マキアートの夜にー風まかせ文芸部
店内はもう静かだった。
時計の針の音が
やけに大きく聞こえる。
ネージュはカウンターの向こうに立っていた。
湯気に包まれながら、まるでそこに存在しているということ自体が、奇跡のように儚い人だった。
ノワは一歩だけ近づいた。
けれど、触れない距離。
その距離は彼が最後まで
守り続けた純度だった。
ネージュは、気づいている。
ノワが言葉を選んでいることも、
選んでいるのではなく——
削っていることも。
沈黙が落ちた。
ノワは息を吸う。
苦味が胸いっぱいに広がる。
「……俺は、混ざれない。」
それは拒絶ではない。
すでに知っていた真実の
静かな確認。
ネージュは、そっと頷く。
「うん。だから、綺麗なんだよ。」
その一言で、ノワは理解した。
混ざらない黒は、汚れていなかった。
混ざらないことは、孤独ではなかった。
ノワは目を伏せ
ほんの少しだけ息の奥で笑った。
「……消える白に惹かれたんじゃない。触れたら消えるほど、綺麗だったからだ。」
ネージュはまばたきの間だけ揺れた。
それは涙ではなく、温度だった。
ノワは続ける。
「俺は、君に混ざらない。
でも……確かに、君を見た。」
「好き」より深く、
「欲しい」より静かで、
「恋」より広い言葉。
ネージュは微笑まない。
儚さは微笑まない。
「それで、十分だよ。」
ノワは触れないまま、距離を変えないまま、そっと息を吐いた。
「……俺は俺のまま、君を愛す。」
それは
溶けきらない苦味のまま、
白を抱きしめる宣言だった。
触れなくても。
混ざらなくても。
離れていても。
そこに、確かに愛があった。
ネージュは、ゆっくり目を閉じた。
「……だけどね。」
カウンターを回り、
ノワの前へ歩み寄る。
「消えるなら、自分で選びたい。」
白い手が、ノワの頬に触れた。
溶けるような、ほどけるような温度。
「君は変わらない。混ざらない。
だから……消えるまでの間、ここにいさせて。」
その腕は、そっとノワを抱きしめた。
ノワは抱き返さない。
抱き返せば、混ざってしまうから。
「……あたたかい。
おやすみ、ノワ。」
儚さは、泡とともに静かにほどけていく。
ノワは、その消えてゆく顔を見つめていた。
頬を伝う涙が、ひとすじ落ちた。
──そこへ。
「お待たせしました、マキアートです!」
明るい声が、現実を連れ戻す。
ノワの手にあるのはマキアート。
ブラックに、ほんのわずかなスチームミルク。
苦味を生かしたまま、
そっと甘さが触れるだけ。
ノワは一口、飲む。
唇に残る柔らかさが、
夜の余韻を呼び戻した。
(混ざりたかったわけじゃない。
ただ、同じ夜にいたかった。)
カップの湯気が
空へと静かに、ほどけていった。
お読みいただいて、ありがとうございました。本作は風まかせ文芸部さんの企画に参加しております。
私は珈琲が大好きです。
なかでも、ミルクと溶け合うカフェラテを愛してます。
でも、今回描いたのは混ざらない黒と、消えてしまう白の切ない物語。
「混ざればいいじゃない」
描きながら、何度もそう思いました。
でもそれが、それぞれの愛の形であり、
尊重する愛なんですよね。
