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Ahmetの優しさと、夫の無邪気と、わたしの圧力鍋

イスラム教の中でとても大事な行事の一つであるクルバンバイラム(犠牲祭)が終わりました。

少し前まで街のあちこちで羊ややぎが歩いていたのに、終わってしまうと何事もなかったような日常が戻ってきます。

ただし、冷凍庫の中を除けば。


先日、夫の友人Ahmetが実家から1泊二日で帰ってきました。
実家までは車で3時間ほど。
そのくらいの距離だからできることなのでしょう。

彼は、お裾分けとして冷凍したクルバン肉を持ってきてくれました。

ありがたいです。

本当にありがたいです。

ただ、問題はその後でした。


夫が体調を崩す前のことです。

「食べようよ」

夫がそう言うので、もらった肉のうち一袋を解凍しました。

袋の中には、クシュバシュ(kuşbaş)のような肉がごろごろ入っていました。
クシュバシュ(kuşbaş)というのは、日本人の感覚で言うと、カレーやシチューに使う煮込み用の角切り肉です。

わたしは肉を見た瞬間に思いました。

「これ、硬いんじゃない?」

すると夫は言いました。

「いい肉だから大丈夫。ソテーで食べられるくらい柔らかいよ」

そうですか。

そこまで言うなら。

しかし、わたしは長年の経験から知っています。


夫は悪くありません。

たぶん本当に、ソテーでいけると思っていたのでしょう。
ただ、肉を見て「これは煮込み向きだな」と判断するところまでは、考えていなかったのだと思います。
肉を見て、ソテーが食べたいという暗なリクエストだったのかもしれません。

そもそも論、彼は煮込み用の肉がなぜ柔らかくなって食卓の上っているか知らないのです。

食べる人の「大丈夫」と、料理する人の「大丈夫」は違います。

そこで夫が外出している間に、極秘実験を行いました。

肉を2切れだけ焼いてみたのです。

結果。

バリカタでした。

勝負ありです。

夫は悪くありません。
たぶん本当に柔らかいと思っているのでしょう。

肉の評価基準が違うのかもしれません。

不思議なのは、トルコでは野菜はかなりクタクタになるまで調理することが多いということです。

パスタも、日本人の感覚からするとかなりやわらかいです。

それなのに、肉は硬くてもいいのか。

そこだけ急にワイルドです。

多分そんなことないと思うけど…。


料理をするのはわたしです。

全部圧力鍋行きが決定しました。
圧力鍋でしっかり下処理した肉は、その後いろいろな料理に転生しました。

一部はブルグルに入りました。

圧力鍋で下処理したお肉を
オリーブオイルとバターの海で表面をカリッと仕上げます。
今回は隠し味程度にトマトペーストを投入。
間違いなくブルグルマイスターになれた


一部はクルファスリエに投入されました。

玉ねぎと下処理した出汁(?)も合わせました。
トルコ家庭料理はあんまりわやわや複雑な味より
スッキリした方がいいのはわかっていたのですが、
勿体無いじゃん、いい出汁があるのに。
美味しかったです。


こうして少しずつ消費していきます。

クルファスリエに入った肉を食べた夫が聞いてきました。

「これ、Ahmetからもらった肉?」

そして、うまいと言いました。

そうでしょう。

Ahmetの肉が新鮮だったのは確かです。

でも、それだけではありません。

うまいのは、わたしのひと手間です。

ここは譲れません。

その様子を見ながら、ふと思いました。

これ、お正月のおせちの残りと似ているのではないでしょうか。

元日はごちそうです。

でも数日後には、

「黒豆どうしよう」
「かまぼこ残ってる」
「栗きんとんまだある」

となります。

みんな味を変えたり、別の料理に混ぜたりしながら、一生懸命片付けているのかもしれません。

クルバン肉も同じです。

宗教も文化も違います。

けれど、行事が終わった後に冷蔵庫の前で頭を悩ませる人間の姿は、案外変わらないのかもしれません。

もっとも、今回の話の本質はそこではありません。

Ahmetは優しかったです。

肉はありがたかったです。

圧力鍋も素晴らしかったです。

しかし、一番大事なことは別にあります。

肉を見た瞬間、

「これ硬いぞ」

と思ったわたしは正しかった。

実験の結果、肉はバリカタでした。

その事実だけは、ここに記録しておきたいと思います。

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さるぱんちゃん|アメリカからトルコに移住した人 もしこの記事が、少しでも役に立ったり、何かのきっかけになったら、チップという形で応援してもらえたら嬉しいです。