ向かう汽車なのだろうか。そんなことを考えながら、商店街で買い物を済ませていく。
 港に面したこの街はいつもにぎやかだ。漁港のほうでは毎日朝市がたち、新鮮な魚や食材が安く手に入る。商店街は「高級品以外ならなんでも揃う」を売りにしていて、威勢のいいかけ声があちこちから聞こえてくる。大きな船が入る貿易港からはガス灯が立ち並んだ石畳の立派な通りがあり、馬車がガラガラと音を立てながら着飾った貴婦人や紳士を乗せて走っていく。通り沿いには高級ブティックが立ち並び、こちらは「高級品ならなんでも揃う」といった感じだ。奥には図書館や美術館もあり、近代都市の様相を呈している。昔ながらの生活と、近代的な生活とがごっちゃになったような街だ。
 その大通りを少し路地に逸れると洒落た酒場(最近はバーと呼んだりするらしい)が立ち並ぶ通りに出る。夕凪通り。その名の通り、視界の抜けた先には海に沈む夕日がいつもきれいに見えた。その通りの突き当りに、「喫茶あかりや」はある。ランタンのステンドグラスがあしらわれたウォルナットのドアを開けるとカランッとドアベルが鳴る。
「おはよう。買い出しに行ってくれたんですね。ありがとう。」
 ちょうど2階から降りてきた店主―晴吉さんは、いつもきっちりと身だしなみを整えていて隙がない。この店で過ごすようになって、2週間が経ったが、この姿以外の晴吉さんを見たことがない。
「おはようございます。」
 カウンターの奥の冷蔵庫の氷室に氷を入れる。氷室の大きなこの冷蔵庫は、特注で作ってもらったらしい。下の冷蔵室には、果物や、晴吉さんが作った冷菓やドリンクに使うミルクやジュースが入れられている。あと、まかないに使う魚や肉も。
「朝ごはん食べましょうか。」
「…もう昼過ぎですけどね。」
「はは、目が覚めて、一番最初に食べるごはんが朝ごはんですよ。」
 定型になったこのやり取りをして、俺はカウンターに座る。あの日、俺が座った同じ席に。

 あの日、この店で気を失った俺は、気が付くと診療所の寝台の上で目が覚めた。窓からは、すっかり太陽の昇った雲一つない高い青い空が見えた。
 医者の診察を受け、わかったのは、俺がどうやら記憶を失っているらしいということだった。
 これがお前さんが持っていたものだと渡されたのは、北の港からこの港までの定期船の乗船券の半券、何種類かの精神安定剤、お守りらしき古銭を通した組み紐、水筒、ほとんど酒の入っていないスキットル、タバコ、数枚の小銭、それと認識票と呼ばれるものだった。
「これは…」
「そりゃ、軍で使う認識票だ。死んだ人間がどこの誰かわかるように身に着ける。お前さんのものか、それとも戦死した誰かのもんかはわからんが、名前は…『水瀬誠』と書いてあるな。ほかに名前の書いてあるようなものはなかったが、この名前に何か心当たりはあるか?」
 少しだけ頭がずきっと痛んだが、その名前にも心当たりはない。首を振ると、医者は軍医の知り合いにあたってみようと言ってくれた。
 医者には港にも知り合いがいるらしく、乗船客の名簿から俺の身元を特定できないかと掛け合ってくれたらしい。だが北の港とこの港を結ぶ定期船は乗客をいちいち細かく確認、管理していない。名簿に載っているのはそれこそ一等客室に入るような貴族や金持ち連中だけだったそうだ。
「お前さんが北の港からここにきたということはわかった。あとは、おそらく軍属かまぁ関係者ってことぐらいか。今のお前さんに関してわかることはこれくらいだ。」
 医者は曲がった腰をとんとんと叩きながら呟いた。
「全く…戦争が終わってから、こういう患者が多くて困ったもんだ…」
 俺の過去は真っ暗闇の中に放り出されてしまったらしい。手あたり次第、なんでもいいから記憶の欠片を求めて、どんなにもがいて掴もうとしても、掠りもしない。自分と、他人とを分け隔てる境界は消え失せ、自分という輪郭がドロドロと溶けて無くなってしまった。今、誰が俺を俺だと言ってくれるのだろう。記憶が無くなると、過去も、今も、未来も、全部がごちゃ混ぜになって、消えてしまうのだと、俺はこの時実感した。
「失礼します。」
 項垂れた俺の耳に届いたのは、この前と同じ、低く、柔らかい声だった。顔を上げる気にもなれず、項垂れたまま、ぼんやり医者とその声の主の会話が終わるのを待った。何を話していたのかはよくわからない。
 そのうち、目の前に誰かが膝をついた。ゆっくり、顔を上げると、あの夜の喫茶店で出会った老紳士だった。
「昨日ぶりですね。ご気分は、あまりよくなさそうだ。」
 穏やかな笑みを浮かべた紳士からは、ほのかに日向夏のようなほろ苦い柑橘の香りがした。老紳士は続けて俺に語りかける。
「私は、これまでの君について説明することはできませんが、君の名前だけは知っています。昨日、君に想送燈を作るよう依頼を受けたと言ったでしょう?依頼主から君のお名前は伺っていましたから。」
 それまでどこにも焦点の合わなかった俺の目が紳士の珍しい銀色の瞳に合った。
「君の名前は、『松風透哉』です。」
「まつかぜ…とうや…」
 その名前を繰り返す。そのうち、溶けてなくなった輪郭が、少しはっきりしたような心地がした。
「透哉君、とお呼びしても良いですか?」
 紳士の問いかけにコクンと頷く。紳士は嬉しそうに笑った。よく笑う人だ。
「透哉君、君がよければ、なのですが。君の記憶が戻るまで…いえ、君が、これからどうしていくか、君自身が決めるまで、うちで一緒に暮らしてみませんか?」
 お人よし過ぎる言葉の意味を始めは理解できずに、冗談だと思った。けれどすぐに、冗談を言う場面ではないと悟った。見ず知らず、素性もわからない俺をどうして。
「袖振り合うも他生の縁、と言いますし。なにより私、とてもお節介なのですよ。」
 老紳士は昨日と同じように、俺の考えを読んで、茶目っ気たっぷりにウィンクをする。
「そして、あなたがいつかあなたの物語を思い出したら、私に想送燈を作らせてください。あなただけのあなたの思いの灯を。」
 老紳士は、まっすぐ俺の目を見つめた。俺だけの、思いの灯。そんなものが作れる日が俺に来るのだろうか。あぁでも、店を彩っていた、あの星のような輝きの中に、俺の思いが灯されるなら、それはどんなに、暖かな光景だろうか。俺はゆっくりと頷いていた。
「これからよろしくお願いします。私は喫茶あかりや店主、月待晴吉といいます。」
 明るく笑って片手を差し出す晴吉さんの手を、俺はそっと握り返した。晴吉さんの手は、陽だまりのように暖かかった。

 晴吉さんに案内されてたどり着いたあかりやは、4階建ての石造りの建物だった。ほかの地域では木造の家が多いらしいが、この地域は潮風の影響か、近年の流行りに乗ってか、石造りの建物が多かった。土地が狭いせいで、高い建物が多いのもこの地域の特徴らしい。1階が店舗と厨房、2階から4階が居住スペースになっていて、元々はアパート経営をするつもりで建てたらしいが、あかりやが夜の営業なのもあって、なかなか住みたいという人がいなかったらしい。この建物を建てた後に、急速に大通りの整備が進み、土地の値段が高くなってしまったのも原因だと晴吉さんは溜息をついていた。そのため、各階にはしっかり鍵がついていて、調理用の薪ストーブも、勝手も、トイレも、今風のシャワーがついた風呂場まである。屋上には、晴吉さんの趣味の香草園がある。俺が出してもらった香草茶はここで育てた香草を使ったオリジナルのものだったらしい。
 晴吉さんは香草園が近いからと4階に住んでいて、俺は2階に住ませてもらうことになった。
「私のお古で恐縮ですが。あ、もちろん下着は新品ですからね。」
と、寝巻や服まで用意してくれていて、驚くばかりだ。
「そうそう、ここに住む代わりと言ってはなんですが、1つお手伝いしていただきたいことがあるんです。」
 一通りの説明を終えて、店でお茶を飲んでいたところ、ポンと手を打って晴吉さんが言う。
「透哉君、このお店を手伝っていただけませんか?」
 正直、ここまでされて何もしない方が嫌だったので、2つ返事で俺はそれを了承し、今に至るというわけだ。

 あかりやは日が沈んでから開店する。閉店時間は晴吉さんの気分でまちまちだ。
 だから昼前までは寝て、そこから仕込みや開店準備をすることが多い。必然、朝ごはんも昼になるというわけだ。
「今日は市場で良いサンマが手に入ったので、サンマご飯を炊いてみたんですが、いかがですか?」
「いただきます。」
 あかりやのまかないは意外、と言っていいのか、和食が多い。こういう店構えだし、当世人気のサンドウィッチなんかが出るのかと思ったと言ったら、その翌日にはそれが出てきたから、晴吉さんも嫌いではないのだろうけれど。そのあと、
「透哉君は朝ごはん、パンとごはんどちらがいいですか?」
と聞かれ、悩んだ挙句ご飯と答えたら、その次の日からはこうした和食になった。
 今日の朝ごはんはサンマの炊きこみご飯、きのこの味噌汁、厚揚げと人参の煮物、お新香だ。手を合わせて食べ始める。
 炊き込みご飯はサンマと醤油の香りが香ばしい。きのこの出汁がたっぷり出た味噌汁は、近頃冷え込んできたから体がとても温まる。厚揚げと人参の煮物は、厚揚げにいれた切り込みの中にショウガの効いたひき肉が詰め込まれていて、噛む度、じゅわっと出汁がしみだしてくる。お新香もちょうどいい塩加減で、口の中をさっぱりさせてくれる。
 1日の始まりから、こんな贅沢な飯を食えるなんて、俺はどれだけ幸せなんだろうか。以前の俺も、こんな食事をしていたんだろうか。なんとか思い出そうとしてみるが、そんな光景はどこを探してもやはり見つからなかった。
「ごちそうさまでした。」
「今日も良い食べっぷりで安心しました。」
 にっこり微笑まれると、少し恥ずかしい。いそいそと晴吉さんの分も空になった食器を奥の洗い場に運ぶ。
 医者からは、
「無理に思い出そうとすると、頭に負担がかかる。外傷はないようだから、おそらく心因性のものだろう。とりあえず、普通に生活しろ。よく食べて、よく動いて、よく寝ろ。お前はちっと、瘦せすぎだ。」
と、いささか強すぎる力で肩をバシバシ叩かれながら言われていたので、晴吉さんも気を使って食事を用意してくれているのかもしれない。申し訳ない気持ちもあるが、飯が美味いと、それだけで日々を過ごす活力が湧いてくる。だから晴吉さんの心遣いはとてもありがたかった。
 ちなみに医者はほかにも、
「お前さんが持っていた薬だが、これは一旦預かっておくぞ。もし何か強烈な不安に襲われるとか、いきなり無気力になるなんてことがあれば、代わりの薬を処方する。その時にまた来い。…全く…適当な処方しよって…」
と、ぶつぶつ言っていた。今のところ、薬が必要な事態には陥っていない。
 困っていることと言えば、この記憶だ。俺は、今まで関わってきた人との記憶と、ここ数年の記憶が抜け落ちているようだった。俺の持つ最後の記憶は、隣国との戦争が始まっていたことだったのだが、どうやらその戦争は3か月前にこちら側の陣営の勝利で決着したらしかった。医者も俺は軍関係者のようだと言っていたから、もしかしたら戦場に行っていたのかもしれない。体にはいくつか、古い傷跡があったから。ただ、そこにも特に実感は湧かなかった。
 とにかく、今は医者の言う通り、日々きちんと暮らすことを目標にしよう。当面の目標は、喫茶メニューのレシピを覚えることだ。仕事を初めて1週間は掃除やランプ磨き、皿洗いが主な仕事だったが、俺が紅茶に興味を示してからは、たまに、お客さんに出すドリンクを作らせてもらうようになった。常連の吉野さんには、
「晴吉さんのと遜色ないんじゃない?」
とのお墨付きをもらっている。この仕事は、俺に合っているのかもしれないと考えるのはまだ時期尚早だろうが、日々、新たな発見と驚きに満ちていて、もうしばらくはここにいたいと思っていた。

「透哉君、終わったらこちらに来てもらえますか?」
「あ、はい。」
 カウンターから呼ばれてそちらへ向かうと、ふわっと甘いカカオの香りがした。
 いつの間にやってきたのか、1人の女性がカウンターに座っている。女性には珍しく、肘あてのついた白い詰襟のシャツを着て、少しくすんだ茶色い髪を半分だけまとめている。癖毛なのかおろした方の髪はふわふわとしていた。まん丸な瞳は、まっすぐこちらを見ており、晴吉さんより少し濃いが似たような銀色をしていた。
「紹介しますね。こちら、私の孫の結といいます。」
「はじめまして。祖父からお話は伺っています。月待結と申します。よろしくお願いしますね。」
 にこっと笑った顔は晴吉さんによく似ていた。差し出された手をおずおずと握ると、しっかりした力で握り返される。その手はやはり陽だまりのようだった。
「…松風透哉といいます。晴吉さんには、途方に暮れていたところを拾っていただきました。今はここで住み込みで働かせてもらってます。」
 自分の事をどう言ったらいいものか迷いながら応えると、結さんは頬に手を添えて小さく溜息をつく。
「おじいちゃん、ちょっとお節介が過ぎてちょっと頑固でちょっと強引だから。迷惑だったらきちんと言ってくださいね」
「あ…いえ…とても良くしてもらって、感謝のしようもないくらいで…」
 それならいいんだけど、と結さんは晴吉さんに目線を送る。晴吉さんはいつものことなのかふふふと笑ったまま、用意していたカップを結さんに渡した。この飲み物はここに来てから学んだ。ショコラショーというものだ。それを見て、結さんの顔がほころぶ。どうやら好物らしかった。
「透哉君も飲んでみますか?この前お客様にお出ししたとき、興味津々のご様子でしたから。」
「あ…はい。」
 気づかれていたとは恥ずかしい。結さんの方をちらりと見ると、こちらの様子には気づいていないようで、ショコラショーの甘さにとろんととろけたような表情になっていた。随分マイペースな人のようだ。
「はい、どうぞ。」
 差し出されたショコラショーはつややかな光をたたえていた。上に添えたクリームが熱で溶けて、じわじわと混ざりあっていく。ふーふーと息を吹いてから一口飲むと、濃厚な香りと甘さが口いっぱいに広がった。
「いかがですか?」
「とても、濃いですね。油分が多くて、まろやかで、今まで口にしたことがない風味です。でも、不思議と落ち着く香りだ。」
 その答えに、晴吉さんはとても満足そうに笑った。

「そうそう、今日、結を紹介したのはですね。結もここで働くことになったんです。」
 その言葉を飲み込むまでに数秒かかる。そうなったら、俺はどうなるのだろう。ドキドキと変に脈打つ俺の感情は読まれずに、話は進んでいく。
「というのも、想送燈の明かりの作り手になりたいと、2年前に強引に私の知人に弟子入りしてまして。あぁ、知人はこの店で使っているランタンやランプを作っている職人で…この度免許皆伝と相成ったので、私もそろそろ歳ですし、このお店をどうするか考えていまして、結を跡継ぎとして迎え入れようという話になったんです。」
 やはり、この店の跡継ぎを孫娘に任せるということであれば、俺は用無しということになるのではないか。嫌な想像が頭をよぎった。まぁ、ここまで素性のわからない俺をそばに置いてくれたのだから、もしそうなったとしても受け入れよう、と俺は勝手に覚悟を決めた。
 しかし、ここまでは嬉しそうに話していた晴吉さんが、ただ、と溜息をつく。
「結は、料理全般からきしでして…これでも花嫁修業に料理を習わせてみたんですが、どうにも…よく言えばとても、おおらかな味になってしまって、この店で出すドリンクを作れるとはとてもとても…」
 結さんは恥ずかしそうに頭を搔いているが、それほど深刻には捉えていないようにも見えた。
「どうしてでしょうね…なんだか味がどれも同じぼんやりした感じになってしまうというか…お料理って難しいですよね。」
 どうしてどれも同じ味になるのか、いっそ作り方を見てみたい気もするが。晴吉さんはやれやれと首を横に振る。
「想送燈の明かりを作る方がよほど繊細で難しいと思うんですがね…。とはいえ、結にこの店を任せるのは、すぐには難しいと思っています。最近は想送燈の依頼も減って、ほとんどが喫茶の利用ですしね。」
 晴吉さんは少し寂しそうに言った。確かに、ここで働いて2週間、想送燈の依頼があった場面には出くわしていない。
 そこで、と晴吉さんは俺に向き直る。
「透哉君に、喫茶の部分をお任せできないかと思いまして。」
「は…い?」
 思わぬ話に一瞬思考が止まる。俺の様子に気づいたのか晴吉さんはおっといけないと咳払いをする。
「もちろん、私が即隠居するわけではないですが、徐々に店主の仕事は結に任せたいと思っています。ただ、結は先ほど申し上げたように、想送燈に関すること以外にはあまり関心がないので、喫茶の仕事を継続するのは結1人では難しいのです。」
 結さんが眉を下げてしょんぼりしながらまたショコラショーを一口飲む。そして、落ち込んだ気持ちを忘れたようにふわりと笑った。心臓が強いのだろうか。やれやれと首を振りながら、晴吉さんは続ける。
「ですので、当面は、想送燈の仕事と店の雑務は結に、喫茶の仕事は私と透哉君でできればなと考えたんです。当然、最初の約束はそのままに。透哉君自身で、透哉君の進む道を決められるまでは、です。」
 最後の言葉に結さんは首を捻る。詳しい話はまだあまりされていないらしい。晴吉さんなりの配慮だろうと思った。
 俺自身が納得して自分の行く道を決められるまで、ここにいていいと言ってくれたのは晴吉さんだ。出会って間もないが、晴吉さんが約束を違えるわけがなかったなと、ほっと息をついた。
「晴吉さんがそう決めたなら、俺はそれで構いません。これからも置いていただけるのは、とてもありがたいです。」
「そうですか。それはよかった。こちらこそありがとうございます。透哉君がいなかったら、仕事がとんでもなく増えてしまうところでした。」
 晴吉さんは嬉しそうに笑っていった。結さんは、立ち上がって言う。
「これから、よろしくお願いしますね、透哉さん。」
「はい、よろしくお願いします。結さん。」
 互いに下げた頭を上げて目が合うと、結さんはにこりと笑った。柔らかく、穏やかな笑顔だった。

 結さんがやってきてから1週間経った。わかったことといえば、彼女は意外にも、とても気がつく人だということだ。接客をしていて、俺が上手く受け答えできないときも、さり気なく間に入って会話を引き継いでくれる。本人が意識してやっているのかどうかわからないが、俺にはそれがありがたかった。持ち前のおおらかさで人を包むような優しさがあり、帰る頃にはお客さんも彼女のペースに飲み込まれているような、不思議な魅力のある人だった。

 その日は、珍しく晴吉さんが少し遅れて店に降りてきた。何かあったようで、申し訳無さそうな顔でこちらを見た。
「透哉君、結、申し訳ないのですが、今日はお店を任せてもいいですか?知り合いから急に呼び出されまして、1泊必要なものですから…」
 どうやら、急な用件で予定をずらすことが難しいらしい。もし厳しいなら臨時休業でも構わないと言ってくれてはいるが、いつまでも晴吉さんに頼り切りというのも申し訳ない。
「俺は大丈夫です。ラジオで今日は夕方から雨って言ってましたし、お客さんも少ないでしょうから、ドリンクは俺一人でさばけると思います。」
 結さんも頷いて、
「想送燈の依頼があっても私がなんとかするからおじいちゃんは心配しないでね」
と言った。そうは言っても、結さんが来てからも想送燈の依頼はない。たまに一元のお客さんがランプを珍しがるので、説明はするが、大抵は受け流されて終わりだった。
 晴吉さんは心配なのか、眉を下げて笑った。
「そうですか。では任せましたね。明日の夕方までには帰ってきます。明日は定休日ですからゆっくりしていてください。」
 そう言って、そそくさと部屋に戻り、荷物を持って出かけてしまった。

 晴吉さんがいない状態で店を開くのは初めてだ。改めて、教えてもらったことを書き留めたメモを読み返す。これからしなければならないことは…
「透哉さん、朝ごはん食べませんか?」
「へ…あ、そうですね。」
 結さんの明るい声に頭を上げるとにっこりと微笑まれた。なんだか、そんなに心配しなくても大丈夫だと言われているようで、恥ずかしくなった。
 晴吉さんみたいに凝ったものは作れない。確か、八百屋のおまけでもらったナスがあったはずだ。ご飯を炊き、味噌汁の出汁をとる。今日の具は、余りの豆腐と海苔にしよう。ナスは油を多めに敷いて、焼き目をつけ、少しだけ唐辛子を加えた甘辛のたれに絡める。
「透哉さんって」
 すぐ後ろから声がしてびっくりする。結さんがいつの間にか厨房にいて、俺が料理する様子を眺めていたらしい。
「すごくお料理上手ですよね。手際がよくて。おひとり暮らしだったんですか?」
 その質問にどう答えればいいかわからず、ちょっと言葉に詰まる。結さんはそれに気が付いたのか、
「ごめんなさい。いきなり踏み込んだ質問をしてしまって。答えたくないなら大丈夫ですよ。」
と言ってくれたが、答えたくないわけではない。少しだけ、逡巡する。晴吉さんはどうやら俺の記憶については結さんに伝えていないらしい。この先も、この人と一緒に暮らして働いていくのなら、いずれは話さなければいけないことだろう。
 焦げそうになっていたナスを火からおろして、器によそいながら、なんでもない風を装って言ってみる。
「答えたくないのではなくて、答えられないんです。」
 結さんは不思議そうな顔をしている。俺は、晴吉さんに拾われた経緯を結さんに話した。上手く話せたかはわからない。
「だから、俺は、俺自身がどうするべきかわかるようになるまで、ここにいたいと思ってるんです。」
 結さんは、ただじっと黙って俺の話を聞いてくれていた。二つの盆に、二人分の朝食ができる。どうぞ、と結さんに渡せば、ありがとうございますと受け取って、結さんはカウンターに座った。俺は、1つ席を空けて、隣に座る。
「そっか…そうだったんですね。」
 ぽつりとつぶやいた結さんの声は、いつもと違って少し沈んでいるように感じて、隣を見る。その時にはもう、いつもの結さんに戻っていて、
「話してくれて、ありがとうございました」
と言った。何だったのだろう。問いかけてもいいものか迷っているうちに、
「おいしそう!食べましょうか。」
と、言われてしまった。俺の、勘違いだっただろうか。少し首を捻りながら、小さくいただきますと言って、味噌汁を一口飲んだ。

 予報通り、夕方からぽつぽつと雨が振ってきた。二人でなんとか開店準備を済ませて看板を出すと、早速、大きなおなかを揺らして常連の吉野さんがやってきた。
「あれ?今日は晴吉さんいないんだねぇ。」
 ゆったりと話す吉野さんは、ほぼ毎日店に顔を出してくれる。いつも、アールグレイのミルクティーを頼んで、結さんや晴吉さんと会話に花を咲かせて真夜中に帰っていく。
「吉野のおじちゃん、こんばんは。同じのでいいですか?」
「うん。吉野スペシャルね。」
「透哉さん、アールグレイミルクティーお願いしまーす。」
「吉野スペシャルだってば。」
 そんな二人のやり取りを笑いながら受け取って、ミルクティーを淹れる。ちなみに、吉野スペシャルは何がスペシャルかと言うと、こんもりとクリームを盛るのだ。そろそろ体にも気をつけなさいとよく晴吉さんに怒られてクリームの量を減らされているが、今日はちょっとだけ、サービスしてあげようか。
「お待たせしました。」
「わぁ、これだよこれぇ。ありがとうねぇ。透哉君。」
 クリームのサービスに気が付いたのか、吉野さんはとても幸せそうに笑ってカップに口をつける。見事につくったクリームの口ひげに、結さんがクスクスと笑っていた。
 結さんは吉野さんと話しながら、カウンターの隅で想送燈の燃料の配合を試しているようだ。
 あかりやのカウンターは厨房につながるスペースと、想送燈を作るスペースとで二つに分かれている。結さんはもっぱら、そちらに座って、ランタンのデザインをデッサンしたり、いろんな燃料配合を試したりしながら、お客さんの相手もしていた。
「今日はお客さん少ないねぇ。」
「あ、吉野のおじちゃん、そういうこと言うと忙しくなるんですよ。ちょっと面倒なお客さん来たりとか。」
「まぁ、忙しくなるってことは繁盛するってことだから、いいことじゃない。」
 なんて、会話をそばで聞きながら、のんびりコップを磨いていると、カランッとドアベルが鳴った。どうやらジンクスは当たるらしい。
「いらっしゃいませ。」
 入口に立っていたのは、黒髪を可愛らしく結い上げ、花柄の振袖にえんじの袴、編み上げのブーツを穿いた、ハイカラな女学生だった。まだ開店間もないから女学生が歩いていてもおかしくはないのだが、普段来る客層とは随分違うので困惑する。身なりを見るに、かなりいいところのお嬢様だろうが、誰かおつきの人とかはいないんだろうか。
 少し勝気そうな釣り目の彼女は、つかつかと俺の方へ向かって歩いてきた。その勢いに、少しだけ驚く。
「ここで、ランタンを作っていただけると伺いましたの。」
 やっぱり、ジンクスは当たるらしい。よりにもよって、晴吉さんがいないときに想送燈の依頼が来るとは、一瞬返事に詰まった俺に、女学生は苛立ったのか、釣り目でキッとこちらを睨んだ。
「想送燈のご依頼ですか?」
 そこに結さんのやんわりした声が入る。女学生はすっと目をそちらに向けた。
「それでしたらこちらにどうぞ。」
 にこりと結さんは微笑む。吉野さんはテーブル席の方に移動したようだった。
 女学生はまた私を睨んだ後、つかつかと結さんの前の席に腰をおろした。
「まずはお飲み物でもいかがですか?何かお好みは?」
 メニューを差し出しながら、結さんは女学生に語りかける。誰にも心を開くまいとしているかのような女学生のこわばった表情が、メニューを見て少し緩まる。結さんはニコニコ笑いながら、それを見守っている。俺には到底できない芸当だった。
 少しすると、女学生の目がメニューの1点で止まったように見えた。
「あ、もしかして甘いものお好きですか?当店のプリンは口当たりなめらかでおいしいですよ。」
 結さんの言葉に女学生の頬がカッと赤くなった。
「べ、別に洋菓子など好んでおりませんわ。甘いものは体に毒ですもの。お母様からも食べすぎてはならぬと…」
 プリンを選ばない理由を並べてはいるものの、それは逆に食べたい理由を言っているのと同じように聞こえた。
「ここにお母様はいませんし、プリン1個は食べすぎになりませんよ。ほら、あのお客さん、毎日ミルクティーにシロップをたっぷりいれて、さらにクッキーまでたくさん食べてますから。それと比べたら、ね?」
「ひどいよぉ、結ちゃん…」
 流れ弾を喰らった吉野さんが情けない声を上げた。そちらを見て、またメニューを見て、女学生はこほんを咳払いをした。
「そんなに勧められるのでしたら、プリンをいただきますわ。」
 注文した声は心なしか、弾んでいるように思った。
 プリンは、晴吉さんからはじめに作り方を教わった甘味だった。いつも開店前にまとめて作る。冷蔵庫から出したプリンを台付きの硝子皿にトンっと叩いて出せばカラメルソースのドレスをまとって、ゆらゆらダンスを踊りながら黄色いプリンが出てくる。すもはいっていない、なめらかなくちどけの甘味はあかりやのひそかな人気メニューだった。
 あぁ、そうだと思い付きでクリームを乗せた上に、花形のクッキーを添える。珍しく手に入った紅イモを使って、赤く色づけたクッキーだ。試作品として今吉野さんにも食べてもらっている。彩りも可愛らしく仕上がったと思う。気に入ってもらえるだろうか。
「どうぞ。」
 プリンを見て、女学生の目にキラキラと光が見えた気がした。お客さんに注文された品を出すこの瞬間、俺は毎回、少しほっとする。望みのものが手に入ったと、認められた気がするからだろうか。
「これは、サービスです。」
 コトリと紅茶のカップをおく。不思議そうに首を傾げた女学生に、外は冷えていたでしょう。と言うと、何故か顔を赤くして目を逸らされてしまった。この年頃の女性は難しい。以前の俺なら上手く対応できていたんだろうか。ともかく、俺の仕事はここまでだと、その場を離れて、グラス磨きに戻った。
「いただきます。」
 と、控えめな声が聞こえて、やはり少し気になってそちらに目を向ける。女学生は、プリンを一口、口に含むと、ふにゃりと顔を緩ませて笑った。それは年相応の可愛らしい笑顔だった。
「おいしいでしょう?これ、彼が作ったんですよ。」
 結さんが話しかけると、驚いたように女学生がこちらを向いた。軽く会釈で返すとまたすごい勢いで目を逸らされる。どうすればいいんだ。その様子を結さんは相変わらずにこやかに見守っていた。

「さて、想送燈のご依頼とのことですけど」
 プリンを食べ終わると、結さんが女学生に話しかける。女学生はすっと背を延ばして結さんを見つめた。
「昔、おじい様が、おばあ様を亡くされた時にやっているのを見て、お聞きしましたの。想送燈は昔ならどんな家でもやっていたと。これは、気持ちの区切りをつけて、前を向くために必要な灯だって。そして灯された蝋燭は、とても美しかったのを覚えておりますわ。それで、私も作りたいと思いましたの。でも、今はどの蝋燭屋を当たっても、それを作れる人がいないというお話で、探しておりましたところ、こちらで想送燈と同じようなランタンを作ってくださると聞いて伺いましたのよ。」
 結さんはうんうんと話を聞いている。
「それで…私にそのランタンを作ってくださらなくって?」
 女学生がそういうと、結さんは頷いた。
「想送燈を作ることは可能です。おじい様からどのように話を伺っているかはわかりませんが、想送燈をどうやって作るのかはご存じですか?」
「えっと…詳しいことは伺っておりませんわ。ただ、自分ではどうしようもないような気持ちがある時に、作ってもらって火を灯すものだと。」
 結さんがそうかそうかと頷いて、いくつかの道具を女学生の前に出した。
「少し、説明になっちゃいますけど、必要なことなので、我慢して聞いてくださいね。」
 そう前置きしてから、結さんは話を続ける。
「これが、ランタン。ランタンは燃料を入れる容器と、芯を固定する蓋、傘に分かれています。まあこれは、自分が気に入ればなんでも大丈夫です。」
 そんな適当でよかったのか…。という突っ込みは今はしないでおこう。
「そして、想送燈で大事なのが、芯と、燃料です。普通のランタンの芯は木綿の物を使いますが、想送燈の芯は特別に漉いた和紙を使います。燃料は私がお客様からお話を伺っていきながら調合します。」
 そこで、女学生ははっとした。
「その、お話というのは、どういうことですの?」
 声が少し固くなっている。
「想送燈を作るに至った物語、あなたの心につっかえている気持ち、それから、もしかしたら、あなた自身も気づいていないかもしれない、本心。そういったことを伺いながら、あなただけの灯を作っていくのが、私の仕事です。」
 結さんはまっすぐに言った。
 けれど女学生はみるみる顔を赤くしてバッと立ち上がった。
「そんな見ず知らずのあなたに話せるわけないじゃない!私はランタンだけ作ってくれれば良いのよ!そうすれば…っ!」
 女学生の言い分はもっともだ。俺も、想送燈の作り方を詳しく晴吉さんから聞いた時、そんな方法で作りたい人がいるんだろうかと思った。見ず知らず、今会ったばかりの他人に、本心を語るなんて、弱い部分をさらけ出すようで、やりたい人なんていないんじゃないだろうか。
 結さんは、けれども、まっすぐ女学生を見つめて微笑んだ。
「大丈夫。無理に聞き出すようなことはしませんし、言いたくないことは言わなくていいんです。想送燈を作りたい、まずは、そう思った気持ちを、教えてください。」
 穏やかな声だった。母が子をあやすような。木漏れ日のような。不思議な声だと思った。誰かに似ている。そうだ、晴吉さんだ。チクチクととげを出して、周りを近づけまいとする心を、そっと撫でさすって、溶かしてしまうような柔らかな声。音の高さは全然違うけれど。彼女の声は晴吉さんによく似ていた。
 振りかざした勢いをいなされた女学生は、どうすればいいのかわからなくなったのか、顔を真っ赤にしたまま、バンっとテーブルにお代だけ置いて、
「もう結構よ!」
と、店を出ようとした。ドアに走り去っていく彼女の背中に結さんは言う。
「私、結って言います。いつでも待ってますからね。」
 変わらない穏やかな声でそう呼びかける。女学生は一瞬立ち止まったが、すぐドアを開けて外に出てしまった。カラン…ッ、カランと閉まった勢いでドアベルが2度鳴る。
 外はまだ雨が降っているようだった。彼女は大丈夫だろうか。結さんを見やると、穏やかな笑顔を浮かべて、
「大丈夫。彼女、多分明日…は定休日だから、明後日にはまた来ますよ。」
と、言った。なぜそんなにはっきりと断言できるのだろう。俺にはよくわからなかった。
 ちなみに、彼女がカウンターに置いていったお金は、プリンの代金にしてはかなり高額で、結さんと顔を見合わせてしまった。このお金で、プリンが20個は買えてしまう…。

 翌日帰ってきた晴吉さんに事の顛末を伝えると、晴吉さんもそうですか。と穏やかな笑みを浮かべて、
「結がそう言ったなら、その通りになるでしょう。」
と言っていた。この二人には、なぜかわからないが確信があるらしい。想送燈に関わる者の勘、なのだろうか。もう少し話を聞いてみたいと思ったが、晴吉さんは結さんに呼ばれて、部屋に行ってしまって、それ以上は聞くことができなかった。

 その次の日。
「いらっしゃいませ。」
 カランと鳴ったドアベルに顔を上げると、そこには俯いたあの女学生がいた。ぱっと、隣にいた晴吉さんを見る。晴吉さんは全てわかっているというように俺にウィンクをした。
「こちらへどうぞ。」
 女学生は、あの勢いはどこへやら。力なくとぼとぼと歩いてカウンターについた。
「あの…」
 小さな声で、晴吉さんを呼ぶ。
「はい、ご注文でしょうか?」
「いえ。あの…結という女性の方はいらっしゃるかしら?」
 そういえば、結さんは、昼から自分の部屋に引きこもって、何か作業をしているようだった。開店時間には間に合うと思っていたのだが、まだ来ていないようだ。
「あぁ、結とお約束でしたか。もう少しで来ると思いますよ。その間に、プリンでもいかがですか?」
 ぱっと顔を上げた女学生は晴吉さんを見、そして何故か隣の俺を睨んだ。なんなんだ。
 結局女学生は今日もプリンを注文した。今度はプリンの周りにリンゴの甘露煮を花びらのように添えて出してみる。皮の色が映った赤色のリンゴはバラの花びらのようだ。女学生の表情を見るに、今回も、好みから外れてはいなかったようだが、また睨まれてしまった。嫌われてしまったのだろうか。
 女学生がプリンを食べきるころ、結さんが店に降りてきた。手には大事そうに包みを持っている。
「あ、この前はどうも。来てくれたんですね。」
 結さんは変わらず穏やかに笑って女学生に話しかける。対して女学生は、この前の別れ際があんなものだったせいか、気まずそうに目を逸らしてえぇ、と言った。
「お茶でも淹れましょう。あ、サービスですからお気になさらず。」
 晴吉さんの言葉に女学生はおずおずと頷く。
「透哉君、香草茶を淹れて差し上げてください。」
 晴吉さんの言葉に頷いて、ずらりと並んだ缶の中から香草茶の缶を取り出す。これは、あの日俺が晴吉さんに淹れてもらったものだ。
 晴吉さんの愛用している茶釜で沸かしたお湯をゆっくりティーポットとティーカップにいれてあたためる。そのお湯をいったん捨て、茶葉をティーポットに入れる。草だけでなく花も入った茶葉は見た目にも美しい。まるで野原を詰め込んだようだと晴吉さんに言ったら、嬉しそうに笑っていた。茶葉の入ったティーポットにゆっくりとお湯を注ぐ。最初は草の青々しい香り、次第に花の甘い香りが広がってくる。香草茶の風味が出るには紅茶や緑茶よりも時間がかかる。じっくり時間をかけて淹れたお茶を硝子のティーカップに注ぐ。黄金色のお茶は透き通ってさわやかだ。
 淹れたてのお茶を女学生の席に運ぶと、すでに想送燈を作る準備が整っているようだった。この前と同じように道具が並べられている。結さんの前には燃料の材料が入った小瓶がずらりと並んでいた。
 最後に結さんは、女学生の前にコトリと持っていた包みを置いた。丁寧に開かれたそれは、小ぶりで可愛らしいランタンだった。傘も硝子でできていて、ところどころに花の意匠がちりばめられた、美しいランタンだ。
「…きれい…」
 思わずといったように女学生は呟く。しばらくそのランタンを眺めたあと、
「これ、貴方がお作りになったの?」
と結さんに尋ねた。
「結でいいですよ。そうです。気に入っていただけましたか?」
 結さんは誇らしげだ。女学生は素直にコクンと頷いた。それから不安そうになる。
「あぁでも、私ランタンがお幾らくらいするかなんてわからないわ…今日の手持ちで足りるかしら…」
 そう呟いた女学生に結さんはハッとして晴吉さんを見る。焦ったような表情を見るに、おそらく採算度返しで作ってしまったのだろう。晴吉さんは仕方ないというように笑いながら、
「今後も、当店をごひいきにしていただけるなら、特別価格でお作りします。そうですね。こないだいただいたプリンの代金は差額がございましたから、それを差し引いて、今日のお代はプリン1つ分で大丈夫ですよ。」
と言った。
「そんな少額で良いんですの…?」
 女学生は首を捻っていたが、本来正規で定めている想送燈のお金と同じくらいのお金をすでにもらってしまっている身としては全力で頷く他ない。女学生はでしたら良いのですけど…と納得したのか、お茶を一口飲んで、ほうっと息を吐いた。口には合ったようだ。
 コトッと小さな音を立ててコップが置かれると、それが合図だったかのように、女学生は口を開いた。

 あぁ、まだ名乗っていませんでしたわね。あ…名前だけでよろしいの?私は梓と申します。
 この前はご無礼をいたしました。私、後先考えずに無神経なことを言ってしまって…悪い癖ね。本当にごめんなさい。あれから、考えたのですけれど、やっぱり私が前に進むには、想送燈を作っていただく他ないように思いましたの。自分自身で、気持ちの整理がつけられればそれが一番良いとは思っていますのよ。でも、どうしても、できなかったんですの。私が…私が、弱いからかしら。
 そんなことないって言ってくださるのね。私のお父様もお母様も、きっとそうは言ってくださらないわ。そう言ってくださったのはきっと、おじい様だけね。おじい様はいつも私にお優しかった。そして、お父様やお母様は、おじい様を古臭い考えの前時代人だと、そう思っておいでだったわ。
 勘違いしないでいただきたいの。お父様もお母様もとても立派な方だし、私を大切に思ってくださるわ。私が淑女として正しいふるまいを身に着けるために、厳しくご指導してくださるの、全ては…いつか、家にとっていい殿方との縁を得て、嫁ぐために。全て私のためですわ。両親に不満はないのよ。
 ただ、時々、苦しくなるの。胸のここが、ぎゅうっと何かに締め付けられるみたいに。私は、何のために生きているのかしらって。そういう時は決まって、おじい様のところへ行って、ほこほこしたお日様のようなお膝にうずまって、わんわん泣くの。おじい様は決まって、梓は優しくて賢い子だから、人より何倍も傷ついてしまう。けれど傷ついた分を人に返してはいかんぞ。傷ついた分はほら。これで直すんだ。って、金平糖をくださるの。金平糖なんかで傷が治るのかしらって、幼いころはよくわからなかったけど、今なら、かっとなってしまう私の性格も、全てご案じになって、人にぶつけるのではなく、自分で治す方法を見つけなさいと伝えてくださっていたのね。それに気が付く前に、おじい様は…星になってしまわれたわ。
 辛くて、悲しくて、どうしようもなくて、そんな時、女学校のお友達が親身に話を聞いてくれたの。その子も、戦争でお兄様を亡くされたばかりだったわ。境遇が似ていたせいかしらね。彼女とはすぐ仲良くなりましたわ。二人でよくカフェに行ったり、本屋に行ったり、知ってらっしゃる?交換日記もいたしましたわ。互いにその日なにがあったのか日記に書いて渡すの。二人だけの秘密の日記よ。…楽しかったわ。二人ともきっと、ぽっかり空いてしまった心の穴をふさぎたくて、ずっと一緒にいた…。
 あるときね、学校の終わりにいつものように彼女と帰ろうと思ったら、彼女が塞いだ顔をしていたから、どうしたのか聞いたの。彼女、泣きそうな顔で、縁談が来たわって。私は驚かなかった。許嫁がいる子なんて珍しくなかったし、名家の淑女たるもの、いい家に嫁ぐのが使命ですもの。
 でもきっと、彼女はそうは思っていなかったのでしょうね。そう思ったから私、彼女の話をよく聞いたわ。どんな家のご子息で、写真はいただいたのか、どういう方だって説明されたのか。私は、いいご縁だと思ったの。だからそう言ったわ。いいご縁じゃないって。それが、彼女をどんなに傷つけるのかもわからずに。そこで、彼女が何か言い返してくれたら、私、こんな気持ちにならなかったのかしら。いいえ。それじゃ、彼女に責任を押し付けるみたいね…。
 彼女、それを聞いて少し俯いた後、笑って、そうよね。いいご縁よね。って、そう言ったの。私は同意して、お見合いも頑張らなきゃね、どんな振袖を着るの?っていろんなことを聞いたわ。今、その時に帰れるなら、自分の口を思い切り塞いでやりたいわ。このわからずやって。
 そのあと、彼女は学校には来なくなったわ。先生からはご縁談がまとまったから彼女は学校をやめることになったとだけ聞かされた。随分急ぐのねと思ったけれど、それだけだったわ。私は手紙を送ったのだけど、1度だけ『ありがとう、あなたのおかげで決心がついたわ。』と、それだけ返ってきて、あとは返ってこなかった。私はきっと、輿入れの準備が大変なのねと能天気に考えていたわ。今思えば、そんなに急いで輿入れなんてしなくてもよかったはずなのに、きっと、何かご事情があったのね。彼女が思いつめていたのも、ご家庭のこともあったのかもしれないわ。今となってはわからないけれど…。
 それから、どのくらい経ったかしら…気になって私、彼女に手紙を送ったの。お忙しいとは思うけど、輿入れの準備は順調なの?遠くに行かれる前にまたお会いしたいわって。そうしたら、手紙が返ってきたの。彼女からじゃなく、彼女の母親から。『娘は昨日、嫁ぎ先で死にました。』って。
 意味が分からなかった。その手紙には別の封書も入っていた。彼女の字で『梓さんへ』と書かれた。そこに書いてあったのは…ごめんなさい。言えないわ。これはきっと、他の方へ言っていいものじゃないもの。
 ありがとう。ごめんなさい。みっともなく泣いてしまって。えぇ…。もう大丈夫よ。
 私、それからずっと…わからないの。自分の気持ちが。友達がいなくなってしまって、とても悲しかったわ。それ以上に、もしかしたら…もしかしたら私のせいで彼女は死んでしまったんじゃないかって、申し訳なくて、怖くて…。もしそうなら、どうしてあのとき、彼女は私を責めなかったのかしら。そんなこと言わないでって言ってくれなかったのかしら。いいえ、私が彼女のことをもっと見て、気遣ってあげれば…それも、おこがましいわね。私、あの時、本当に嬉しかったのよ。彼女にいいご縁が来たんだって。でも、私はあの時、彼女の幸せなんて考えていなかった。考えていたのは「女の幸せ」だったのかもしれないわ。そんなんじゃ私…いいえ、なんでもないわ…。
 あぁ…そうね、嬉しかったのは本当よ。本当だけれど、でも、今思えば少し彼女をやっかんでいたのかもしれないわ。私より先に嫁ぎ先が決まるなんてって。そのとき、私にもお見合いの話が来たのだけれど、素気無く断られてしまったから。おじい様にあれだけ言われていたのに。自分が受けた傷を、人に返してはいけないって。だから、罰が当たってしまったのかしら…だとしたら、どうして彼女が傷つかなければならなかったのかしら…私だったら…よかったのに。
 後悔すればいいのか、自分を責めればいいのか、彼女を責めればいいのか…悲しめばいいのか、怖がればいいのか、わからなくなってしまったの。おじい様を亡くしてしまったときとは、違うの。彼女は、一体、どんな顔をして亡くなったのかしら、どんな思いを抱えて亡くなったのかしら…考えがぐるぐる渦巻いて、止まらないの…。

 梓さんの話は、そこで終わった。後には彼女が音もなく流す涙が、机に当たるぽつぽつという音しか聞こえなかった。いつの間にか、レコードは止まってしまっていたらしい。
「…梓さん。」
 結さんが呼びかける。その声は、柔らかく、きっと穏やかな日の光の中で聞く友からの呼びかけのように、梓さんの耳に届いたことだろう。
「これを。」
 結さんが梓さんに、1枚の和紙を手渡す。それは、想送燈の芯になる和紙だった。
「この和紙に、今の梓さんの想いを込めて、息を吹きかけてください。」
 梓さんは震える指で和紙を受け取ると、そっと、口元へ運び、ふぅっと息を吹いた。気のせいだろうか。和紙がほんのり色を帯びた。
 和紙を結さんが受け取り、調合を終えた燃料をいれた瓶に固定する。
「この火が、あなたの想いの光です。」
 すっとマッチで火をつけ、ランタンをかぶせる。それを、結さんは梓さんに手渡した。
 小さく、丸いつぼみのようなランタンの硝子に色はついていない。けれどその炎は、さっき和紙に息を吹きかけたときに見た、夕日と夜空が混ざる合間のような、儚げな色に淡く光り、きらきらと梓さんの涙に濡れた瞳を照らした。灯が、梓さんに何かを語りかける。その光景は、切なくて、ただ、美しかった。
 梓さんはそっと、ランタンを胸に抱く。
「私…私…っ、寂しいの…あなたがいなくなって…寂しかったのよ…っ」
 今度は、嗚咽を我慢せずにわんわんと梓さんは泣いた。嗚咽の間に漏れ聞こえた言葉は、彼女がずっと心の奥底にひそめてきた、本当の想いであるように感じた。

 しばらくして、梓さんは照れたように笑って、お見苦しいところをお見せしましたわとお代を置いて帰っていった。この前と同じ金額を。また、想送燈が作れてしまう。
 どうしようかと考えていると、また来た時にサービスしてあげましょうと晴吉さんは苦笑しながら言った。

「あの…」
 閉店間際、晴吉さんと結さんに声をかける。
「いつか、俺に記憶が戻ったら、あんな風に作ってもらえるんでしょうか。想送燈。それが、どんな想いでも。」
 そう言うと、晴吉さんと結さんは一度顔を見合わせた。結さんは、少し俯いて、うんうんと頷く。晴吉さんは、出会ったときと同じように柔らかく微笑んだ。
「もちろんです。透哉君だけの想送燈をお作りします。」
 胸の奥がざわざわとさざめく。何もなくなってしまった、俺の心の中には、どんな想いがあったのだろう。いつかそれを取り戻せたとき、どんな想いが、どんな灯りを作るのだろう。期待とはまた違う気がする。少し怖い気もする。けれど。
「…その時まで、よろしくお願いします。」
 深々と頭を下げた俺に、晴吉さんと結さんが、優しく微笑んでくれた。二人はやはり、陽だまりのような人だと思った。


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